滝が好きだ。

みていて飽きない稀有なもの。それが滝だ。旅先で名瀑を訪れると時間のたつのを忘れてつい見入ってしまう。滝ばかりは写真や動画、本を見ただけではどうにもならない。滝の前に立つと、ディスプレイ越しに見る滝との次元の違いを感じる。見て聞いて嗅いで感じて。滝の周囲に漂う空気を五感の全てで味わう。たとえ4K技術が今以上に発達しても、その場で感じる五感は味わえないに違いない。

私の生涯で日本の滝百選は全て訪れる予定だ。本稿をアップする時点で訪れたのは25カ所。まだまだ訪れる予定だ。私が目指す滝には海外も含まれている。特にビクトリア、 ナイアガラ、イグアス、エンジェル、プリトヴィツェの五つの名瀑は必ず訪れる予定だ。

今までの私は滝を訪問し、眼前に轟音を立てる姿を拝むことで満足していた。そして訪れるたびに滝の何が私をここまで魅了するのかについて思いを巡らしていた。そこにはもっと深いなにかが含まれているのではないか。滝をもっと理解したい。直瀑渓流瀑ナメ瀑段瀑といった区分けやハイキングガイドに書かれた情報よりもさらに上の、滝がありのままに見せる魅力の本質を知りたい。そう思っていたところ、本書に出会った。

著者はオーストラリアの大学で土木工学や都市計画について教えている人物だ。本書はいわば著者の余技の産物だ。しかし、著者が考察する滝は、私の期待のはるか先を行く。本書が取り上げるのは滝が持つ多くの魅力とそれを見るための視点だ。その視点の中には私が全く思いもよらなかった角度からのものもある。

例えば絵画。不覚にも私は滝が描かれた絵画を知らなかった。もちろんエッシャーの滝はパズルでも組み立てたことがある。だがそれ以外の西洋の滝を扱った絵画となるとさっぱりだ。本書は絵画や写真がカラーでふんだんに掲載されている。数えてみたら本書には滝そのものを撮った写真は67点、絵画は41点が載っている。それらの滝のほとんどは私にとってはじめて知った。自らの教養の足りなさを思い知らされる。

本書では、滝を地学の観点から扱うことに重きを置いていない。滝が生まれる諸条件は本書でも簡潔に解説されており抜かりはない。滝の生成と消滅、そして学問で扱う滝の種別。それらはまるで滝を語る上でさも重要でないかのようにさらりと記される。そういったハイキングガイドのような記述を本書に期待するとしたら肩透かしを食うことになるだろう。

本書の原書は英語で書かれている。翻訳だ。この翻訳が少し練れていないというか、生硬な文章になっている。少し読みにくい。本書はそこが残念。監修者も付いているため、内容については問題ないはず。だが、文章が生硬なので学術的な雰囲気が漂ってしまっている。

だが、この文章に惑わされて本書を読むのをやめるのはもったいない。本書の真骨頂はその先にあるのだから。

地質学の視点から滝を紹介した後、本書は滝がなぜ人を魅了するのかを分析する。この分析が優れておりユニーク。五感で味わう滝の魅力。そして季節毎に違った顔をみせる滝の表情。増水時と渇水時で全く違う表情を見せる滝。著者は世界中の滝を紹介しつつ、滝についての造詣の深さを披露する。

そして、著者は滝の何が人を魅了するのかを考察する。これが、本書の素晴らしい点だ。まず、滝の姿は人々に大地の崇高さを感じさせる。そして滝は人の感情を呼び覚ます。その覚醒効果は滝に訪れると私の心をリフレッシュしてくれる。また、眺望-隠れ場理論と呼ばれるジェイ・アプルトンの理論も紹介する。この理論とは、眺望の良いところは危険を回避するための隠れ場となるとの考えだ。「相手に見られることなく、こちらから相手を見る能力は、生物としての生存に好ましい自然環境の利用につながり、したがってそうした環境を目にすることが喜びの源泉になる」(72p)。本能と滝を結び付けるこのような観点は私にはなかった。

また、もう一つ私に印象を残したのは、滝とエロティシズムを組み合わせる視点だ。私は滝をそういう視点で見たことがなかった。しかしその分析には説得力がある。滝は吹き出す。滝は濡れる。滝はなだらかに滑る。このような滝の姿から想像されるのは、エロスのメタファーだ。あるいは私も無意識のうちに滝をエロティシズムの視点で感じていて、そこから生命の根源としての力を受け取っているのかもしれない。

また、楽園のイメージも著者にとっては滝を語る上で欠かせない要素のようだ。楽園のイメージを著者は滝がもたらすマイナスイオン効果から結びつけようとしている。マイナスイオンが科学的に正しい定義かどうかはさておき、レナード効果として滝の近くの空気が負の電荷を帯びることは間違いないようだ。マイナスイオンが体をリフレッシュする、つまり滝の周りにいると癒やされる。その事実から著者は滝に楽園のイメージを持ってきているように受け取れた。ただ、マイナスイオンを持ち出すまでもなく、そもそも滝には楽園のイメージが付き物だ。本書は滝に付いて回る楽園のイメージの例をたくさん挙げることで、楽園のイメージと滝が分かちがたいことを説いている。

著者による分析は、さらに芸術の分野へと分け入る。絵画、映画、文学、音楽。滝を扱った芸術作品のいかに多いことか。本書で紹介されるそれら作品の多くは、私にとってほとんど未知だ。唯一知っていたのがシャーロック・ホームズ・シリーズだ。ホームズがモリアーティ教授と戦い、ともに滝へと落ちたライヘンバッハの滝のシーンは有名だ。また、ファウストの一節で滝が取り上げられていることも本書を読んでおぼろげに思い出した。そして滝を扱った芸術といえば絵画を外すわけにはいかない。本書は41点の絵画が掲示されている。その中には日本や中国の滝を扱った絵画まで紹介されている。著者の博識ぶりには圧倒される。日本だと周文、巨勢金岡、円山応挙、葛飾北斎の絵について言及されており、葛飾北斎の作品は本書にも掲載されている。私が本書に掲載されている絵画で気に入ったのはアルバート・ビアスタット『セントアンソニーの滝』とフランシス・ニコルソン『ストーンバイアーズのクライドの滝』だ。

芸術に取り上げられた滝の数々は滝が人間に与えた影響の大きさの表れだ。その影響は今や滝や流れそのものを人間がデザインするまでに至っている。古くまでさかのぼると、古代ローマの噴水もその一つだ。ハドリアヌス帝の庭園の噴水などはよく知られている。また、純然にデザイン目的で作られた滝もある。本書はそれらを紹介し、効果やデザインを紹介し、人工的な滝のありかたについてもきちんと触れている。

滝を美的にデザインできるのならば、滝をもっと人間に役立つように改良できるはずだ。例えば用水のために人工的に作られたマルモレの滝。マルモレの滝の作られた由来が改良の代表例として本書に取り上げられる。他にも水力発電に使われるために水量を大幅に減らされ、滝姿を大幅に変えられた滝。そういった滝がいくつも本書には紹介される。改良された滝が多いことは、滝の本来の姿を慈しみたい滝愛好家には残念な話だ。

人工的に姿を変えられる前に滝を守る。そのため、観光化によって滝の保全が図られる例もある。本書には観光化の例や工夫が豊富に紹介される。私が日本で訪れた多くの滝でも鑑瀑台を設け、歩道を整備することで観光資源として滝を生かす取り組みはおなじみだ。観光化も行き過ぎると問題だし、人によっては滝原理主義のような考えを持つ人もいるだろう。私は華厳の滝(栃木)や仙娥滝(山梨)や袋田の滝(茨城)ぐらいの観光化であれば、特に気にならない。もちろん滝そのものに改変を加えるような観光化には大反対だが。

こうして本書を読んでくると、滝とは実にさまざまな切り口で触れ合えることがわかる。このような豊富な切り口で物事を見る。そして物事の本質を考える。それが大切なのだ。私も引き続き滝を愛好することは間違いない。何も考えずに滝の眼前で何時間もたたずむ愛しかたもよいと思うし、場合によっては滝を考え哲学する時間があってもよい。本書を読むと滝の多様な楽しみ方に気づく。そうした意味でもとても参考になる一冊だ。図書館で借りた一冊だが、機会があれば買おうと思っている。

‘2017/04/21-2017/04/22


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