私が好きな欧米の作家は何人もいる。著者もその一人だ。
「人間の絆」「月と六ペンス」「お菓子と麦酒」は読んだ。おそらく今、新潮文庫で読める作品は読破したのではないか。

だが、本書は光文社文庫から出されている。著作権が切れたからだろうか。おかげで私の読んでいない作品が読めた。ありがたいことだ。

私の好きな英語圏の作家は、ミステリやSF系の作家が多い。だが、著者はミステリやSFのエンターテインメント作家ではない。
さりとて、純文学の分野の作家とくくるのも違うように思う。

著者の短編が魅力を備えている理由は何だろうか。
それはおそらく、著者がきっちりと物語を締めるからではないだろうか。ある種の純文学にあるように読者をあいまいさの中に置き去りにせず、韜晦させたり、迷わせたりしないこと。
本書に収められているような短編のどれもが、起承転結をしっかりと備えている。
だから、物語がきっちりと読者に届く。大衆作家という言い方は好きではないが、著者がそうしたラベリングをされるのもわかる気がする。
かのスティーブン・キングも、著者の愛読者だそうだ。実際、著者の作品を幾度となく小説の中に登場させている。
おそらく、当代でも有数のホラーの大家であり、ストーリーテラーの巨匠も著者の作品から学んだことは多々あるに違いない。

本書に収められた六編は、どれもきっちりと結末がついている。そして、どれもが短編としての結構を備えている。

「ジェイン」

老年に差し掛かったジェイン。彼女は年若い男性から想いを寄せられ結婚する。その夫はいったいジェインのどこに惹かれたのだろう。
語り手とタワー夫人は、その男性が一時だけ気の迷いを見せたのだろうと見限る。そして、どうせ結婚生活も長くは続かないとたかをくくる。
ところが、夫のコーディネートによって不可解な魅力を身につけたジェインは、社交界の名士となる。そして当代きっての人気者となる。

ジェインの変化を疑問に思う語り手とタワー夫人。ところが、ジェインの振る舞いは二人の予想をさらに覆してゆく、というストーリーだ。
本書が出版されたのが1920年代のイギリスであることから、当時の社交界の様子が想像できる。
ジェインのような女性が人気になる程に無味乾燥だったのだろうな、という著者の皮肉めいた考えもうかがえる一編だ。

「マウントドレイゴ卿」

押しが強く、威厳も備えていた若手政治家のマウントドレイゴ卿。彼が精神科医のオードリン博士の元を訪れる。
彼の悩みとは、夢で見た出来事が現実になること。その夢の中では必ず自分が大恥をかくことになっている。そして、その夢の中では政敵であるウェールズのグリフィス議員が必ず登場している。
卿は夢の意味がわからずに、気が狂いそうだという。
落ち着いた物腰と言葉によって治癒の実績を積み上げてきたオードリン博士は、精神科医としての知見からさまざまな治療を施す。だが、うまくいかない。

オードリン博士はこう考える。マウントドレイゴ卿がグリフィス議員の演説に対し、反論を許さないほどの論破をし、それによって政敵に対する無意識の罪悪感があるのではないかと。
だから夢の中で大恥をかいている。その状況を改めるにはグリフィス議員に謝りなさいと説く。そのようなオードリン博士の見立てに対し、そんなことは無理だと言い張るマウントドレイゴ卿。果たしてその結果は。
本編は、著者の持つ心理学の知見を生かし、見事な短編小説に仕立て上がっている。当時、こうした心理学に基づいたプロットは新鮮だったことだろう。

「パーティーの前に」

長女のミリセントの態度がこのところずっと奇妙だ。
八カ月前、夫のハロルドに先立たれ、ボルネオから1人で戻ってきてからずっと。
家族の皆が奇妙に思い、それはミリセントが味わった悲しみのせいだと遠慮している。
家族でそろって出かけようとするある日、それは起きた。ハロルドの私物を少しずつしまい、ハロルドの喪をやめたいと言葉を切り出したミリセント。そんな家族に家族が問いただす。

ミリセントの口から語られたボルネオで過ごしたハロルドとの日々。その内容に一同は衝撃を受ける。
体面と形式が支配していた当時のイギリス社会の世相が感じられるのではないか。
現代から考えるとそれほど問題にされないであろうこと。だが、本編が語られた当時には立派な理由となっていたのだろう。
ミステリの要素を濃厚にたたえた展開がお見事な一編だ。

「幸せな二人」

ミス・グレイの隣家に引っ越してきた若いクレイグ夫婦。
隣人としてのお付き合いをしたいと、何度もミス・グレイが昼食の誘いをかけ、ようやく実現した会食。
語り手である私とミス・グレイ、そしてランドン判事で会食の場に臨んだところ、会食のお誘いに消極的だったクレイグ夫妻の挙動が急におかしくなる様子が描かれた本編。

お隣の方とお茶を楽しむのが英国流。
そうと知っていても、ミス・グレイがここまでして隣人との会食を整えようとする熱意を目の当たりにすると、当時のイギリス文化を知悉していないと理解しにくい。
それがまた興味を惹かれる部分なのだが。

「雨」

かつて、この一編には強い印象を受けた。
あらためて読んでみると、当時とは違った味わいが感じられる。
それは、人の弱さだ。
デイヴィッドソン宣教師は、神の名の下に峻厳な人物として登場する。
だから、島の風紀を乱すミス・トンプソンに対する反応はきつい。

絶え間なくサモアの島に降る雨。閉ざされた環境の中、キリスト教のストイックな教えと規律を拒む享楽がぶつかる。
不況によって島々をあまねくキリスト教に教化しつつあるが、その謹厳な姿勢は、人にとって果たして自然なのかどうか。
本編は人の心のあり方や信仰について深く考えさせられる。

本書の他の作品は、当時のイギリスの文化を知っていないと理解しにくい部分もある。
だが、本編はそれを超えたところを描いている。だから通用する。やはり名編だ。

「掘り出しもの」

本編は、メイドとしてとにかく有能なプリチャードに尽きる。そんなプリチャードを雇うのはリチャード・ハレンジャー。
本編は、ラッキーなハレンジャーが最後まで幸せだったという話だ。
もちろん、本編には起伏のないままに終わりまで進むつまらない話ではない。そこは著者がストーリーテラーとしての腕を振るい、盛り上がりを用意している。

メイドという職業からは、いささか通俗な印象を受ける。これこそがイギリス文化の特質のはずなのに。
私が今の日本の尺度で見てしまっているからだろうか。

‘2019/10/18-2019/10/20


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