著者のデビュー作ともいえる本書をようやく読む。「海の底」「空の中」と本書を合わせて自衛隊三部作というらしい。

「海の底」「空の中」と同じく、本書も災厄に遭う人間を描いている。本書で人類を襲う災厄とは、流星群から落下した塩の結晶。巨大な塩の結晶は、人間を塩に変えてしまう。それは、旧約聖書に出てくるソドムとゴモラの逸話を思い出させる。神によって滅ぼされたソドムとゴモラから逃げるロトの妻は、振り返ってはいけないという教えをやぶって振り返ったために塩の柱とされてしまう。本書134ページで入江が語るのもこのエピソードだ。つまり、著者は明らかに旧約聖書のエピソードを意識して本書を書いたことが分かる。だが、たとえ旧約聖書からの閃きがあったにせよ、滅びのイメージと塩を結びつけたのは著者の慧眼だと思う。

本書は、無人の街を一人行く遼一の姿で始まる。塩に侵され廃虚と化した街並み。徐々に遼一の前に広がる景色の異様さが描かれてゆく。ところどころに屹立する白い結晶。塩の柱。白く染まった町並みに人はほとんどいない。

著者は災厄が世界を襲った半年後からを書く。人が塩と化し、混乱と破壊が街を襲った瞬間を直接書くことはしない。なぜなら本書はパニック小説ではないからだ。普通、パニック小説は人間の弱さに焦点が当てられる。天災や外敵の猛威の中、なすすべもない人間の弱さ。そこに文明に驕る人類の弱さを教訓と当てはめる演出がパニックものによくある。だが、著者はパニックの瞬間を書かない。パニックのさ中の破壊や崩壊による轟音は書かず、壊れるべきものが壊れた後の静寂を書く。パニックが一息ついた後、人の言動に表れるのは弱さよりも脆さ。著者が本書で書こうとしているのはその弱さだ。そしてその脆さとは、塩の結晶の脆さに結びついている。そこに本書の注目すべき点がある。

人類と人類の作り上げた文明の脆さ。インフラが断絶し、あらゆる社会機能が崩壊した社会に林立する塩の柱。脆さを塩のイメージに置き換える想像力こそ本書の肝だと思う。

そして塩にはもう一つの意味がある。それは浄化だ。保存食に塩を揉み込み、盛り塩をして邪気を祓う。古き時代より受け継がれてきた知恵は、塩を浄化の象徴に祭り上げた。

普通、有機物である人体が死ねば即、腐敗が始まる。細菌や虫、野生動物などあらゆる生物が人体を分解しにかかる。腐敗と崩壊が穢れた色で彩られてゆく。その様子は決して気持ちのよいものではない。だが、塩の結晶と化した人間はそのような醜さからは無縁の存在としてあり続ける。遼一が海に帰そうと群馬から持って来た海月の首もそう。それはもはや美にも等しい白く清浄な塩の像だ。醜さとは対極の姿のまま、母なる海へ同化して返ってゆく。そんな遼一と海月の挿話で始まる本書はとても美しい。そんな遼一を世話し、望みをかなえてやろうとする真奈と秋庭の二人の心のあり方もまた美しい。

著者は本書で人間を醜さよりも脆さで扱おうとする。その象徴がScene 2に登場するトモヤだ。塩害に罹って自暴自棄になった彼は、登場するなり本書のヒロインである真奈を犯そうとする。だが、自らの醜さを貫けぬまま秋庭にひねり上げられてしまう。トモヤは自分の人生を悔やみ、許しを請いながら白い結晶と化す。醜さが醜さのまま保ち得ず、脆さに入れ替わってしまうのだ。

そんな本書の世界観は、Scene 3の後に訪れるインターミッションを境に変化する。秋庭と真奈の元に訪れてきた入江。彼の精緻な頭脳とそこから生まれる冷酷な論理。入江の思惑に巻き込まれる秋庭と、真奈の秋庭への愛。二人の男女に訪れる相克が本書の後半を占めるテーマだ。そこにはScene 1と2に見られた人類の脆さはない。むしろ入江に象徴される強さこそが正義。そんな新たな価値観が持ち込まれたようにも受け取れる。醜さすら見え隠れする入江の傲岸さと、真奈のいちずな思い。どちらが最後に勝つのか。著者はぐいぐいと本書を結末へと導いてゆく。

そして本書の色合いが変わったタイミングで、航空自衛隊のエースパイロットとしての秋庭の素性がさらけ出され、一気に本書の筋は剣呑な方向に突き進む。前半とは打って変わったこの展開は、筋書きを優先したものだ。読者によってはその変化に戸惑う方もいることだろう。前半は白や塩のイメージが本書の背後にとても深い懐を感じさせていた。それなのに、後半ではその深みが消え去ってしまうからだ。確かに真奈の秋庭を思う真情は気高く純粋だ。だが、世界なんかどうなってもいい。あの人が無事だったらほかには何も要らない。そんな真奈の思いは独善に通じる。そこから人間の醜さへはあと一歩だ。そして秋庭の活躍で文明はかろうじて滅びをまぬがれ、再建への一歩を記す。つまり物語の先に慣れと怠惰と醜さの支配する文明社会を予感させるのだ。

結局のところ、脆さと醜さの間を行き来しながら存在し続けるのが人類。それが著者の結論なのだろうか。さまざまに余韻を残す結末だ。

本書はいったん幕を閉じる。本書の残りは、秋庭と真奈をめぐる周囲の人物の挿話が収められている。ルポライターを志望するノブオは、秋庭と真奈の旅にしばらく同行する。そして二人の関係や災厄に襲われた世界のあり方を見聞きする。当初は浅い功名心でこの事実を報道するつもりが、心でこの災厄を受け止めてゆく。そんな少年の成長が描かれる話だ。また、続いての挿話は自衛官の由美と正の夫妻が書かれる。この夫妻は本編でも重要人物として登場する。塩の災厄を通じて恋人から夫婦へと絆を固める二人。二人のあり方からは夫婦のあり方の微妙なバランスと、なぜ恋人ではなく夫婦なのかを考えさせられる。男女の心の通い方を描かせれば著者の筆は勢いを帯びる。続いて登場する一編は、入江が塩の災厄で独断で行った処置についての手痛いしっぺ返しだ。入江はその独特なキャラで本書に重要な役割を果たす。が、本編では彼の心の奥底がさらされる。ここで書かれるのは個人の内面だ。あとがきでも著者は一番入江を書くのが難しかったと書いていた。最後の一編では家族のあり方が書かれる。長年確執のあった秋庭と父。その和解が語られ、そして真奈の中には秋庭の子が宿る。胎児は慣れと怠惰と醜さの支配する文明社会とは対極にある存在だ。脆くて清浄な塩のような存在。その存在が真奈の中に宿ったことも著者のメッセージの一つだろう。

最後の四編は言ってみれば本書の筋を囲む周りの話でしかない。本書に登場する人物達をよく知る上では確かに必要だが、あまり本編とは関わりはない。だが、著者のその後の著作を読むと、最後の四編の中に著者のテーマの多くが現れていることに気づく。四編はあとから書き足された話とはいえ著者はデビュー時点でそれらのテーマを扱うことに決めていたのだろうか。私にはわからない。だが、デビューとそれに続く作品に著者のテーマが登場しているのは、著者の作品を読むうえでヒントになる。

‘2017/04/01-2017/04/02


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