新感覚派。文学史では著者をさしてそのように呼ぶらしい。
現代の我々からみると、著者を新感覚派と呼ぶことには抵抗を感じる。むしろ古き良き日本を代弁する作家という印象がある。ノーベル文学賞の受賞スピーチの題「美しい日本の私」を地で行くかのように。

日本の風土の穏やかさ、そしてそれに培われた美意識。近代化されても尚、日本の底には情緒が流れている。著者の文章からは、目に見えぬ日本のたおやかさが見える。

日本の美意識を体現する著者の産み出す文章は、新しくもないが、古びてもいない。19世紀末に産まれたにしては、著者の文章は我々にとってしっくりした馴染みを感じさせる。現代にも通じる練りに練った文章から紡ぎだされる和様の粋は、巨匠と呼ぶに相応しい熟練の技。新感覚どころか、今や喪われた和様感覚を今に伝える作家を超えた存在ともいえるだろう。

著者の作品は何冊も読んできたが、本書は未読であった。著者の作品にストーリーを求めることはない。が、短い掌編ばかりを集めた本書は、著者の情緒の世界にはまれる精神状況でなければ、積極的に手を出しづらいのだ。

本書に収められた掌編は、その数122編。一編一編の長さだけならショートショートと同じくらいだろう。だがSF的設定のもと奇想を駆使するショートショートと、著者が産み出す掌編とは根本からして違う。

新感覚派と呼ばれただけあって、当時としては意表をついた視点から現実を切り取った作品も本書には納められている。でも、登場人物達の立ち居振舞いは、あくまで日本人としての無意識を受け継いでいる。一方で、本書には近代化されてゆく日本人の感性の揺れも記録されている。本書の中にはカタカナ横文字が縦横に散らばる作品もある。だが、それらの掌編を指して新感覚派と呼ぶのは躊躇われるのだ。著者の書く人物の多くに日本人を感じる以上、新感覚とは呼べない。これが私の感想だ。

では、本書の中に私はどういう美意識を見出したのだろうか。

それは、旧弊から逃れようとし、日本人である殻を破ろうとする姿に対してである。考えてみると、著者が少年から青年に向かおうとする時期、日本は大正デモクラシイの真只中にいた。モボ・モガが街中を闊歩し、洋装が市民権を急速に得た時代。

著者はその様な時代の空気を同じ日本人として敏感に察した。そして、本書に集められた掌編に書き留めた。新感覚派とは、著者自身の感覚ではないように思う。それよりも、その折々の最新の日本人が見せる一瞬の光陰をつかみとって作品に昇華させた著者の感受性を指して「新感覚」と呼んだのではないだろうか。

だから、本書の中で、私が評価するのは、新旧日本の情緒の移り変わりを捉えた作品群だ。「月」や「雀の媒酌」や「冬近し」といったような。

だが、個人的に気に入っているのは、当時の最新を越えて、さらに未来の情緒を描き出そうとした作品群だ。「落日」や「屋上の金魚」や「人間の足音」のような。ショートショートのように未来的な設定を借りず、同時代の中で感覚や情緒を先取りした作品群。これらの作品こそが新感覚であり、道具立ての古さを除けばその感覚の鋭さは、今でも通用するのではないかと思う。

まだまだ著者の作品は読まれるべきだし、ノーベル賞ウィンドウに収まって埃を被るには早すぎる。

‘2015/05/30-2015/06/11


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