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神隠し


空港。私たち一般人が利用できる施設のうち、おそらくは最も高いセキュリティが敷かれている場所だろう。

それはハイジャックのリスクがあるからだ。
国際空港の場合は、出国と入国審査が必須なので、より高いセキュリティが求められる。怪しい人物を自由に出入国させないための措置だ。
それゆえ、一度出国審査を終えて空港内に入ると、その間の身分は不定となる。ひとたびゲートを過ぎてしまうと、その瞬間だけはどの国の人でもなくなってしまう。トム・ハンクス主演の『ターミナル』のような事態を思い起こさせる。
もちろん、そうした事態を防ぐために、空港のセキュリティや身分チェックは厳重になっている。

本書のタイトルである神隠しとは、まさにそのゲートで消えてしまった子供の状態のことだ。本書はある家族の前で行方が分からなくなった子供の行方を追うミステリだ。

本書の面白さの一因は、舞台がアメリカに設定されていることだ。上に書いた空港とはロサンゼルス国際空港である。
アメリカが舞台なので、本書の登場人物のほとんどはアメリカ人である。
日本人が書いた日本語の小説でありながら、アメリカ人の会話や行動の描写が大部分を占めている。
もちろん、登場人物の中には日本人もいる。だが、本書に登場する日本人はほんのわずかだ。主人公のグレッグの妻の郁恵と日本の寺の住職ぐらいだろうか。あとはほぼアメリカ人。

日本人がそのような小説を書くのは大変だろう。
だが、著者のプロフィールを読むとその心配は無用だ。著者はアメリカに渡米後、起業を果たし、今もアメリカに住んでいるそうだ。
つまり、アメリカの暮らしやビジネスや事物が具体的に描写できる。
特に、空港の人が行きかう様子の描写はテンポがよい。おそらく著者は普段から空港を利用し慣れているのだろう。そして、それを文章に落とし込むための観察術にも長けているのだろう。

ロサンゼルス国際空港とは、多様な人種が集う場所である。もちろん、日本人がいることに違和感は覚えない。また、そこで最も多くを占めるのがアメリカンなのはいうまでもない。他にもヨーロッパの各国やアフリカにルーツを持つ人々が混在している。

多くの人種がひしめくことで起こること。それは人種問題だ。むしろ、人種問題とは無縁ではいられない。
そして、アメリカは多民族国家だ。
特にアメリカの場合、ほんの数十年前まではアフリカン・アメリカンの人々への差別感情が色濃く残っていた。だからこそ、人種問題には敏感であるべきだ。
在米日本人も太平洋戦争中は収容所に入れられた苦難の歴史を持っている。

だからこそ、人種問題について社会的な仕組みも整っているだろうし、人々の間に人種間の軋轢に対処するための知恵が蓄積されている。
著者の問題意識は日常からそうした問題に常に向いていて、本書はまさにそうした問題意識から描かれたと言っても良いだろう。

本書のテーマは空港のセキュリティだけではない。グレッグが勤めるジャーナリズムの現場は、インターネットに押されて終焉を迎えつつある。さらには警察司法行政改革も取り上げられている。

しかし、それらのテーマを超えて、本書で最も強調されているのは親子の愛情や絆だ。それは人種や文化を超えて同じであり、尊い。
尊いだけではなく、人はそれを守るために思いもよらない力を発揮する。

アメリカでは銃撃事件が絶えない。生命の安全が常に脅かされている。その一方で、家族や肉親を守ろうとする人々の思いは強い。
言うまでもなく、その感情は同じ人間である以上は持っていて当たり前だ。日本人であろうとアメリカ人であろうと変わりないはず。
ただ、それは頭では理解していても、実感と心から理解しているかというとためらいがある。同じ人間であり、同じ感情を共有できるはずであることは分かっていても、アメリカに住んだことのない私のような読者にとっては、実際に感情で理解しているかどうかは心もとない。

そうした微妙な文化や感情の揺れを描いていることが本書の価値なのだと思う。それを描くのが日本人の感性を持ち、アメリカの生活事情に精通した著者であることも。

もちろん、アメリカにも優れた小説家は無数にいる。日本語に翻訳されたアメリカの小説はいくらでも読むことができる。
だが、翻訳されたアメリカの小説と日本人の小説家が書いたアメリカの暮らしは、何かが違う。

本書からは翻訳小説を読んでいるような印象は受けなかった。それはおそらく、本書に登場するアメリカ人の言動が日本人と同じとの印象をうけるからではないだろうか。
なぜだろう。
それは、日本人である著者が小説を書くにあたって無意識に脚色していることもあると思う。本書はアメリカで出版されるのではなく、日本人向けに描かれている。そのため、著者はアメリカが舞台である特色は活かしつつも、家族や肉親の絆をテーマとする際に日本人の感性でアメリカ人を描いたと思われる。
家族や肉親の絆をテーマとするため、日本人の読者に向けたアメリカ人になってしまったというべきだろうか。

ただ、この私の感想は、私がアメリカ人と親しくなったことがないための誤解かもしれない。
私が正しいかどうかはどうでもよい。むしろ本書は、私に自分の認識のあやふやさを教えてくれたことに意味があると思っている。
私もなるべく日本人の殻に閉じこもらないようにしようと考えている。ただ、私の日常で付き合いがあるのは公も私もほぼ日本人だけだ。
私の年齢が上がっていくにつれ、さらに海外の人との付き合いがうまくできなくなっていくことだろう。脳が柔軟性を失っていき、慣れ親しんだ日本人との日常に埋没してしまうだろう。

本書は、私に異文化に触れていない気づきを与えてくれた。

2020/12/11-2020/12/12


本格小説 下


上巻からの続きで、下巻は本編から始まる。長い長い前書きではない。

冨美子からハイ・ティーに誘われた祐介は今にも崩れそうな古い別荘に招かれる。重光と三枝、宇多川という表札のかかった古びた洋館。かつて軽井沢が別荘地として旧家を集めていた時期の名残だ。
その洋館で祐介は、冨美子からタローにまつわる長い話を聞かされる。

冨美子の語りに引き込まれていく祐介。
重光家と三枝家、宇多川家は、小田急の千歳船橋駅付近で戦前から裕福な暮らしを送っていた。成城学園に子女を通わせるなど、優雅な毎日。冨美子もそこに家政婦のような立場で雇われた。

では、タローこと東太郎はどのような立場だったのか。

宇多川家がかつて雇っていた車夫は、敷地の一角に居宅を与えられていた。その車夫から、甥の一家が大陸から引き上げてくるから一緒に住まわせてほしと懇願され、同居する事になったのが東家。

大陸からの引き上げ者の息子として、居候のような立場だった太郎。その経済の差は歴然としており、同じ敷地内でも生活や文化などあらゆる違いがあった。
三枝家の娘として何不自由なく育っていたよう子にとっては家格など関係ない。同じ年頃の友達として、太郎とよう子は一緒に遊ぶようになっていた。

幼い頃より、よう子と遊んで過ごす日々の中で、少しずつ太郎はよう子に思慕を抱くようになる。
だが、東家にとって三枝家ははるか上の家格。周りから見ても、当人たちにとっても不釣り合いなことは明らか。

昭和の高度成長の真っただ中とはいえ、摂津藩の家老だった重光家や大正期に商売で成り上がった三枝家は、まだ古い価値観に引きずられている。
有形無形の壁を前にした太郎はよう子との結婚を諦める。そして、単身アメリカへ飛ぶ。

やがて富を重ね、大金持ちになって日本に戻ってきた太郎。そこにはもはや自分の居場所はない。よう子は重光家の御曹司雅之と結婚し、三枝家と重光家は隣の家同士の関係から、親戚になる。

太郎は日本で過ごすことを諦める。が、つかず離れずこの両家の周辺に姿を見せる。冨美子がさまざまな人生の経験をへてもなお、この両家とつながっているように。

やがて、この両家も時代の荒波をかぶり、その栄華の日々に少しずつ影が生じる。
少しずつ衰退に向かっていく三枝家と重光家の周囲に太郎の気配がちらつく。つかず離れずよう子を見守るかのように。

家の格によって恋を引き離された二人の運命。それが描かれるのが本書だ。日本は経済で成長し、古い価値観は置き去られていく。この両家のように。
わが国の歴史が何度も繰り返してきた盛者必衰のことわり。それに振り回される男女の関係のはかなさ。

上巻ては特異な構成に面食らった読者は、下巻では冨美子の語る本編に引き込まれているはずだ。「嵐が丘」を昭和の日本に置き換えた本書の結末がどうなるかと固唾を飲みながら。

ここまで読むと、本書が著者の創作なのか、それとも序や長い長い前書きで著者が何度も強調するようにほんとうの話なのかはどうでも良くなる。
本書の本編は、祐介が冨美子か聞いた太郎とよう子の物語だ。だが、そこで語られた言葉が全ての一語一句を再現したはずはない。そこかしこに著者の筆は入っている。
だから本当のことをベースにした物語と言う考え方が正しいだろう。

本書の終わりはとても物悲しい。
私が『嵐が丘』を読んだのは20代の前半の頃なので、あまり筋書きも余韻も覚えていない。
が、本書の終わり方はおそらく『嵐が丘』のそれを思わせるものなのだろう。

本書の舞台となる時代は、戦後のわが国だ。
一方の『嵐が丘』は18世紀の終わりから19世紀初頭のイングランドが舞台だ。
その二つの時代と国だけでも大きな隔たりがあるが、戦後日本の移り変わりは、まだ旧家の価値観を留めており、物語としての本書の設定を成り立たせている。

たが今はどうだろう。世の中の動きはグローバルとなり、仕組みもさらに複雑になっている。つまり、本書や『嵐が丘』のテーマとなった価値や信条の大きな断絶が成り立たなくなりつつある。
いや、断絶がなくなったわけではない。むしろ、世の中が複雑になった分、断絶の数は増えているはずだ。
だが、読者の大多数が等しく感じるほどの巨大な断絶はだんだんとなくなっていくように思う。

もちろん、人間と人間の間にある断絶は細かく残り続けるだろう。だが、それを大きなテーマとしてあらゆる読者の心に訴求することにはもはや無理が生じている気がする。
本格小説に限らず、これからの小説に大きなテーマを設定することは難しくなるのではないか。
あるとすれば人間と人間ではなく、人間と別のものではないか。例えば人工知能とか異星人とか。

だが、そのテーマを設定した小説は、SF小説の範疇に含まれてしまう。
人と人の織りなすさまざまなドラマを本格小説と定義するなら、これからの世の中にあって、本格小説とは何を目指すべきなのだろう。

本書のテーマや展開に感銘を受ければ受けるほど、本格小説、ひいては小説の行く末を考えてしまう。

著者の立てたテーマは、本書を飛び越えてこれから人類が直面する課題を教えてくれる。

2020/11/5-2020/11/7


息吹


私が書店でSFの新刊本を、しかもハードカバーで購入するのは初めてかもしれない。
本書はその中でお勧めされていたので購入した。
とてもよりすぐりの九編が続く本書は、二度読んだほうが良さそうだ。
特に、一度目を読むタイミングが集中できない環境にあった場合は。

私も本稿を書くにあたってざっと斜め読みした。
すると、本書の奥深さをより理解できた。

「商人と錬金術師の門」
本編を一言で表すとタイムワープものだ。
だが、その舞台は新鮮だ。アラビアン・ナイトの千夜一夜物語を思わせるような、バグダッドとカイロを舞台にした時空の旅。
とある小道具屋に立ち寄った主人公は、時間をさかのぼることができる不思議な門を店主のバシャラートに見せられる。右から入ると未来へ、左から潜ると過去へ進める。
この機構は論理的に現代物理学の範疇で可能らしい。
この門に関する複数のエピソードがバシャラートから語られ、それに魅入られた主人公は自らも旅を決意する。

ここで語っているのは、未来も過去も同じ人の運命という概念だ。今までのタイムワープもので定番になっていた設定は、過去を変えると未来が変わり、変わったことで新たな時間の線が続く。行為によって新たな時間線ができることによってストーリーの可能性が広がる。だから、登場人物は過去にさかのぼって未来を変えようとする。
だが、本編では未来は過去の延長にある。つまり、従来のタイムワープものの設定に乗っかっていない。それが逆に新鮮で印象に残る。

卵が先か、鶏が先か。わからない。だが、人は結局、宿命に縛られる。ある視点ではそのような閉塞感を感じる一編だ。
だが、その閉塞感は、自分の努力を否定するものではない。それもまた、人生を描く一つの視点だ。それが本編の余韻となっている。

「息吹」
並行宇宙。そして平衡状態になると終わるとされる宇宙。二つの「へいこう」をテーマにしているのが本編だ。
本編は、地球とはどこか別の場所、または時代が舞台だ。未知の存在の生命体、もしくは機械体が自らの存在する宇宙の終わりを予感する物語だ。
空気の流れが平衡状態になりつつあることにより、生命を駆動する動力が失われる。それを回避し、食い止めようと努力する語り手は人ではない。それどころか、現代のこの星の存在ですらない。

限られた紙数であるにもかかわらず、平衡に向かう宇宙のマクロと、自らを解剖する語り手のミクロな描写を平行で書くあたりが良かった。一つの短編の中でマクロとミクロを同時に書き記す離れ業。それが本編の凄さである。

「予期される未来」
わずかな紙数の本編。
未来を予測できる機械が行き渡ったことで、自由意志を否定されたと自らで動くことをやめた人々。そのようなディストピアの世界を描いている。

本編は、一年ちょっと先の未来からメッセージを送ってきた存在が語り手となっている。その存在は、決定論を受け入れた上で、嘘と自己欺瞞で乗り切れとアドバイスを送る。その冷徹な現実認識を決定論として認めなければならない。強烈なメッセージだ。

「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」
本編を読んでいると、AIBOやファービー、またはたまごっちなどの育てゲームを思い出す。どれも数年でブームを終えている。

本編にはディジエントという人工知能を有したペットのような存在が登場する。それらは動物の代替のペットとして人々に受け入れられた。だが、育てるのは難しく、飼い主の手を煩わせる。人々は飼いならせなくなったティジェントを手放し、運営する会社は廃業する。
たが、一部の人々は、手元に残されたディジエントを育てようと努力する。同じ保護者同士でコミュニティを作り、ディジエントとの共生やディジエントの自立に向けて模索する。本編はディジエントの保護者である主人公の葛藤が描かれる。ディジエントを世の中に適応させるにはどうすればよいか。

保護者がディジエントに気をもむ様子は、通常の子育てやペットの飼い主とは違う。まるで障害を抱えた子供を持つ親のようにも思える。通常の子育てと違った難しさが、本書に人間やペットと違う何かを育てることの困難さを予言している。

ディジエントに法人格を持たせることや、ディジエント同士のセックスなど微妙な問題にまで話を膨らませている。
私たちもそのうち、高度なAIと共生することもあるだろう。その時、倫理的・感情的な問題とどう折り合うのだろう。予言に満ちた一編だ。

「デイシー式全自動ナニー」
20世紀初頭に発明されたとする当時の産物のナニー(ベビーシッター)。当時にあって新奇な技術が人々から見放されていく様子を研究論文の体裁をとって描いているのが本編だ。

全自動の存在に人の成長を委ねることのリスク。本編は、現代から考えると昔の技術を扱っている。だが、ここで書かれているのは間違いなく未来の技術信仰への疑問だ。
私たちは今、人工知能に人類のあらゆる判断を委ねようとしている。そこから考えられる著者のメッセージは明白だ。

「偽りのない事実、偽りのない気持ち」
本編は人の生活のあらゆる面を記録するライフログがテーマだ。
私もライフログについては本のレビューを書いたこともあるし、自分なりの考えをブログにアップしたこともある。

人々は、自らの記憶があやふやであることに救われている。あやふやな記憶によって、人間関係はあいまいに成り立っている。そのあいまいさがある時は人を救い、ある時は人を悩ませる。
リメンという機械によって、ライフログが当たり前になった未来。人々は、リメンによって自分の過ちに気づく。本編の登場人物である親子の関係と二人の間にある記憶の食い違いが強制的に正されていく。

本編が優れているのは、もう一つ別の物語を並行で描いていることだ。ティブ族と言うどこかの部族が、口承で伝えられてきた部族の歴史が、文字や紙によってなり変わられていく痛みを書いている。古い文化から新しい文化へ。そこで起こる文化の変容。それは人類が新たなツールを発明してきた度に引き受けてきた痛みそのものだ。痛みとは、自分が誤っていたと気づくこと。自分が正しくなかったことではなく。

「大いなる沈黙」
本書の末尾には、著者自身による創作ノートのようなものが付されている。それによると本編は、もともと映像作品を補足するスクリプトとして表示していたテキストだったと言う。それを短編小説として独自に抜き出したものが本編だ。
フェルミのパラドックスとは、なぜ宇宙が静かなのかと言う謎への答えだ。宇宙に進出する前に絶滅してしまう種族が多いため、宇宙はこれだけ静かとのパラドックスだ。

「オムファロス」
進化論と考古学。
アメリカではいまだに、この世は創造主によって創造されたことを信じる人がいると言う。それもたくさん。

彼らにとっては人類こそが宇宙で唯一の存在なのだろう。彼らが仮定した創造主とは、私たちにとって絶対的な上位の存在だ。それは同時に、私たち自身が絶対的な存在だと仮定した前提がある。もちろん、この広大な宇宙の中で太陽系などほんの一握りですらない。チリよりも細かいミクロの存在だ。全体の中で人類の位置を客観的に示すことこそ、本編の目的だとも言える。

「不安は自由のめまい」
プリズムと言う機械を起動する。その時点から時間軸は二つに分岐する。分岐した側の世界と量子レベルで通信ができるようになった世界。本編はそのような設定だ。
別の可能性の自分と通信ができる。このような斬新なアイディアによって書かれた本編はとても興味深い。周りを見渡して自分の人生に後悔がない人などいるだろうか。自分が失ったであろう可能性と話す。それはある人によっては麻薬にも等しい効果がある。常に後悔の中に生きる人間の弱さとそこにつけ込む技術。考えさせられる。

‘2020/06/08-2020/06/13


ほら男爵 現代の冒険


著者の作品を読むのは久しぶりだ。

しかも本書は多数のショートショートを集めたものではなく、長編小説の体裁をとっている。
私は今までに著者の長編小説を読んだ記憶が思い出せない。ひょっとしたら初めてかもしれない。

ほら男爵。シュテルン・フォン・ミュンヒハウゼン男爵の異名だ。
高名なミュンヒハウゼン男爵の孫だ、と自ら名乗るシーンが冒頭にある。
私はミュンヒハウゼン男爵の事を知らなかったが、この人物は実在の人物であり、Wikipediaにも項目が設けられている。

18世紀のドイツの人物で、晩年に人を集めて虚実を取り混ぜて話した内容が『ほら吹き男爵の冒険』として出版され、いまだに版を重ねているようだ。本書は、それを著者が新しく翻案し、孫のシュテルン・フォン・ミュンヒハウゼン男爵を創りだし、冒険譚として世に送り出した一冊だ。

著者は、かつてSF界の御三家と言われた。
SF作家の集まりでも奇想天外なホラ話を披露しては、一同を爆笑の渦に巻き込んでいたと言う。
ショートショートの大家としても著名だが、ホラ話の分野でも第一人者だったようだ。

そうであるなら、著者がドイツのほら男爵の話を書き継ぐのはむしろ当然といえる。

本書は四つの章に分かれている。ほら男爵が奇想天外な冒険をサファリ、海、地下、砂漠で繰り広げる。

それぞれの場所で時間も空間も無関係にさまざまな人物や物が登場し、出来事が起こる。それはもう想像力の許す限りだ。
鬼ヶ島に向かう桃太郎に遭遇し、ギリシャの神々と仲良くなる。幽霊船に乗れば人魚がくる。さらには不思議の国のアリスやドラキュラ伯爵まで。ニセ札をばらまく犯罪者が現れ、東西の首脳は茶化される。現代の文明が発明したはずの事物が実は古代のピラミッドの下に埋められたタイムカプセルにある。
もう、やりたい放題だ。
古今東西のあらゆる空間と時間が混在し、著者の思うがままにほら男爵の冒険は続く。

本書の内容は決して難しくない。むしろ、子どもでも読めると思う。
もともと、著者は読みやすい小説を書く。それは長編でも変わりないようだ。
長編であってもショートショートと同じテンションで書くには苦労もあっただろう。だが、著者は本書にも次々にエピソードを繰り出し、読みやすい作品に仕上げている。

ただし、本書には毒が足りない。著者のショートショートは風刺に満ちていて、考えさせられるものが多い。
だが、本書の毒とはより広い範囲に及んでいる。それは、人々が常識に囚われる様子を笑う毒である。

あらゆる常識、知識、思い込み、考え方。
人が囚われる思い込みにはいろいろある。

それは、教育と文明の進展によって人々が備えてきた叡智だ。
教育によって人々は知識を蓄え、常識を身につけてきた。
それが現代文明の根幹を支えている。

だが、それによって奪われたのが人間の想像力の翼ではないだろうか。
本書は1960年代の終わりに発表された。つまり、日本の高度経済成長期の真っ只中だ。大阪万博を翌年に控え、公害が日本のあちこちを汚している頃。科学万能の信仰がピークを迎え、行きすぎた科学の力がまだ自然を汚染するだけで済んでいた頃。
人の生き方や働き方に深刻な影響はなく、皆がまだ右上がりの成長を信じ、それを望んでいた頃。
ところが著者はその時、想像力の枯渇を予期していた。そしてそれを風刺するかのように本書を著した。

人々の行動範囲は文明の進展によって広くなり、世界は狭くなった。時間のかかる仕事は少しずつ減り、人々のゆとりが少しずつ生まれてきた。
ところが、本書が著された頃からさらに未来のわれわれは、相変わらず不満を訴え欲望の行き場を探している。そして、想像力は枯渇する一方だ。

かつては、夜になれば火の明かりだけが頼り。あらゆる娯楽は会話の中だけで賄われていた。話を聞きながら、人々はそれぞれの想像力を働かせ、楽しみを心の中に育んでいた。
ちょうど、ミュンヒハウゼン男爵が人々に語っていたように。

そのような昔話やおとぎばなしが世界中のあちこちで語られ、現代に受け継がれた。
なぜ受け継がれたのか。それは、物語こそが人々にとって大きな娯楽だったからだ。
今やそれが失われ、人々は次々に注ぎ込まれる娯楽の洪水に飲み込まれている。そして、想像力を働かせるゆとりすら失いつつある。

著者はそれを予見して本書を描いたのではないだろうか。
ほら男爵の時代に立ち返るべきではないかと。

本書が発表されてから五十年以上が過ぎた今、豊かなはずの人々は満たされていない。生きがいを失って死を選ぶ若者がいる側で、いじめやパワハラが横行している。誰もが持て余した欲望のはけ口を他人や環境にぶつけ、自らの不遇を社会のせいにしようとしている。

人の心の動きは外からは把握できない。心の中で何を想像しようとも、それは他人には容易には悟られない。想像力を働かせればその限界はない。時間や空間を気にせず、あらゆる場所であらゆる事ができる。想像力こそが、人に残された最後の自由なのかもしれない。
その世界では自らを傷つける人はいない。空も飛べるし地下にもぐれる。本書に描かれたような奇想天外な人や出来事にも出会う事だって可能だ。

想像力は自らを助けるのだ。

本書のように一度自分の中で好き放題に想像してみよう。
そして借り物の世界ではなく、自分だけの物語を紡ぎだしてみよう。
その時、何かが変わるはずだ。

‘2020/04/28-2020/04/30


殺人鬼フジコの衝動


女性が生きていくには、美しく健やかな生き方だけでは足りない。したたかで醜くなくては。

男性からは書きにくい、女性の生の実情。著者は汚れた部分も含め、生きていくために必要なあらゆるきれいごとを排した負の側面を女性ならではの視点から描く。

藤子は育児放棄寸前まで親から見捨てられ、学校ではありとあらゆるいじめを受けていた。それは裸にされて性器をいじられると言う、もはやいじめのレベルを超えたいじめ。
本書の前半部分を読み通すのは、相当の覚悟が必要だ。この救いのない藤子への扱いがいつまで続くのか。読者は小説が早く明るい方向へ切り替わってほしいとすら思うはずだ。

藤子の受難は、両親と妹が殺されたことによって次の段階へと進む。孤独の身になった藤子を救ってくれたのは伯母。伯母のもとで暮らすことになった藤子は引っ越し・転校する。そして同情という得難い武器を得る。同情によっていじめられる必要がなくなった藤子は、新たな学校で立場を得ることに成功する。そこでは打算だけを頼りにクラス内で地位を得ようとする藤子の姿が描かれる。その立ち回り方は醜く、人気者も裏に回れば汚れている。
女の子がクラスでうまく立ち回るには、清く正しくではやっていけない残酷な現実。著者はそれらも含めて冷酷に描いていく。

学校を卒業し、仕事や友人、恋人にも恵まれる藤子。ところが、恋人と友人との間で三角関係の複雑さに襲われ、ついには殺人に手を染める。どこまでも運命は藤子を更生から遠ざける。凄惨な死体処理を恋人と二人で行う中、恋人は藤子を恐れ、藤子に秘密を掴まれたとおびえるあまり、まともな社会生活を送る気力を奪われる。さらに恋人の親は資産家ではなく、元資産家でしかなかった事実。
単なるヒモに成り下がる恋人との殺伐とした毎日。

この時点で藤子の人生には選択肢がなくなってしまう。この結末を藤子のせいにするのか、それとも環境のせいにするのか。
決して自分の母のようにならないと誓っていたはずなのに、事態はどんどんと藤子の意に反する方向へと進んでいってしまう。

そんな藤子の姿は、生命保険の外交員スカウトも引き寄せる。新たなる仕事への勧誘。ところが羽振りの良さそうなスカウトも、裏側では悲惨な日々を過ごしている。子育てどころか、ネグレクト。藤子が幼い頃に受けたような悲惨な境遇をしなければならない虚栄に満ちた日々。
恋人との間に生まれた美波を異臭がするまで押し入れに閉じ込め、行き着く先は謎の失踪。

ここまで徹底的な転落劇を描いておいて、著者は藤子に何も救いを与えない。それどころか読者も闇に引き摺り込もうとしているのではないか。
読者はこの希望が見えない小説から何を汲み取ろう。何を教訓としよう。

刹那のお金を得るためなら、いとも簡単に目の前の人物を殺す。目の前の理不尽な現実を凌ごうとする藤子の生き方はすでに修羅。夜の蝶になってもそれは変わらない。すぐに化けの皮が剥がれ、それを糊塗するために次の犯罪に手を染める。

終わりのない地獄の日々は、ある日終わりを告げる。
続いて登場するのは、藤子の娘とされる著者。そもそもこの本は藤子を描く目的で描かれていた。
そこから後は、興を削いでしまうので書かないが、本書にはある仕掛けが施されている。この救いのない小説を、その仕掛けを味わうために読むということもありかもしれない。
小説とはあらゆる現実を切り取る営みだと考えれば、救いがない物語の中にも真実はあると見るべきだろう。

例えば本書の藤子の姿を見て、自分より下がいると安堵する読者もいるだろう。藤子の境遇に比べれば、自分の人生などまだマシと前向きになれる人もいるはずだ。または、自らの人生のこれからに起こりうる苦難や障害を本書から読み取り、避けてゆくために本書を役に立てると言う人もいるはず。

読みあたりが良く、感動できることだけが小説ではない。余韻は強烈に悪いけれども、印象に残るのならまたそれも小説。
著者の作品は他には読んだことはないが、大体似たような作風だと言う。また読んでみようと思うのかどうか、今の時点で私にはわからない。

だが、この救いようのない時代を生きる者の1人として、こうした人生を送っていたかもしれない可能性。こうした人生もまたありうるのだと思える想像力。それは本書のような小説を読まない限り決して触れることのない領域だろう。

それはまた、今の社会制度の歪みでもあり、教育制度の欠陥かもしれない。もちろん、資本主義そのものが人類にとって害悪なのかもしれない。人の心の度し難い弱さや醜さを見てとることも簡単だ。
事実からは事実に即した答えしか出てこない。フィクションは著者の想像力に委ねられるため、逆に事実に束縛されず、読者が自在に教訓を受け取ることができる。

雑誌や新聞のルポルタージュからは読み取れない人生の大いなる可能性。それこそが小説というメディアの秘める可能性だと思う。

‘2020/03/06-2020/03/08


アクアビット航海記-打たれてもへこたれない


今までの連載を通じ、私の人生を振り返ってきました。
私の人生は決して平坦なものではありません。
何度も凹まされ、傷ついてきました。鼻をへし折られるぐらいならまだしも、やくざさんの家に飛び込み営業で殴られたり、営業成績の不調でその場で丸刈りにされたり。本連載のvol.20〜航海記 その8で書いた通りです。

この後の連載でも触れますが、この後の私はもっと強烈なトラブルにも巻きこまれます。

今、自分で思い出してみてもよくやって来れたと思います。正直、その時々の自分がぶち当たった過酷なストレスをどうやってやり過ごしてこられたのか。自分でもよくわかっていません。

おそらく、持って生まれた性格もあったはずです。のんきでマイペースで、のんびりしていた性格が私を救ってくれたのでしょう。
私は中学生の頃にはいじめにも遭いました。そのたびに、心の中で何回も人を殴りました。数えきれないほどです。実際、中学の時に一度だけ切れて目の前が真っ赤になり、気が付いたらグーで相手を殴っていたこともありました。

切れる自分も知っています。今でも自分を聖人君子だとは思っていません。悪業にも手を染めたこともあります。欲望にも負けやすい性格です。自分は今でも人様に誇れるほどの人間ではないと考えています。

本稿は8月10日に書いていますが、8月6日に小田急線で傷害事件がありました。車内で切れて何人もの人を刃物で刺した事件です。私も影響を受け、二駅を歩いて帰りました。
報道によると、犯人は思い通りにならないことが重なった揚げ句に切れて凶行に及んだようです。

もし私が今までの人生で今回の犯人のように切れていたら、私の今はありません。もしくは、人に切れる前に自分の中が切れて精神に失調をきたしていたかもしれません。

そこで今回は、メンタルについて書いてみたいと思います。

なぜメンタルか。それは、独立や起業を行う上で、メンタルのセルフケアは必須だからです。場合によっては会社勤めの方がよかった、と思うような目にも何度も遭うはずです。そのあたりについては、本連載の最初の頃にメリットとデメリットとして書かせていただきました。

ですが、そのたびにお客様やパートナーとケンカを繰り返していたのでは成長はありません。
もちろん、私もそうしたケンカをしてきました。多くの失敗の果てに今の私があります。そうした失敗の中には、この方には足を向けて寝られないといまだに後悔する失敗も含まれています(この後の連載で書くつもりです)。

どうやれば、メンタルを平常に保てるのか。

まず、過去を忘れないことです。むしろ、過去は何度も思い返すべきです。失敗を何度も何回でも。その時も反省する必要はありません。反省を義務にするぐらいならむしろ居直って開き直った方がよいぐらいです。自分は決して間違っていないという思いを強くしたってよいのです。
悔しい思いや屈辱を何度も自分の中で思い起こすことは耐性となって自らを鍛えます。どれほどの苦しい思いも、当事者だったその瞬間に比べると痛みは比較にならないほど楽に感じるからです。
私はそのことをvol.20〜航海記 その8に書いた当時に学びました。
当事者であるその瞬間が一番しんどい。その時に味わった屈辱は、その瞬間をやり過ごせば過去の記憶に変わります。やくざに監禁されそうになる恐怖や、衆人環視の中で頭を刈られる屈辱ですら。

私はこうした記憶や他にも無数にある記憶を何度も何度も脳内にフラッシュバックさせました。大成社にいた当時の辛さは上京して結婚し、子供が大きくなった6,7年の後も夢で私を苦しめました。ですが、ときぐすりとはよく言ったものです。今では完全に克服しました。
むしろ、そうした振り返りを幾度となく行うことで、自分が客観的に見えてきます。すると今の立場からの批評も行えるのです。批評は、あの時はああすればよかったという改善へとつながります。

私の場合、何度も何度も脳内で耐え抜いたためか、同様の出来事にあっても前の経験と比較できる余裕まで生まれるようになりました。
私はそのため、当時を忘れるよりも、むしろ薄れる記憶を呼び起こそうとします。数年前に大阪を訪れた際、わざわざ大成社のあった大国町のビルにも訪れました。この後の連載で触れる昭島市の某倉庫には近くを通るたびに訪れるようにしています。

ストレスをやり過ごすもう一つのコツは、過去の嫌な出来事を思い起こすのと同じぐらい、自分の人生でよかった瞬間を思い起こすことです。
例えば小学校の球技大会で決めたシュートや、先生や親に褒められた体験。旅行でやり遂げた達成感や何かのイベントを無事に過ごせた陶酔感など。

私の人生に劇的な瞬間はそう多くありません。ですが、思い出してみるとそうした成功体験のようなものが見つかりました。たとえささいな経験であっても、誰にもこうした幸せな経験の一つや二つはあるのではないでしょうか。

苦しかったことや楽しかったことを思い出す習慣。それは、両方をひっくるめての人生という考えに導いてくれます。
私が持っている人生観は、人生の谷と山を均すと平らになるというものです。禍福は糾える縄の如しにも似ているかもしれません。
結局、苦楽が繰り返されての人生です。今のストレスは未来のハピネスの前触れでしょうし、今回の幸いは、次回の辛いによってあがなわれます。そう考えておけば、何が来ても恐れることはありません。

もう一つのストレスから逃れるコツは、さまざまな人生を知っておくことです。さまざまな人の話を聞くのもよいでしょう。小説を読んで登場人物の運命に心を痛めるのもよいでしょう。自伝や伝記から偉人の蹉跌やそこからの這い上がりを参考にするのもよいでしょう。映画や漫画やアニメから心を揺さぶられるのもよいでしょう。
自分に人生があるのなら、今まで生きてきたあらゆる人にもそれぞれの人生があったはずです。あらゆる人生の姿やあり方をストックとして持っておけば、自分だけが特別と感じる罠から逃れられます。
小説や映画の効用は、あらゆる人々の感情の動きに自分を委ねられることです。しかもそれを自分自身の痛みとして感じるのではなく、あくまでも作中の人の被った痛みとして苦しまずに追体験できます。小説や映画に若いうちから多く触れておくことは人生のさまざまな形を教えてくれるのでお勧めです。
結局、人は等しく最後には死ぬのです。それまでの道のりがどうであろうとも、最後には前へ前へと押し出され、死が安らかな眠りをもたらしてくれます。そう思えば、人生の出来事に一喜一憂せず、日々を少しでも楽しく生きようと思えませんか。

繰り返しますが、私は大した人ではありません。今でも何かのイベントに登壇する際は緊張します。
ですが、それは必ず乗り切れると思えるようになりました。
私はイベントに臨む前、こう考えるようにしています。
「当事者である瞬間はやがて必ず終わる。」
「時間は止まらず、必ず前に進む」
自分が失敗して恥をかこうと、人に迷惑をかけてしまおうと、自分も含めて前へ前へと押し流してゆく。それが時間です。全ての人や物事に止まることを許さない。それが時間のありがたみです。

明日プレゼンが控えていようが、大きな商談が控えていようが、その瞬間はやってきて、そして去っていきます。人生とはその繰り返しにすぎません。失敗してもそれを取り返す努力さえすれば、次のチャンスはいつの日か巡ってきます。
そのためにも、辛かった経験や楽しい経験を何度でも思い返してみましょう。その繰り返しが自分の中に改善案やひらめきを必ず与えてくれます。すると苦しかったことも楽しかったことに変わるのです。

いかがでしょう。打たれてもへこたれない私のコツを感じていただけたでしょうか。もちろん、本稿が全ての人に当てはまるとは思いません。ですが、皆さんにとって少しでも参考になれば幸いです。


明日の子供たち


著者は、執筆スタイルが面白い作家だと思う。

高知県庁の観光政策を描いた『県庁おもてなし課』や、航空自衛隊の広報の一日を描いた『空飛ぶ広報室』などは、小説でありながら特定の組織を紹介し、広く報じることに成功している。
そのアプローチはとても面白いし、読んでいるだけで該当する組織に対して親しみが湧く。そのため、自らを紹介したい組織、出版社、作家にとっての三方良しが実現できている。

本書もその流れを踏まえているはずだ。
ある先見の明を持つ現場の方が、広報を兼ねた小説が書ける著者の異能を知り、著者に現場の問題点を広く知らしめて欲しいと依頼を出した。
私が想像する本書の成り立ちはこのような感じだ。

というのも、本書で扱っているのは児童養護施設だ。
児童養護施設のことを私たちはあまりにも知らない。
そこに入所している子供たちを孤児と思ってしまったり、親が仕事でいない間、子供を預かる学童保育と間違ったり、人によってさまざまな誤解を感じる人もいるはずだ。
その誤解を解き、より人々に理解を深めてもらう。本書はそうしたいきさつから書かれたのではないかと思う。

私は、娘たちを学童保育に預けていたし、保護者会の役員にもなったことがある。そのため、学童保育についてはある程度のことはわかるつもりだ。
だが、親が育児放棄し、暴力を振るうような家族が私の身の回りにおらず、孤児院と児童養護施設の違いがわかっていなかった。本書からはさまざまなことを教わった。

甘木市と言う架空の市にある施設「あしたの家」には、さまざまな事情で親と一緒に住めない子供たちが一つ屋根の下で暮らしている。

本書の主人公は一般企業の営業から転職してきた三田村だ。彼より少し先輩の和泉、ベテランの猪俣を中心とし、副施設長の梨田、施設長の福原とともに「あしたの家」の運営を担っている。

「あしたの家」の子供たちは、普段は学校に通う。そして学校から帰ってきた後は、夕食や宿泊を含めた日々の生活を全て「あしたの家」で過ごす。
職員は施設を運営し、子供たちの面倒を見る。

ところが、子供たちの年齢層は小学生から高校生まで幅広い。そうした子供たちが集団で生活する以上、問題は発生する。
職員ができることにも限界があるので、高校生が年少者の面倒を見るなどしてお互いに助け合う体制ができている。

五章に分かれた本書のそれぞれでは、子供たちと職員の苦労と施設の実態が描かれる。

「1、明日の子供たち」

施設に行ったことのない私たちは、無意識に思ってしまわないだろうか。施設の子供のことを「かわいそうな子供」と。
親に見捨てられた子とみなして同情するのは、言う側にとっては全く悪気がない。むしろ善意からの思いであることがほとんどだ。
だが、その言葉は言われた側からすると、とても傷つく。
施設を知らず、施設にいる子供たちのことを本気で考えたことのない私たちは、考えなしにそうした言葉を口にしてしまう。

三田村もまた、そうした言葉を口にしたことで谷村奏子に避けられてしまう。
高校二年生で、施設歴も長い奏子は、世の中についての知識も少しずつ学んでいるとはいえ、そうした同情にとても敏感だ。

「2、迷い道の季節」

施設の子供達が通っているのは普通の公立の小中高だ。
私も公立の小中高に通っていた。もっとも、私はボーッとしていた子供だったので、そうした問題には鈍感だったと思う。だから、周りの友達や他のクラスメイトで親がいなくて施設に通って子のことなど、あまり意識していなかった。

ところが、本書を読んでいると、そうした事情を級友に言いたくない子供たちの気持ちも理解できる。
ひょっとすると、私の友人の中にも言わないだけで施設から通っている子もいたのかもしれない。

本書に登場する奏子の親友の杏里は、かたくなに施設のことを誰にも告げようとしない。
施設の子供が自らの事情を恥じ、施設から通っていることに口を閉ざさせる偏見。私はそうした偏見を持っていないつもりだし、娘たちに偏見を助長するようなことは教えてこなかったと思う。
だが、本当に思い込みを持っていないか、今一度自分に問うてみなければと思った。

「3、昨日を悔やむ」

高校を出た後すぐに大学に進んだ私。両親に感謝するのはもちろんだ。
だが、進学を考えることすら許されない施設の子供たちを慮る視点は今まで持っていなかった。
そもそも、育児放棄された子供たちの学費はどこから出ているのか。
高校までは公的機関からの支援がある。とはいえ、大学以降の進学には多額の学費がいる。奨学金が受給できなければ大学への進学など不可能のはずだ。

だから、「あしたの家」の職員も施設の子供達を進学させることに消極的だ。
進学しても学費が尽きれば、中退する以外の選択肢はなくなる。それが中退という挫折となり、かえって子供を傷つける。だから、高校を卒業した後すぐに就職させようとする。
猪俣がまさにそうした考えの持ち主だ。

でも、生徒たちにとってみれば、それはせっかく芽生えた向学心の芽が摘まれることに等しい。和泉はなんとか進学をさせたいと願うが、仕事を教えてくれた猪俣との間にある意見の相違が埋まりそうにない。

「4、帰れる場所」

施設にいられるのは高校生までだ。その後は施設を出なければならない。高校生までは生活ができるが、施設を出たら自立が求められる。世の中をたった一人で。
それがどれだけ大変なのかは、自分の若い頃を思い出してみてもよくわかる。

サロン・ド・日だまりは、そうした子供の居場所として設立された。卒業した子供たちだけでなく、今施設にいる子供たちも大人もボーッとできる場所。
ここを運営している真山は、そうした場所を作りたくて日だまりを作った。仕事や地位を投げ打って。

その思いは崇高だが、実際の運営は資金的にも大変であるはずだ。
こうした施設を運営しようとする人柄や思いには尊敬の念しかない。本書に登場する真山は無私の心を持った人物として描かれる。

ところが、その施設への公的資金の支出が打ち切られるかもしれない事態が生じる。
その原因が、「あしたの家」の副施設長の梨田によるから穏やかではない。梨田は公聴会で不要論をぶちあげ、施設の子供達にも行くなと禁じている。

子供達の理想と大人の思惑がぶつかる。理想と現実が角を突き合わせる。

そこに三田村が思いを寄せる和泉がかつて思いを寄せていた度会がからんでくる。
著者が得意とする恋愛模様も混ぜながら、本書は最終章へと。

「5、明日の大人たち」

こどもフェスティバルは、施設のことを地域の人たちや行政、または政治家へ訴える格好の場だ。

そこで施設の入所者を代表して奏子が話す。本書のクライマックスだ。
さらに本書の最後には奏子から著者へ、私たちのことを小説に書いて欲しいと訴える手紙の内容が掲載されている。

最後になって本書は急にメタ構造を備え始める。小説の登場人物が作者へ手紙を書く。面白い。
本稿の冒頭にも書いたとおり、著者がそうした広報を請け負って小説にしていること。そのあり方を逆手にとって、このような仕掛けを登場させるのも本書の面白さだ。

本書の末尾には、本書の取材協力として
社会福祉法人 神戸婦人同情会 子供の家
そして、本文に登場する手紙の文面協力として、
笹谷実咲さんの名前が出てくる。

人々の無理解や偏見と対し、施設の実情や運営の大変さを人々に伝えるなど、本書の果たす役割は大きい。
通常のジャーナリズムでは伝えられないことを著者はこれからもわかりやすく伝え続けて欲しいと思う。

‘2019/12/20-2019/12/20


メデューサの嵐 下


下巻では、着陸する空港を求めてあちこちを飛び回るスコットの苦闘が描かれる。
メデューサが野放しになっている事実は、アメリカ中が知ることとなった。ペンタゴンやCIAも、とんでもない兵器が空にある事態を把握する。一方で、アメリカを危機に陥れた犯罪者がすでに亡くなったロジャーズではなくヴィヴィアンによってなされたと考え、捜査するFBIも。
さまざまな思惑を持つ人々がそれぞれの立場で事態を掌握しようとするため、なかなかうまくいかない。

もっともやっかいなのは、メデューサを無傷で確保したいとの軍の一部の思惑だ。
まだどの国も開発に成功していないメデューサウェーブが今、合衆国の上空にある。それは軍にとって願ってもないチャンスだ。この兵器を可能な限り無傷で入手し、内部を解析することによって、アメリカによる世界の覇権はより一層強固なものとなる。
アメリカに無限の力がもたらされるメデューサは、軍が確保しなければならない。
そう確信した一部の軍人は、兵器を遺棄したいと願うスコットを欺き、スコットの飛行機を軍の飛行場に着陸させようと画策する。

ところがスコットのそばには、兵器の実際の開発者であるロジャーズの妻ヴィヴィアンがいる。かつてロジャーズと一緒に研究職に就いていたヴィヴィアンにとって、ロジャーズの能力はよく知っている。この兵器を完成させてもおかしくないことも。
ロジャーズがやると決めたら必ず実行する。軍がいかに知恵をめぐらそうとも、安全に解体することなど不可能。メデューサは軍が生半可に扱えるような代物ではない。そして、処置を誤ったが最後、アメリカ中の電子機器は使い物にならなくなり、アメリカは二度と立ち上がれないほどのダメージを被る。

ヴィヴィアンからそのような事を聞いたスコットは、アメリカを救わねばという使命につき動かされる。そして、策をめぐらせながら機を飛ばし続ける。スコットエアも自分自身もそしてクルーも最後まであきらめることなく、どうやればメデューサを安全に処分するかを考えながら。

そのスコットからみて、軍のおかしな動きは怪しむに十分だった。軍が自らを欺きメデューサを手中に収めようとしているのではないか、と。その疑いが確信に高まり、いったんは着陸した空港から、軍の制止を振り切って再び離陸への道を選ぶ。
物語を盛り上げるため、このような余計な画策をする役割の人物は必要だ。軍人としての動機がもっともなだけに、スコットを再び空へと送り出す展開も無理やりな感じは受けない。

軍の用意した飛行場が頼りにならないとなれば、もうスコットにとれる道はすくない。時間は少ない。そこで彼がどういう決断を下すのか。

超巨大台風とメデューサ。熱核爆弾としての側面も持つメデューサが爆発すれば、電磁波だけでなく、自身も一瞬にして塵と化す。
そのような極限状況にあって、ある人はパニックに陥り、ある人は判断力を失う。だが、ヒーローでなくとも、集中力を高められる人もいる。本書のスコットのように。
もともと航空機のパイロットは高度な知識と集中力を擁する仕事だという。
本書のような事態に巻き込まれたとしても、スコットが毅然と対処できることはある意味理にかなっている。空軍のもと戦闘機載りの経歴ならなおさら。

おそらく著者も自身や仲間のパイロットの姿をみていたはず。その素養は承知していたため、本書のような設定も著者には荒唐無稽とは考えていなかったのだろう。

飛行機とはただでさえ、一瞬の操作ミスが命の危機に直結する。
だから、もともとサスペンスの題材としては適している。
そして著者にパイロットとしての知識があったならば、飛行機を題材とした本書のようなサスペンスは面白いはずだ。

実際、本書を読む間は手に汗を握るような展開が連続する。本書のように極上の緊張感を楽しめるのは、読者としての喜びだ。

ただ、本書には物足りない点もあった。
正直にいうと、本書の登場人物にはもう少し深みがあっても良かったと思う。
たとえばスコットがなぜ一人で貨物便を扱うスコットエアを創業したのか。上巻の冒頭でそのあたりのいきさつには多少は触れられる。だが、あまりスコットが貨物会社を創業した動機には挫折があまり感じられなかった。
さらに、重要な役回りを演じるドクやジェリーの人物ももう少し深く掘り下げてもよかったのではないだろうか。

そしてリンダにも同じ物足りなさがつきまとう。なぜ南極からの観測データを焦って積み込まねばならないのか。そこに環境学者としての彼女が抱いていた地球温暖化の危機感を書き込めば、より彼女の強引な行為の理由が理解できたはず。

結局、本書で一番無茶な企てを仕掛けたロジャーズと、その企みにまんまとはめられたヴィヴィアンの元夫婦が、人物の中でもっとも深みがあったように思うのは私だけだろうか。
彼らの闇の暗さと、たくらみや巻き込まれた事件はもっとも現実に考えにくい役回りだったにもかかわらず。

だが、そうした欠点など取るに足りないと思えるぐらい、本書は航空機とそれを舞台にしたサスペンスの書き方に長けていたと思う。
あえて人物の書き方に注文を付けたのも、それだけ本書のサスペンスとしての構成がしっかりしていたからだ。

このあたりのバランスをどうすればよかったのかは、結果論に過ぎない。
一つだけいえるのは、本書が極上のサスペンスだったこと。それを読めて楽しめたことぐらいだ。

本書は余韻の描き方もとてもよかった。この終わり方によって、沸騰していた物語に締めくくりが付けられたように思える。

‘2019/6/19-2019/6/19


メデューサの嵐 上


本書は、だいぶ長い間、私の部屋で積ん読になっていた一冊だ。
ちょうど読む本が手元になくなったので手に取ってみた。

本書は、今まで積ん読にしていたのが申し訳ないほど面白かった。
何が面白かったかと言うと、飛行機の運転操縦に関する知識が深く、臨場感に満ちていたことだ。それもそのはずで、著者はもともと貨物便のパイロットをしていたそうだ。

本書の主人公であるスコットもまた零細貨物航空会社スコットエアの経営者であり、パイロットだ。そのスコットエアを運営しながら、綱渡りの経営を続け、営業で案件をとってきては収入を運営につぎ込む。その姿は、私と弊社そのもの。だから感情移入ができた。

しかも、本書の主人公の場合、実際の貨物便を所持している。
という事は、維持費がかかる事を意味する。また、それを運行するためのスタッフも雇わねばならない。
スタッフとはスコットエアの場合、副操縦士のジョン・ドク・ハザードと機関士のジェリー・クリスチャンだ。
スコットエアにはスタッフも大きな機器もある。だから、弊社のようにパソコンだけを持っていれば済むはずがない。
スコットの経営は、私よりもさらに過酷であり、綱渡りの連続であるはずだ。

さて、本書のタイトルにもなっているメデューサとは、メデューサウェーブを発する兵器の事だ。もちろん実在しない。著者の造語だ。
メデューサウェーブとは、強力な電磁波。その強力な電磁波によって、電子と磁気の情報で成り立っている情報機器を一撃で無効にできる。つまりデータを破壊できるのだ。
世界中のハードディスクに保存されているあらゆる情報や、ネットワーク上を行き来する電気信号。そうした情報は電子データであり、電子データが安全に保持されることが社会のあらゆる活動の前提となっている。
だが、メデューサウェーブによってそれらが一気に無効になるとすれば、その恐ろしさは計り知れない。実際、複数の国の兵器関係者は今も研究しているはずだ。

もしそのような恐ろしい兵器が、在野の一科学者によって作り上げられたとしたら。そして、その科学者が狂った動機をもとにその兵器を実際に稼働させようとしたら。もしその兵器がスコットの操縦する貨物機に積まれていたとしたら。
本書はそうした物語だ。全編がサスペンスに溢れている。

その科学者ロジャーズ・ヘンリーは、離婚した妻ヴィヴィアンに対して復讐しようとしていた。そして彼の復讐の刃は自分の才能を認めようとしなかった合衆国政府にも向けられていた。
そんなロジャーズの狂った執念を一石二鳥で実現したのがこのメデューサウェーブ。
ガンで自らの余命がいくばくもない事を知ったロジャーズは、ヴィヴィアンに連絡を取る。
その時、ヴィヴィアンは離婚したことによって収入のあてがたたれ、困窮状態にあった。
死の床で寝込んでいたロジャーズからの頼みを断れずに引き受けてしまったことが、本書の発端となる。

メデューサに巧妙な仕掛けを組んでいたそのロジャーズは、自ら命を断つ。
そしてヴィヴィアンは、生計がいよいよ立ち行かなくなり、ロジャーズの頼みを実行する。
ロジャーズの頼みとはヴィヴィアンも同伴したまま、貨物便にその箱に似た兵器を積み込む事。
しかし、積み込まれるべきだったメデューサは、手違いで積み込まれるべき貨物便とは違う便に積み込まれた。その飛行機こそ、スコットの操縦する飛行機だった。そしてスコットがそのまま飛行機を離陸させたことで、メデューサは空に解き放たれてしまう。
巧妙にも、ヴィヴィアンのペースメーカーと兵器を同期させるようにしていたロジャーズは、ワシントンの上空で兵器を作動させる。
兵器の電子コンソールには、ヴィヴィアンが離れると兵器をすぐに稼働させるという脅迫の文字が。

飛行機は着陸もできなければ、兵器を処分することもできない。つまり、燃料の切れるまで飛び続ける羽目に陥る。
しかも間の悪いことにアメリカに最大級の台風が襲来している。つまり、スコットは巨大な台風の中を、いつ爆発するとも知れない兵器とともに飛び続けなければならない。

貨物の積み込みや、空港での手続き。そして実際の操縦や航空機の形に関する知識。
そうした知識がないまま、本書のような物語を書くと、非現実的な設定に上滑りしてしまう。
だが、冒頭に書いた通り著者はもともと飛行機会社を経営していたという。そうしたキャリアから裏付けられた説得力が本書に読みごたえを与えている。

同時に著者は、兵器の情報がどのようにしてマスコミに漏れ、それがどのように世間を騒がせるかについてもきちんとリサーチを行っているようだ。
危険極まりない兵器が空を飛び回っていることを知った世間はパニックに陥る。
そのいきさつもきちんと手順を踏んでおり、無理やりな感じはしない。だから、本書からは説得力が保たれている。

今の社会は電子データに従って動いている。どこにでもありふれているが、ひとたび混乱すれば、世界の仕組みは破滅し、アメリカの覇権は雲散霧消する。
メデューサウェーブのような兵器の着想は、おそらく他の作家にも生まれていることだろう。だが、私にとっては本書で初めて出会った。それだけに、新鮮だった。

スコットの操縦する飛行機には、ドクとジェリー、ヴィヴィアンの他にもまだ乗客がいる。
南極での調査を終え、政府研究機関に至急渡したいからと荷物を運んでほしいと強引に乗り込んできた女性科学者のリンダ・マッコイ。
この5名の間にコミニケーションが取られながら、5人でどのようにして協力し合い、危機を脱するのか、という興味が読者をつかんで離さない。

実際のところ、本書の核心度や描き方、物事の進め方やタイミングなど、あらゆる面で第一級のサスペンスで、まさにプロの描いた小説そのものである。
才能の持ち主が知識を備えていれば、本書のような優れたサスペンスになるのだ。

いったいスコットたちはどのように危機を乗り切るのだろうか。下巻も見逃せない。

‘2019/6/14-2019/6/19


掏摸


著者の「教団X」は衝撃的な作品だった。私は「教団X」によって著者に興味を持ち、本書を手に取った。

本書は欧米でも翻訳され、著者の文名を大いに高めた一冊だという。
「掏摸」とはスリのこと。いかに相手に気づかれずサイフの中の金品を掏り取るか。数ある罪の中でも手先の器用さが求められる犯罪。それがスリだ。
もし犯罪を芸術になぞらえる事が許されるなら、スリは犯罪の中でも詐欺と並んで芸術の要素が濃厚だと思う。

スリは空き巣に近いと考えることもできるが、空き巣は大抵の場合、場所の条件によって成否が大きく左右される。
さらに、持ち主が被害に気づきやすい。大事になる。

ところが手練れのスリになれば、移動の合間にサイフの中身を抜き取り、持ち主が気づかぬうちに元の場所に戻すこともできる。
相手に盗まれたことすら気づかれぬうちに財布を戻し、しかもサイフの中の全ての金品を奪わずに、少しだけ残しておく。
そうすることで、極端な場合、移動を繰り返す被害者が、移動中のどこかで落としたぐらいにしか思わないことさえある。
被害者に犯罪にあったことさえ気づかせない犯罪こそ、完全犯罪といえるだろう。

そこには、本来、悪が持っている、やむにやまれぬ衝動ではなく、より高尚な何かがある。
それこそが他の犯罪に比べスリを芸術となぞらえた理由だ。
スリ師の一連の手順には、手練れになるまでの本人なりの哲学さえ露になる。
スリを行う上で、何に気をつけ、どういう動機で行うか。それはスリではないとわからないことだ。
むしろ、生き方そのものがスリとなっているのだろう。

だからこそ、著者はスリを取り上げたのだろう。
スリの生態や動機を知らべ、その生きざまを主人公の行動を通して明らかにし、文学として昇華させようとしたのだろう。
本書に描かれたさまざまなスリの生態。それはスリの営みが犯罪である事を踏まえても、犯罪として片付けるだけでは済まない人としての営みの本質が内包されているようにすら思える。
ただし、スリはあくまでも犯罪だ。スリを礼賛することが著者の狙いではない。

スリとはすなわち手口でしかない、いうなれば小手先の芸術。
そこには、何か作家の琴線に触れる職人的な魅力が備わっているのだろう。

本書には主人公の生き方を否定するかのような、さらに本格的な悪が登場する。
その悪の前には主人公の罪など、しょせん生きるためのアリバイに過ぎないとさえ思える。
思うに著者は、悪の本質を描くため、より軽微なスリという犯罪から描きたかったのではないか

著者は本書で悪の本質を追求したかったのだろう。
それを著者は本書に登場する絶対的な悪、つまり木崎の存在として読者に提示される。

絶対的な悪を体現した人物、木崎は、相手に対する一切の忖度をかけない。
そればかりか、主人公を否定すらしない。ただのモノとして、道具として扱う。

木崎の絶対的な悪に対し、主人公には甘さがある。
万引を繰り返す母子に同情をかける主人公。
子供は親の万引の片棒を担がせられている。そして、母はつぎつぎと男を引っ張り込む売春婦だ。
主人公は、彼らの万引の現場に居合わせる。そして彼らの手口が店側にばれていること。次に同じ現場で犯行を行うと、捕まることを母子に忠告する。
そのような主人公の同情を察し、子は主人公のもとに転がり込む。自らの境遇に嫌気がさして。

誰にとっても、人生とはつらく苦しいものだ。
ところが親にとって道具とされる子にとっては、辛い以前に人生とは万引そのものでしかない。何も将来が見えず、何の希望も知らない日々。
主人公のように、スリという犯罪を芸術として楽しむ余裕や視野すらない。より、憐れむべき存在。
だから主人公は子に同情する。そして憐れむ。

ところが絶対的な悪木崎にとっては、主人公が子にかける同情は一片の値打ちすらない。それどころか相手を意のままに操る弱みとして映る。
主人公は母子を人質にされ、木崎の命に従うことを強いられる。

主人公は木崎からスリを要求される。その難易度の高い手口とスリリングな描写は本書のクライマックスでもある。
主人公はどうやって不可能にも思えるスリを成し遂げるのか。
その部分はエンターテインメントに似た読み応えがあって面白い。

だが、本書には別の読みどころもある。それは絶対的な悪、木崎その人が悪の本質を語る場面だ。

「お前がもし悪に染まりたいなら、善を絶対に忘れないことだ。悶え苦しむ女を見ながら、笑うのではつまらない。悶え苦しむ女を見ながら、気の毒に思い、可哀そうに思い、彼女の苦しみや彼女を育てた親などにまで想像力を働かせ、同情の涙を流しながら、もっと苦痛を与えるんだ。」(119ページ)
「俺は人間を無残に殺したすぐ後に、昇ってくる朝日を美しいと思い、その辺の子供の笑顔を見て、なんて可愛いんだと思える。それが孤児なら援助するだろうし、突然殺すこともあるだろう。可哀そうにと思いながら!」(119ページ)

木崎によれば、この世とは「上位にいる人間の些細なことが、下位の人間の致命傷になる。世界の構造だ。」(140ページ)

その考えをつきつめると、最大の悪に行き着く。悪とは人の人生を完全に操ることだと木崎は語る。
木崎は、ある男の一生を例に挙げる。人生のすべての運命や出会いを知らぬ間に操られ続けた男。懸命に生きてきたと本人は信じているのに、すべての幸運も不幸も、出会いや別れさえもすべて上位のある存在にお膳立てされていたことにすぎなかった。それを知った時の男の絶望。

悪とは何をさすのか。
それは他人の人生への介入であり、支配ではないだろうか。
木崎の哲学はそこに行き着く。
自らを上位に立つ人間として位置づけ、絶対的な悪への信念にもとづき、他人を自らを支配する。
木崎の行動の動機はそこにある。その支配がさらに自らを上位に押し上げ、より純粋な悪へと昇華させる。

われわれ小市民が考える悪とは、自分自身を少しでも楽にするための営みに過ぎない。
木崎の考える悪とは、さらに他人の支配も絡める。例えば相手の体を傷つけたり、相手の金品を盗んだり、相手の生命を奪うといった。それこそが悪の一面だが、ただし、それを自覚的に行うのと自分の中の止まない衝動に操られて行うのでは悪の意味が違ってくる。
木崎は自分の信念に基づき、自覚して悪を行使する。だからこそ彼は悪の絶対的な体現者なのだ。

それに比べると、主人公は母子に対し善意の介入を行う。それは善に属する。
そこが主人公が営む悪、すなわちスリと木崎の考える悪の間にある絶対的な差なのだろう。

スリという営みからここまで悪の輪郭を描き出す本書。
私たちの普段の生き方を考える上でも悪は避けては通れない。
味わい深い一冊だ。

‘2019/6/9-2019/6/12


時生


たまに、著者はSFの設定に乗っかった作品を書く。本書もそのうちの一冊だ。
本書が面白いのは、SFの設定を支える技術をくだくだしく説明せずに、台詞だけで虚構の設定を読者に納得させていることだ。

その設定とは、タイムワープ。

自分の息子が過去の若い自分を助けに来る。
その設定を私たちはどこかで聞いたことがあるはずだ。ドラえもんで。そう、第一話でセワシが高曽祖父ののび太を助けに来たエピソードが頭に浮かぶ。

もちろん、本書は一筋縄のひねりでおしまいにしない。幾重にも設定や伏線を敷き、物語の世界がほころびないよう工夫を加えている。

本書を結構のある物語に仕立て上げ、著者が語ろうとしたメッセージとは何か。
私はそれを若さの無知と愚かさ、そして若さが持つ自由の可能性だと受け取った。

多くの人は若さの謳歌し、楽しんで過ごす。
その一方で、多くの若者はその自由を存分に味わうあまり、後に残そうとはしない。一瞬一瞬を衝動で生き、刹那の快楽として消費してしまう。
それは傍からみると、無知で愚かな行いにも思える。
だが、自由のただ中にいる当人にとっては、自らに与えられた一瞬こそが正義なのだ。
他人からしたり顔でどうこう言われたところで耳には入らないし、入れるつもりもない。

ところが普通の人は、年老いてもなお、若い気持ちを抱き続けることは出来ない。
どれほどハツラツとしたチョイワルオヤジであろうと、どこかが若い頃とは違うものだ。
体の張り、立ち居振る舞い、言葉に至るまで若い頃とは変わりつつある。経験を積み、老成し、体のどこかは確実に衰えてゆく。それが老いる宿命の残酷さなのだから。

この事実は、若き日にどれだけ悟っていようと、老けてからどれだけ若々しく心がけようとも変わらない。
若い日の自分と老いた自分は絶対に違う。
ところが、自分が将来どうなって行くかなんて決して誰にもわからない。
未来から来た人以外には。

本書は、宮本拓実の成長の物語だ。
本書の冒頭は、拓実が妻の玲子と語る場面で始まる。
二人の間に授かった一人息子である時生が、遺伝性の病で死の床に伏し、余命もわずかしかない。
その時、拓実は、若い頃に経験した不思議な縁を麗子に語り始める。

コネも学歴も能力もない若い日の拓実。1970年代が終わろうとする頃だ。その日ぐらしの拓実の毎日に希望は見えない。
若い頃はやる気と無鉄砲な前のめりだけを武器として突き進む。拓実もそうだ。傲岸にもとれる言動と根拠のない自信だけで突っ走ってゆく。
そんな拓実の日々は根無し草のようで、展望はない。

そんな日々に現れたのが、トキオと名乗る少年。
少しだけ拓実より年下のトキオの不思議な言動は、拓実を苛立たせる。だが、トキオに導かれるように、拓実の人生は転機を迎える。
トキオのすべてを見通したような言動に拓実は振り回されつつ、徐々に導かれながら成長を遂げてゆく。

未熟と言う言葉がそのまま当てはまる拓実の言動に苛立ちながら、恋人を追う拓実と行動をともにするトキオ。
若い頃の実の父の体たらくに幻滅しながら。

子が時間をさかのぼって未熟な頃の親の様子を見る。普通はまずありえない。
逆に親としても、自分の若い頃の姿を子に見られることはまずない。
私自身、ジタバタともがいている若き日の姿を娘たちに見られたら、さぞや赤面するに違いない。

自分の可能性だけを信じて生きるのに必死の拓実には、自分の将来などわかるはずがない。
その時の衝動に任せ、生きたいように生きていくしかないのだ。
それこそが生きる営みの本質なのだから。

子が親の若い頃に介入する本書の設定は、生の営みの本質をあぶり出す。
拓実とトキオの親子は世代として連続している。
そして、世代が連綿と受け継がれているからこそ人という種は続く。

だが、同じ血を分けた肉親であっても、種が同じであっても、心を共有することは不可能だ。
たとえ顔やしぐさが似通っていたとしても、人は自分の内面しか見通せない。それが個人の本質だ。
他人からいくら助言されようと、生きるのはしょせん自分。

拓実は、東京から名古屋、大阪と恋人を求めて奔走する中、トキオの助言もあって成長してゆく。
そして、未来に関するヒントをトキオから少しだけ示され、それをもとに将来の足がかりをつかむ。

それは確かにトキオのおかげだ。
だが、そこに著者のメッセージが含まれている。
私たちは、生きている上で将来に活かせるヒントを毎日誰かからもらっている。
それを生かすも殺すも無視するも受け入れるも自分次第。
その積み重ねを大切にした人は、成功を手にする。その事は、今までの成功者たちが無数の文章として書き伝えてくれている。

そしてもう一つ、本書で見落としてはならないのは、拓実たちを助けてくれる数多くの協力者の存在だ。
タケミやジェシーといった、一期一会の縁だけで恋人を探す拓実たちに手を差し伸べる人たち。
それは、私たちが生きていく上で大切な、人と結ぶ無数の縁の重みを教えてくれる。
学校やバイト先、職場や地域で知り合った人々との出会い。そうした人々との触れ合いが私たちを次第に大人へと成長させてくれる。
常に生活をともにするパートナー程ではないにせよ、こうした一瞬一瞬を共有する人々からの助けに気づき、それに感謝できる人生と、そうでない人生の違いの大きさよ。

拓実は、トキオや仲間との経験を通して、やさぐれて投げやりだった自分を反省する。そして、成長のきっかけをつかんでゆく。

その姿は、私自身にとっても、自分の成長のいきさつを見ているようで恥ずかしくなる。
拓実ほど尖っていた訳ではないが、私の若い頃の行いも相当に馬鹿げていたと思う。
それが今や40代も半ばを過ぎ。経営者であり家長に収まっている。
でも、それはあくまで結果論でしかない。
私も若い頃は若い頃なりに一生懸命に生きようとしていた。

今もなお、私は自分の人生を後悔しないように生きているつもりだ。
本書はそうした私の姿勢を後押ししてくれる本だ。
生きることとは、自分自身を全力で生きること。
それを雄弁に語っている。

その真理を、SF風の設定に仕立て、エンターテインメントとしても楽しめるように仕上げている。

本書はところどころに、1980年代を迎えようとする頃の世相を表す工夫が施されている。細かい所を探すと面白いかもしれない。
本書の舞台は私が6歳の頃であり、私にとっても何か懐かしい匂いがする。

1979年に実際に起こった日本坂トンネルの事故は本書の重要なモチーフとなっているが、おそらくこれからも東名道を車で通るたび、本書のことを思い出すに違いない。

‘2019/3/29-2019/3/29


僕が本当に若かった頃


老境に入った著者が過去の自分を思い返しつつ、そこから生まれた随想を文章にしたためる。
本書を一言で言い表すとこのようになる。

本書に収められた十の短編をレビューにまとめることは、正直言ってなかなか難解だ。

なぜなら、本編には、著者自身の人生を彩った出来事が登場し、著者の親族も登場し、そして著者が今までに発表した作品の登場人物が登場するからだ。

著者の代表作である『同時代ゲーム』はよく知られている。その世界観が著者が生まれ育った四国の山奥の村をモチーフとされていることも。
そうした作品に登場する人物は、著者の人生にも登場する人物でもある。そうした人物が本書にはあちこちで登場する。だから、著者の作品を読んでいないと読者には何のことか分からなくなってしまうのだ。

「火をめぐらす鳥」
この一編は、著者の生涯を持って生まれた息子との日々を描いている。
今や作曲家として著名な光氏と過ごした時間は、著者にどのような影響を与えたのか。
その一端が描かれる本編からは、光氏の存在が著者の作家活動に大きな影響を与えたことが見て取れる。

「「涙を流す人」の楡」
華やかな外交官との交流を語る内容が一転して、著者の育った四国の山奥の谷間の村の描写へと変わる。
その二者を繋ぐイメージがニレの木だ。楡を通して結びついた二つの世界。

その二つの世界の主人公である著者は時間によって隔てられている。
百戦錬磨の外交官との談論ができるようになった、と著者が感慨をもつ今。そして、四国の谷間の村の幼い頃の経験。
著者の育った谷間の村の狭いけれど豊かな世界が授けてくれたことは、著者の今と確かにつながっている。
その谷間の村の経験は、著者の作家活動にも大きな恵みをもたらしてくれた。そう著者は振り返る。

そしてそうした自分にさらなる成熟がもたらされたのも、外交官との交流があったからだと著者は述べる。
N大使の逝去に際して書かれたと思われる本編で、著者は今の自分の心で過去を再構成する。

それにしても著者の文章の読みにくさといったら!

「宇宙大の「雨の木」」
時間と空間をつらぬいて遍在する「不死の人」。
不死の人を小説に書きたいと願う著者が、文学の影響や好みを自由自在に語る。
三島由紀夫を批判し、フォークナーの作品世界を好む著者。
著者の探し求めるイメージの断片がさまざまに現れる。

“雨の木”は著者の作品でも登場する。
著者が想起する多様なシンボルが本編のように混交して現れることで、著者の小説の基本的なイメージが形をなしてゆく様子をうかがうことができる。

「夢の師匠」
谷間の村の「夢を読む人」と「夢を見る人」を見て育った著者の子供の頃の記憶。
彼らが戦争によって境遇を変えられてしまう様子は、著者に強い印象を刻む。
そのイメージを通し、続いての「治療塔」の構想へとまとまってゆくいきさつを記した一編だ。

平田篤胤全集の「仙童寅吉」の話と、ゲルショム・ショーレムの「ユダヤ神秘主義」に書かれた中世ヨーロッパの祈禱神秘主義をめぐる引用。
それらに刺激を受けたという著者がそれらを引用しつつ、SFへとイメージを広げてゆく。

「治療塔」
著者にとって珍しいと思われるSF作品。
筒井康隆氏と著者の交流は知られているが、本編は筒井氏の影響から生まれたのだろうか。
古い地球を見捨てる人類と、古い地球に留まり続ける人類。
新しい人類にならんとする人々は、治療塔で癒やされる。
著者にとって、人類や地球は理想の姿ではないだろう。ところが治療塔の概念は、人類が自ら根本的に成長を遂げることを諦めてしまっているかのようだ。
それは著者自身の諦めの表れなのだろうか。『治療塔』はまだ読んでいないので、機会があれば読んでみたいと思う。

「ベラックワの十年」
ダンテの「神曲」をモチーフにした著者の作品『懐かしい年への手紙』に登場させなかった道化者のべラックワ。

その姿を振り返りながら、自らの中の道化の部分や放埒さを思い起こそうとする一編だ。
本書の中では読みやすい部類に入る。

ノーベル賞を受賞し、難解と言われる作風のため、著者に近づきがたい印象を受けているのなら、本編で書かれた著者の姿から印象が変わるかもしれない。

「マルゴ公妃のかくしつきスカート」
性的に放縦だったとされるマルゴ公妃の生涯を振り返るテレビ番組をきっかけに、ある人物の放縦と性的な自由さを探ってゆく一編。

著者の思索の対象はマルゴ公妃だけではない。テレビ局のスタッフである篠君の言動も著者の興味を引く。その二人を通して、著者は人の自由さとは何かについて考えを深めてゆく。

著者にとって冒険とは文学的なそれに等しいと思う。だが、著者は自由で羽目を外した行いをする人物には見えない。きっと堅実だったと思う。動くよりも見る側の人。
その証拠に以下のような文章が登場する。
「事実、小説家は志賀、井伏といった例外的な「眼の人」をのぞいて、見る瞬間にではなく、文章を書き、書きなおしつつ、かつて見たものをなぞる過程でしだいに独特なものを作ってゆくのだ。」(202p)

「僕が本当に若かった頃」
著者が20歳の頃、家庭教師をしていた繁君。ひょんなことで繁君の消息がわかったことから、著者が当時のことを思い出し、つづってゆく一編。
まさに著者が若かった頃の話だ。

かつて著者の前から消息を絶った繁君に何が起こったのか。繁君はその理由を長文の手紙で知らせてくる。
本編に載っているその手紙は果たして著者の創作なのか。それとも繁くんの実際の手紙なのか。私にはわからない。

繁君の秘密が明かされてゆく様は本編は、ミステリーを読んでいる気分になる。

「茱萸の木の教え・序」
著者の故郷の四国から、孝子ことタカチャンの残した文書やその他の事績をまとめる段ボールが送られてきたことから始まる一編。
孝子とは、著者の従妹にあたる。起伏の多い人生を送った末、亡くなった。
著者の伯父がその一生をまとめたいと、作家である著者に託す意図で送ってきた資料の数々。

著者はタカチャンの思い出を振り返る。その中で著者は故郷で繁っていた茱萸の木に着目する。タカチャンの残した文の中でもいく度か取り上げられる茱萸の木。
伐採されてしまった茱萸の木に語りかけていたタカチャンの思いは何か。それを探りながら著者はタカチャンの一生をつづってゆく。

そうすることで著者なりに同時代を生きたタカチャンの鎮魂を果たそうとするかのように。

「著者から読者へ」
これは本書に収められた「僕が本当に若かった頃」を書いた著者から読者に向けての手紙の体裁をとっている。
著者にとっては「僕が本当に若かった頃」は、旅の疲れを癒やす作品でもあったようだ。

解説の井口時男氏の文章は、大江健三郎という巨大な作家の著作群の中で、本書が占める意味を克明に記している。
その中で本書のいくつかで登場した若い頃の著者=僕の出来事は、徹底的に言語化された「僕」というテキストになっていることが示される。つまり、本書は私小説ではないし、エッセイもどきの小説でもない。
本書は著者がその小説技法を存分に生かした巧妙な短編群なのだ。

‘2018/11/20-2018/11/28


サラバ! 下


1995年1月17日。阪神・淡路大震災の日だ。被災者である私は、この地震のことを何度かブログには書いた。当時、大阪と兵庫で地震の被害に大きな差があった。私が住む兵庫では激甚だった被害も、少し離れた大阪ではさほどの被害を与えなかった。

大阪に暮らす今橋家にとってもそう。地震はさほどの影響を与えなかった。今橋家に影響を与えたのは、地震よりもむしろ、そのすぐ後に起きた3月20日の地下鉄サリン事件と、それに続いて起きたオウム真理教への捜査だ。なぜならそれによって、サトラコヲモンサマを崇める宗教が周りの白い目と糾弾に晒されたからだ。それにより、実質的な教祖である大家の矢田のおばさんにかなり帰依していた姉の貴子の寄る辺がうしなわれる。この時、宗教の本尊であるサトラコヲモンサマの名の由来も明かされる。

宗教をとりあげたこのエピソードによって著者は、宗教や信心がいかに不確かなものを基にしているか、その価値観の根拠がどれだけ曖昧であるかを示す。本書は下巻に至り、終盤になればなるほど、著者が本書に込めた真のテーマが明らかになってくる。それは、信ずる対象とは結局、自分自身だということ。他人の価値観や、社会の価値観はしょせん相対的なもの。だからこそ、自分自身の中に揺らぐことのない価値観を育てなければならない。

宗教という心のよりどころを失い、再び、貴子は部屋にこもりきりになる。そして、自分の部屋の天井や壁にウズマキの貝殻の模様を彫り刻み始める。エジプトを去るに当たり、父と離婚した母は、恋人を作っては別れを繰り返す。デートのたびにおしゃれで凛とした格好で飾り立て、独り身になると自堕落な生活と服装に戻る。父は、会社をやめ、出家を宣言する。いまや、家族はバラバラ。「圷家の、あるいは今橋家の、完全なる崩壊」と名付けられたこの章はタイトルが内容そのままだ。

そんな家族の中の傍観者を貫いていた歩。高校時代の最後の年が地震とオウムで締めくくられ、社会のゆらぎをモロに受ける。高校時代、歩が親友としてつるんでいた須玖は、地震がもたらした被害によって、人間の脆さと自らの無力さに押しつぶされ、引きこもってしまう。そして歩との交遊も絶ってしまう。

須玖の姿は私自身を思い出させる。私と須玖では立場が少し違うが、須玖が無力感にやられてしまった気持ちは理解できる。私の場合は被災者だったので鬱ではなく、躁状態に走った。私が須玖と同じように鬱に陥ったのは地震の一年半後だ。私は今まで、阪神・淡路大地震を直接、そして間接に描いてきた作品をいくつも読んで来た。が、須玖のような生き方そのものにかかわる精神的なダメージを受けた人物には初めて出会った。彼は私にとって、同じようなダメージを受けた同志としてとても共感できる。当時のわたしが陥った穴を違う形で須玖として投影してくれたことによって、私は本書に強い共感を覚えるようになった。私自身の若き日を描いた同時代の作品として。そしてそれを描いた著者自身にも。私より四つ年下の著者が経験した1995年。著者が地震とオウムの年である1995年をどのように受け止めたのかは知らない。だが、それを本書のように著したと考えると興味は尽きない。

もう一つ、本書に共感できたこと。それは一気に自由をあたえられ、羽目を外して行く歩の姿だ。東京の大学に入ったことで、目の前に開けた自由の広がり。そのあまりの自由さに統制が取れなくなり、日々が膨張し、その分、現実感が希薄になって行く歩の様子。それは、私自身にも思い当たる節がある。歩の東京での日々を私の関大前の日々に変えるだけで、歩の日々は私の大学時代のそれに置き換わる。そういえば歩がバイトしていたレンタルレコード屋は、チェーン展開している設定だ。まちがいなく関大前にあったK2レコードがモデルとなっているはずだ。著者も利用したのだろう。K2レコードは今も健在なのだろうか。

大学で歩はサブカルチャー系のサークルに入り、自由な日々と刺激的な情報に囲まれる。女の子は取っ替え引っ替え、ホテルに連れ込み放題。全てが無頼。全てが無双。容姿に自信のあった歩は、東京での一人暮らしをこれ以上望めないほど満喫する。鴻上というサークルの後輩の女の子は、サセ子と言われるほど性に奔放。歩はそんな彼女との間に男女を超えたプラトニックな関係を築く。大学生活の開放感と全能感がこれでもかと書かれるのがこの章だ。

続いての章は「残酷な未来」という題だ。この題が指しているのは歩自身。レンタルレコード店の店内のポップやフリーペーパーの原稿を書き始めた歩。そこから短文を書く楽しさに目覚める。そして大学を出てからもそのままライターとして活動を続ける。次第に周りに認められ、商業雑誌にも寄稿し、執筆の依頼を受けるまで、ライターとしての地位を築いてゆく。海外にも取材に出かけ、著名なミュージシャンとも知り合いになる。

貴子は貴子で、東京で謎のアーチストとして、路上に置いた渦巻きのオブジェにこもる、というパフォーマンスで有名になっていた。ところが歩の彼女がひょんな事でウズマキが歩の姉である事を知る。さらに歩に姉とインタビューをさせてほしいと迫る。渋る歩を出しぬき、強引にインタビューを敢行する彼女。それがもとで歩は彼女を失い、姉はマスメディアでたたかれる。

さらに歩には落とし穴が待ち受ける。それは髪。急激に頭髪が抜け始め、モテまくっていた今までの自分のイメージが急激に崩れた事で、歩は人と会うのを避けるように。すると自然に原稿依頼も減る。ついにはかつての姉のように引きこもってしまう。今まで中学、高校、大学、若手、と人生を謳歌していた自分はどこへ行ったのか。ここで描かれる歩の挫折もまた、大学卒業後にちゅうぶらりんとなった私自身の苦しい日々を思い出させる。

そんな歩はある日、須玖に再会する。高校時代の親友は長い引き込もりの期間をへて、売れないピン芸人になっていた。傷を舐め合うようにかつての交流を取り戻した二人。そこに鴻上も加わり、二人との交流だけが世の中への唯一の縁となり下がった歩。そんな歩に須玖と鴻上が付き合い始める一撃が。さらに歩は付き合っていた相手からも別れを告げられる。とうとう全てを失った歩。

本書はそれ以降もまだまだ続く。本書は、私のように同時代を生き、同じような挫折を経験したものにとっては興味深い。だが、読む人によっては単なる栄光と転落の物語に映るかもしれない。だが、そこから本書は次なる展開にうつる。

今までに本書が描いて来た個人と社会の価値観の相克。それに正面から挑み続け、跳ね返され続けてきたのが貴子であり、うまくよけようと立ち回ってきた結果、孤独に陥ってしまったのが歩。本書とは言ってしまえば、二人の世の中との価値観の折り合いの付け方の物語だ。

「「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ。」」という、貴子からの言葉が歩に行動を起こさせる。ようやく自分を理解してくれる伴侶を得た貴子がようやく手に入れた境地。自分の中にある幹を自覚し、それに誠実であること。そのことを歩に伝える貴子の変わりようは、歩に次なる行動を起こさせる。

歩は現状を打破するため、エジプトへと向かう。かつて自分が育ち、圷家がまだ平和だったころを知るエジプト。エジプトで両親に何がおこったのか、自分はエジプトで何を学んだのか。それらを知るため旅に出る。圷家と今橋家の過去の出来事の謎が明かされ、物語はまとまってゆく。読者はその時、著者が本書を通して何を訴えようとしてきたのかを理解できるだろう。

親友のヤコブはコプト教徒だった。イスラム教のイメージが強いエジプトで、コプト教を信じ続けることの困難さ。コプト教とはキリスト教の一派で、コプトとはエジプトを意味する語。マイノリティであり続ける覚悟と、それを引き受けて信仰し続ける人間の強さ。

本書には著者に影響を与えた複数の作品が登場する。ニーナ・シモンのFeeling Goodや、ジョン・アーヴィングの「ホテル・ニューハンプシャー」だ。
前者は、
It’s a new dawn
It’s a new day
It’s a new life
For me
And I’m feeling good の歌詞とともに。全ては受け入れ、全てをよしとすることから始まる。物事はあるがままに無数の可能性とともにある。それをどう感じ、どう生かすかは自分。全ては自分の価値観によって多様な姿を見せる。

育んだ価値観に自信が持てれば、あとはそれを受け入れてくれる誰かを探すのみ。歩は誰かを探す旅に踏みだす。その時、SNSには頼らない。SNSは人との関係を便利にするツールではあるが、自分の中の価値観を強くするためのツールではない。自分の価値観で歩み、SNSに頼らず生身の関係を重んじる。主人公の名のように。

歩も著者も1977年生まれ。私の四つ年下だ。ほぼ同じ年といってよいはず。私も今、自分の人生の幹を確かなものにし、「「自分が信じるものを、誰かに決めさせないため」」に歩み続けている。自らの価値観に忠実であることを肝に銘じつつ。

上巻のレビューで本書が傑作であると書いたのは、本書が読者を励まし、勇気付けてくれるからだ。今どき、教養小説という存在は死に絶えた。だが本書は、奇妙なエピソードを楽しめるエンタメ小説の顔を見せながら、青少年が読んで糧となりうる描写も多い。まさに現代の教養小説といってもよい読むべき一冊だ。

‘2018/08/14-2018/08/16


サラバ! 上


私は本書のことを、電車の扉に貼られたステッカーで知った。そのステッカーに書かれていた、本書が傑作であるとうたうコピー。それが本書を手に取った理由だ。その他の本書についての予備知識は乏しく、それほど過度な期待を持たずに読み始めた。迂闊なことに、帯に書かれていた本書が直木賞受賞作であることも気づかずに。

だが、それが良かったのかもしれない。本書は私にとって予期しない読書の喜びを与えてくれた。上質の物語を読み終えた時の満足感と余韻に浸る。本読みにとっての幸せの一瞬だ。本書はすばらしい余韻を私にもたらしてくれた。

本書の内容は、いわゆる大河小説と言ってもよいだろう。ある家族の歴史と運命を時系列で描いた物語。一般的に大河小説とは、長いがゆえに、読者をひきつけるエピソードが求められる。内容が単調だと冗長に感じ、読者は退屈を催す。だから最近の小説で大河小説を見かける事はあまりない。ところが、本書は大河小説の形式で、読者に楽しみを提供している。本書には読者を退屈させる展開とは無縁だ。奇をてらわずに、読者の印象エピソードを残しつつ、ぐいぐいと読ませる。

本書に登場するのは、ある個性的な家族、圷家。主人公で語り手である歩は、そんな家族の長男として左足からこの世に生まれる。つまり逆子だ。歩が産まれたのはイランのテヘラン。革命前の1977年のことだ。普通の日本人とは違う。生まれが人と違う。ところが本人はいたって普通の人間であろうとする。そればかりか自ら目立たぬように心がけさえする。エキセントリックな姉の陰に隠れるように。

体中で疳の虫が這いずり回っているような姉の貴子。自分が認められたい、注目されたい。そんな姉は産まれてきた唯一の理由が母を困らせること、であるかのように盛大に泣く。欲求が満たされるまで泣く。決して満たされずに泣く。自己主張の権化。ホメイニによるイラン革命の余波を受け、一家が日本に帰国してからも、姉の振る舞いに歯止めはかからない。ますますおさまりがつかなくなる。

よく、次男や次女は要領よく振る舞うという。本書の歩も同じ。長男ではあるが、男勝りの姉の下では次男のようなもの。姉と母の戦いを普段から眺める歩は、自らの身の処し方を幼いうちから会得してしまう。そして要領よく、一歩引いた立場で傍観する術を身につける。

幼稚園にはいった歩は社会を知り、歩なりに社会と折り合いをつけてゆく。ところが、社会よりもやっかいなのが姉の奇矯な言動だ。貴子の扱いに悩む母。「猟奇的な姉と、僕の幼少時代」と名付けられたはじめの章は、まさにタイトル通りの内容だ。猟奇的な姉の陰に隠れ、歩は自らのそんざを慎むことを習い性とする。それに比べて貴子は自らを囲むすべてに敵意と疑いの目を向け続ける。すでにこの時点で本書の大きなテーマが提示されている。人は社会にどう関わってゆくのか、という表向きの大きなテーマとして。

本書は歩の視点で圷家の歴史を語ってゆく。歩の幼稚園時代の記憶も克明に描きつつ。園児の間にクレヨンを交換する習慣。一読するとこのエピソードはさほど重要ではないように思える。だが、このエピソードは本書を通して見逃せない。なぜなら、歩がどういう立場で社会に関わっていくかが記されるからだ。そして、このエピソードは、本書に流れる別のテーマを示唆している。人気がある色を好意を持つ相手にあげるのではなく、自分が好きな色を相手にあげる行い。人気があるから選ぶのではなく、自分の価値観に沿っているから選ぶ。そこには自分しか持ち得ない価値観の芽生えがある。歩がひそかに好意を持つ「みやかわさき」も、皆に人気の色には目もくれず、自分の望む色を集めることに執心する。

続いての章は「エジプト、カイロ、ザマレク」。一家は再びエジプトに旅立つ。歩は7歳。つまり歩は小学校の多感な時期の学びを全てエジプトで得る。日本の教育と違ったエジプトの教育。現地の日本人学校には妙な階級意識やいじめとは無縁だ。なぜならエジプトの中で日本人同士、助け合わなければならないから。そんな学校で歩は親友を作り、その親友と疎遠になる。そして、エジプト人でコプト教徒のヤコブと親友になる。

この章で描かれたエジプトは妙にリアル。これは著者のプロフィールによると実際に住んだことがあるからのようだ。アラブの文化が日本のそれとかなり離れており、幼い時期に異文化をたっぷり浴びた経験が、歩と貴子のそれからに多大な影響を与えたことは想像に難くない。

ダイバーシティや多様性の大切さは最近よく言われるようになって来た。だが、それを言い募る人は、本当の意味の多様性を理解しているのだろうか。少なくともわたしは自信がない。せいぜい数カ所の、それも一、二週間程度、海外に渡航した程度では、何もわからないはず。せいぜいが日本の各地の県民性を多様性というぐらいが精一杯だろう。少なくとも本書で描かれるエジプトの生活は、日本人が知る生活や文化とは大きく違っていて、それが本書に大きな影響を与えているのは明らかだ。

さて、本書の主人公である歩は男性、そして著者は女性だ。ずっとわたしは本書を読む間、著者自身が投影されていたのはどちらだろう、と考えていた。歩なのか、貴子なのか。多分、私が思うに、著者が自身を投影していたのは、貴子であり、歩が幼稚園で気にかけていたミヤガワアイなのだろう。そして、彼女たちの姿が歩の視点から描かれている、ということはつまり、本書は著者が自分自身を歩の視点から客観的に描いたとも取れる。本書がもし、著者の自伝的な要素を濃く含んでいて、それがわたしの推測通り、主人公の周囲の人物に投影されていたとすれば、本書がすごいのは自分自身を徹底して客観化させたことではないか。もちろん、本書で描かれた貴子やミヤガワアイと同じ行いを著者がしたはずはない。だが、彼女たちの奇矯な行動は、著者が自分の中に眠る可能性を最大限に飛躍させた先にある、と考えると、著者のすごさが分かる気がする。

私は下巻まで一気に読み終えた後、著者にとても興味を持った。そして面白い事実を知った。それは著者が1977年生まれで大阪育ち、という事だ。私と4つしか違わない。しかも、出身は私と同じ関西大学。法学部だという。ひょっとしたら私は著者と学内ですれ違っていたかもしれない。それどころか政治学研究部にいた私は、法学部に何人もの後輩がいたので、著者を間接的に知ってい他のかもしれない。そんな妄想まで湧いてしまう。

歩の両親に深刻な亀裂ができ、その結果、両親は離婚する。父を残して圷家は日本に引き上げる。歩はヤコブに「サラバ!」と言い残し、エジプトを離れる。なぜ両親は離婚したのか。その事実は歩に知らされない。そして、垰歩から今橋歩に名が変わり、中学、高校と育ちゆく歩。サッカー部に属し、クールでイケてる男子のイメージを築き上げることに成功する。彼女ができ、初めてのキスと初体験。

そんな今橋家の周りを侵食する宗教団体。いつの間にか発生したが宗教団体は、サトラコヲモンサマなる御神体を崇める。教義もなく、自然に発生し、自然に信者が増えたその宗教団体。人望のあった大家の矢田のおばさんの下、集った人々が中心となったこの奇妙な集まりは、無欲だった事が功を奏したのか、歩の周囲を巻き込み、巨大になってゆく。姉貴子も矢田のおばさんの元に熱心に通い詰め、自然と教祖の側近のような立場で見られるようになる。幼い頃から自分を託せる存在を求め続けた貴子がようやく見つけた存在。それが信心だった事は、本作にも大きな意味を与える。「サトラコヲモンサマ誕生」と名のついたこの章は、本書の大きな転換点となる。

そんな周りの騒がしさをモノともせず、青春を謳歌し続ける歩。一見すると順風満帆に見える日々だが、周りに合わせ、目立たぬような生き方という意味では本質はぶれていない。流れに合わせることで、角を立てずに生きる。そんな歩の生き方は、私自身が中学、高校をやり過ごした方法と通じるところがある。ある意味、思春期をやり過ごす一つのテクニックである事は確かだ。だが、その生き方は大人になってから失敗の原因にもなりかねない。今の私にはそのことがよくわかる。

結局、ここまで書かれてきた歩と貴子の危うさとは、同じ道を通ってきた大人の読者にしかわからないと思う。若い時分の危機を乗り越えてきた大人と、若い読者。ともにやきもきさせながら、歩と貴子の二人の人生は、強い引力と放ち、読者をひきつける。そして結末まで決して読者を離さない。なぜならば、読者の誰もが通って来た道だから。そして、たどろうとする道だから。個性のかたまりに見える歩と貴子だが、誰もが心のどこかに二人のような危うさを抱えていたはず。

‘2018/08/13-2018/08/13


DINER


小説や漫画など、原作がある作品を映像化する時、よく“映像化不可能“という表現が使われる。原作の世界観が特異であればあるほど、映像化が難しくなる。さしずめ本作などそういうキャッチコピーがついていそうだと思い、予告編サイトをみたら案の定そのような表現が使われていた。

原作を読むと“映像化不可能“と思わせる特異な世界観を持っている。映像化されることを全身でこばんでいるかのような世界観。私にとっても、原作を映像で観たいと願うと自体が発想になかった。(原作のレビュー

レビューにも書いたが、原作にはかなりのインパクトを受けた。人体の尊厳などどこ吹く風。イカレた描写にあふれた世界観は、脳内に巣くう常識をことごとくかき乱してくれる。小説である以上、本来は字面だけの世界である。ところが、あまりにもキテレツな世界観と強烈な描写が、勝手に私の中で作品世界のイメージを形作ってくれる。原作を読んだ後の私の脳裏には、店の内装や登場人物たちのイメージがおぼろげながら湧いていた。イメージに起こすのが苦手な私ですらそうなのだから、他の読者にはより多彩なイメージが花開いたはずだ。

原作が読者のイメージを喚起するものだから、逆に映像化が難しい。原作を読んだあらゆる読者が脳内に育てた世界観を裏切ることもいとわず、一つの映像イメージとして提示するほかないからだ。

監督は最近よくメディアでもお見掛けする蜷川実花氏。カメラマンが持つ独特の感性が光っている印象を受けている。本作は、監督なりのイメージの提示には成功したのではないだろうか。原色を基調とした毒々しい色合いの店内に、おいしそうな料理の数々。原色を多用しながらも、色の配置には工夫しているように見受けられた。けばけばしいけれども、店のオーナーであるBOMBEROの美意識に統一された店内。無秩序と秩序がぎりぎりのところで調和をとっている美術。そんな印象を受けた。少なくとも、店内や料理のビジュアルは、私の思っていた以上に違和感なく受け入れられた。そこに大沢伸一さんが手掛ける音楽がいい感じで鳴り響き、耳でも本作の雰囲気を高めてくれる。

一方、原作に登場する強烈なキャラクターたち。あそこまでの強烈さを映像化することはとてもできないのでは、と思っていた。実際、キャラクターのビジュアル面は、私の期待をいい意味で裏切ることはなかった。もともと期待していなかったので、納得といえようか。たとえばSKINのビジュアルは原作だともっとグロテスクで、より人体の禍々しさを外にさらけ出したような描写だったはず。ところが、本作で窪田さんが演じたSKINのビジュアルは、何本もの傷跡が皮膚の上を走るだけ。これは私にとってはいささか残念だった。もっと破滅的で冒涜的なビジュアルであって欲しかった。もっとも、スキンのスフレを完食した事により狂気へ走るSKINを演じる窪田正孝さんはさすがだったが。

原作にはもっと危険で強烈なキャラクターが多数出ていた。だが、その多くは本作では割愛されていた。甘いものしか食わない大男のジェロ。傾城の美女でありながら毒使いの炎眉。そして妊婦を装い、腹に劇物を隠すミコト。特にミコトの奇想天外な人体の使い方は原作者の奇想の真骨頂。だからこそ、本作に登場しなかったのが残念でならない。

ただ、キャラクターが弱くなったことには同情すべき点もある。なにしろ本作には年齢制限が一切ついていない。子供でも見られる内容なのだ。それはプロデューサーの意向だという。だから本作では、かき切られた頸動脈の傷口から血が噴き出ない。人が解体される描写も、肉片と化す描写も省かれている。そうした描写を取り込んだ瞬間、本作にはR20のレッテルが貼られてしまうだろう。そう考えると、むしろ原作の異常な世界観を年齢制限をかけずにここまで映像化し脚本化したことをほめるべきではないか。脚本家を担当した後藤ひろひと氏にとっては、パンフレットで告白していたとおり、やりがいのあるチャレンジだったと思う。

ただ、キャラクターで私のイメージに唯一合致した人物がいる。それはKIDだ。私が原作のKIDに持っていたイメージを、本作のKIDはかなり再現してくれていた。KIDの無邪気さを装った裏に渦巻く救いようのない狂気を巧みに演じており、瞠目した。 本郷奏多さんは本作で初めて演技を見たが、久しぶりに注目すべき役者さんに出会えた気がする。

もう一つ、原作にはあまり重きが置かれなかったデルモニコなどのラスボス達。本作ではジェロや炎眉やミコトを省いたかわりにラスボスを描き、映像化できるレベルに話をまとめたように思う。それは、本作を表舞台に出すため、仕方がなかったと受け入れたい。

原作の持つまがまがしい世界観を忠実に再現するかわり、カナコの成長に重きを置く描写が、本作ではより強調されていたように思う。それは私が原作で感じた重要なテーマでもある。本作は、カナコの幼少期からの不幸や、今のカナコが抱える閉塞感を表現する演出に力を注いでいたように思う。その一つとして、カナコの内面を舞台の上の出来事として映像化した演出が印象に残る。ただ、原作ではBOMBEROとカナコの間に芽生える絆をもう少し細かいエピソードにして描いており、本作がカナコの成長に重きを置くのなら、そうしたエピソードをもう少し混ぜても良かったかもしれない。

それにしても、本作で初めて見た玉城ティナさんは眼の力に印象を受けた。おどおどした無気力な冒頭の演技から、話が進むにつれたくましさを身に付けていくカナコをよく演じていたと思う。

そして、主演の藤原竜也さんだ。そもそも本作を見たきっかけは、藤原竜也さんのファンである妻の希望による。妻の期待に違わず、藤原さんはBOMBEROをよく演じていたと思う。原作のBOMBEROは、狂気に満ちた登場人物たちを統べることができるまともなキャラクターとして描かれている。原作のBOMBEROにもエキセントリックさはあまり与えられていない。本作で藤原さんがBOMBEROに余計な狂気を与えず、むしろ抑えめに演じていたことが良かったのではないだろうか。

本作は、いくつかの原作にないシーンや設定が付け加えられている。その多くはカナコに関する部分だ。私はその多くに賛成する。ただし、本作の結末は良しとしない。原作を読んで感じた余韻。それを本作でも踏襲して欲しかった。

そうしたあれこれの不満もある。だが、それらを打ち消すほど、私が本作を評価する理由が一つある。それは、本作をとても気にいった娘が、本が嫌いであるにもかかわらず原作を読みたいと言ったことだ。実際、本作を観た翌日に原作を文庫本で購入した。完成されたイメージとして提示された映像作品も良いが、読者の想像力を無限に羽ばたかせることのできる小説の妙味をぜひ味わってほしいと思う。グロデスクな表現の好きな娘だからこそ、原作から無限の世界観を受け止め、イラストレーションに投影させてくれるはずだから。

‘2019/08/11 イオンシネマ新百合ヶ丘


ファインダーズ・キーパーズ 下


上巻を使って、ベラミーの凶行の動機がどうやって生まれたのか、そしてベラミーの狂気がピートとアンディにどういう運命をもたらそうとするかを描いた著者。

ピートとその家族に害を成すベラミーに対するは、前作と同じくビル・ホッジズの役目だ。上巻のレビューで、本作を読むまえに前作『ミスター・メルセデス』は読んだほうが良いと書いた。それは『ミスター・メルセデス』で果たしたホッジズの役割が何度も言及されるからだ。本書の肝はベラミーがロススティーンの残した未発表原稿への執着に尽きる。そのため、上巻の多くはロススティーンに対するベラミーの殺害の一部始終と、ピートが未発表原稿を見つけ、なぜそれをアンディーが営む稀覯本の店に持ち込もうとしたかの理由を描くことに費やされている。

そのため、上巻では探偵役であるホッジズは多く登場しない。そのかわり『ミスター・メルセデス』のエピソードを何度もはさむことで、ホッジズの人となりを描いている。著者はホッジズのことは『ミスター・メルセデス』を読んで理解してほしい。あらためて本書で紹介するには及ばない、と考えているのだろう。

下巻では、ホッジズに相談が寄せられるシーンで始まる。相談を持ちかけたのは、ピートの妹ティナ。ティナの友人が『ミスター・メルセデス』で重要な役割を果たし、ホッジズの友人であるジェロームの妹のバーバラだ。兄の不審なふるまいに不安を覚えたティナがバーバラに相談し、二人でホッジズのもとへ訪ねて来る。そこからホッジズはこの事件に関わってゆく。ここにきて『ミスター・メルセデス』で登場した主要な人物が顔をそろえ、物語が動き始める。このあたりの人物描写は『ミスター・メルセデス』を読んでいないと理解できないと思われる。なので、前作は読んでおいた方が良い。

上巻のレビューにも書いた通り、ベラミーの凶行がアンディーの稀覯本屋で繰り広げられる。そこにやってきたのがピート。当初、未発表原稿をアンディーの店に持ち込んだところ、盗んだ品ではないかと逆に脅される。それに対し、精一杯虚勢を張ろうとしていたピートが見たのは酸鼻に満ちた店内。ベラミーに遭遇したピートは、かろうじて惨劇の場から逃げ出すことに成功する。だが、ベラミーはピートがかつて自分が住んでいた住まいの今の住人であることを知る。やがてその家はベラミーに蹂躙される。さらに、万が一に備えてピートが未発表原稿を隠しておいた娯楽センターを舞台に、ベラミーの未発表原稿への執念は燃え盛る。

なお、本書のエピローグでは、『ミスター・メルセデス』その人が登場する。ホリーによってすんでのところで凶行を邪魔され、逆に脳が壊れるほどのダメージを負わされたブレイディ・ハーツフィールド。彼の登場は唐突なので、このエピローグは前作を読んでいないと全く理解できないはずだ。上巻のレビューで本書には細かな傷が見受けられると書いたが、これもその一つ。今までの著者の作品はキャッスル・ロックやデリーといった架空の地を舞台とし、世界はつながっていた。だが、ここまであからさまにシリーズを意識した書き方はしていなかったように思う。本書はシリーズを同士の繋がりが特に強い。だから前作『ミスター・メルセデス』を読まねば本書のいくつものエピソードは理解できないように書かれている。これはささいだが本作の傷だと思う。

だがその傷を含め、著者はどうやったら本書をミステリーとして成り立たせるかについて苦心したようだ。少なくとも私にはそう感じられた。どのようにしてそれぞれの作品のエピソードをつなぐのか。どうやってベラミーやピートの内面をストーリーに添わせるのか。本書ではそういった著者の手腕が堪能できるし、参考にもなる。

もう一つ、本書から感じられることがある。それは、著者が持つ純文学への憧れだ。ここ近年の著者の作品には純文学作家への言及が増えてきたように思う。たとえばサマセット・モーム。ジョン・アーヴィングを意識したと思える描写にも時折出くわす。本書もそうだ。ロススティーンという純文学の大家とその代表作。そしてその遺稿。ロススティーンの代表作とされるジミー・ゴールドの粗筋を本書の随所に挟みこむことによって、著者は読者が真に読みたがる純文学とは何かを問うているように思える。

本書を読んでいて、いつか著者が作家としての集大成として純文学を発表するのではないかと思わされた。今までの著者の作品の中で、私があまり感心しなかったのが『アトランティスの心』だ。これは純文学のアプローチを著者が試し、うまくいかなかった例だと思う。だが、本書を読んだ結果、ホラー、そしてミステリーと範囲を広げてきた著者が、最後に向かうのは純文学ではないかと思うようになった。

著者はきっと成し遂げてくれるはず。読者を感動の渦に巻き込み、人間とは、世界とは何かを十分に感じさせてくれる作品だってものにしてくれるはずだ。ここまで読者を恐怖に叩き込み、読者を寝不足にさせる作家は古今東西を見回してもそうそういない。これだけの筆力を持つ著者であるからには、素晴らしい純文学の作品を発表してくれると信じている。著者は今までの作品でアメリカの人種差別にも触れてきている。その現実と融和も描こうと苦心している。例えば著者が現代アメリカの闇とその融和に苦しむ現実を世界のモデルケースとして描いたら、ノーベル文学賞だって夢ではないと思う。

私はぜひ、著者の純文学作品を読んでみたい。そしてもし、著者の未発表作品が手元に舞い込んできたら何をおいても読みたいと願い、狂奔することだろう。ちょうど本書のベラミーやピートやアンディーのように。本当に優れた本にはそれだけの魔力がある。著者はそれがわかっているし、そういう作品を世に問いたいと願っているはずだ。本書はそうしたことを意識して書かれているように思う。

今まで著者は読者を驚かせ、怖がらせるために読者の視点を大切にしてきたと思う。そして今は、読者の視点から純文学の構想を練っているのではないか。その視点を生かしたまま、著者の熟練のスキルが純文学で発揮されたら果たしてどんな傑作が生まれるのか。期待したい。

‘2018/07/01-2018/07/04


ファインダーズ・キーパーズ 上


『ミスター・メルセデス』は、ホラーの巨匠がミステリ作家としても一流である事を証明した。とても面白かった。

本書はその続編にあたる。だから、本書を読むのはなるべく『ミスター・メルセデス』を読んでからの方がいい。なぜなら本書は『ミスター・メルセデス』のエピソードに頻繁に触れるからだ。もちろん、知らなくても本書の面白さは折り紙が付けられる。でも、読んでおいた方がさらに面白くなるはずだ。

私は著者の作品のほとんどを読んでいる。そして、あまりハズレを引いた経験がない。著書がストーリー・テラーとして信頼できる作家であることに間違いはない。そう思っている。私は本書を読みながら、その面白さがどこから来るのか確かめたいと思った。本書はミステリ小説として書かれている。つまり、超常現象には頼れない。また、読者に対してフェアな書き方が求められる。本書を読み込めば、著者のストーリーテリングの肝が会得できるのでは、と思った。

そんな意気込みで読み始めたが、面白さに負けて一気に読んでしまった。さすがの安定感だ。

本作の粗筋はこうだ。現代アメリカ文学の大家として名声を得たロススティーン。最後に作品を発表してから10数年が過ぎ、世間からは引退したと思われている。そんな田舎に隠棲したままの大家のすみかに三人の強盗が押し入る。強盗のボス格ベラミーが狙っていたのは金だけではなく、ロススティーンが書き溜めているとうわさされていたジミー・ゴールド・シリーズの未発表原稿。ジミー・ゴールドに心酔していたベラミーは、ロススティーンがシリーズの最終作でジミー・ゴールドを平穏な小市民として終わらせたことに納得がいかない。押し入ったその場でロススティーンにそのことを問いただし、激怒のあまり撃ち殺してしまう。

ベラミーは、未発表原稿の束や現金とともに現場から逃亡する。そして、一緒に逃亡する仲間を途中で殺し、身をひそめるため故郷に帰ってくる。故郷で身を隠しつつ、ゆっくりとジミー・ゴールド・シリーズの最新作を読もうと思っていた。自らの望むジミー・ゴールドのその後が知りたくて。ところがロススティーン殺害のニュースは故郷にも届いており、かねてからロススティーンへのベラミーの偏執をしっていた友人のアンディーは、ベラミーに未発表原稿や金の詰まったトランクを隠すよう忠告する。その忠告に従ったベラミーはトランクを隠した後、酒を飲みにバーにしけこむ。そして強姦事件を起こす。それがもとで36年間の長きにわたって投獄されてしまう。

36年後、ベラミーが住んでいた家にはソウバーズ一家が住んでいた。そして、ソウバーズ家は、家長が職を失ってしまう困窮の中にあった。『ミスター・メルセデス』がひき起こした大量ひき逃げ暴走事件によって体にダメージを負ったからだ。そんな中、13歳の長男ピートは、偶然にもかつてベラミーが埋めたトランクを見つけ出す。そして一家の困窮を救うために、トランクに詰まっていた金を匿名で自分自身の家に送る。さらに、その中に隠された未発表原稿を読み、文学に目覚める。ところが、一家の経済状況は一息ついたとはいえ、妹のティナの進学費用が工面できない。そこでピートはロススティーンの未発表原稿をアンディーの経営する稀覯本の店に持ち込む。そして足元を見られたアンディーに逆に脅される。ベラミーが仮釈放を勝ち取ったのは、ちょうどその時。仮釈放で保護観察中の身でありながら、さっそく36年前に隠したトランクを掘り出したベラミーは、その中が空になっていることを知る。36年の月日が彼の未発表原稿への狂気を熟成させ、それが盗まれたとしったベラミーの理性は沸騰し、その刃はかつての旧友アンディーに向けられる。

今回、私は本書を分析的な眼で読もうとした。それだからだろうか、一つの大きな傷を見つけた。

まず、ストーリーの構成だ。事件が起こるタイミングに作者の意思が見え隠れする。それはつまり、作者のストーリー展開の都合に合わせて登場人物が動かされていることを示す。登場人物が、著者の組み立てたプロットの上で動かされる。その感覚は本当に優れている小説を読むと感じないものだ。だが、本書からはその感覚が感じられた。著者の今までの優れた傑作群には見られなかったように思う。

もちろん、今までの著者の作品にも著者の作為は見受けられた。著者の作品では多くの登場人物が交わり合い、感情をぶつけ合う。その中には、著者によって仕組まれた偶然の出会いや偶然の産物から生まれた悲喜劇も含まれる。それは当然のことだ。たくさんの人々を自在に操る手腕こそが著者を巨匠の高みに押し上げたのだから。そもそも小説である以上、全てが著者の作為の結果でしかない。だからこそ、それをいかにして自然に見せるが作家の腕の見せ所なのだ。それを巧みに紡ぐ筆力こそ、ベストセラー作家とその他の作家を分ける違いではないだろうか。

本書は、著者の作為がうまくストーリーの中に隠し切れていない。「神の手=著者の筆」が随所に見えてしまっている。むろん、登場人物の動きは可能な限り自然に描かれていた。だが、出獄したベラミーが、自らが過去に埋めたトランクの中身がからになっていることに気づくタイミングと、ピートがその中身を稀覯書店主のアンディに持ち込み、逆に脅されるタイミングの一致。それは、ミステリーとしての整合性を優先させるため、著者が仕組んだ都合の良さに思えた。今までの著者の作品には、人物が著者の都合に合わせることが感じられなかった。多分、多数の登場人物が入り乱れる中、そこまで気にしなかったのだろう。だが、本作は、ピートとベラミーとアンディの動きが胆となる。だから、この三人の動きがクローズアップされ、その行動があまりにも筋書きにはまっていると不自然に感じてしまうのだ。

ただし、かつて殺した大作家の遺稿を隠した後、長年にわたって別件で投獄されていたベラミーが原稿を読みたいという動機については納得できる。著者は作品の中で、小説作品や作家を題材にすることがある。本書でもそれが存分に発揮されていたと思う。なぜベラミーはそれほどまでにロススティーンの遺稿に執着するのか。なぜベラミーはロススティーンを撃たねばならなかったのか。本書は事件の発端を描くことに紙数を費やし、ベラミーの動機を詳細に描いている。そうしないと本書の構成そのものが乱れてしまうからだ。著者はその動機を丁寧に描いている。おそらくは著者にとって最も苦労したのではないだろうか。

ところが、動機に多くの労力を割いて丁寧に描いた割に、ベラミーの出獄とピートの行動、そしてピートがアンディと交渉するタイミングがあまりにも近すぎる。保護観察中のベラミーの狂気がアンディーに向かい、その場にピートを引き寄せてしまう。もちろん、ストーリーの展開上、行動人物の動きを同じ時期に合わせなければならないのは分かる。だが、登場人物の動かし方に、あと少しの工夫があっても良かったと思う。著者の今までの作品には、その工夫が絶妙に施されていたような気がする。

本作は、動機をきちんと説明していたのに、イベントのリンクの繋げかたを少々焦りすぎたような気がする。

‘2018/06/30-2018/06/30


「月給百円」サラリーマン 戦前日本の「平和」な生活


佐藤愛子さんのエッセイを読み、ふと、大正・昭和の生活の実相が知りたくなった。それで本書を手に取った。

生活の実相とは、その場その時代を過ごしてみて初めて分かるもの。他人の書いた文章から時代の空気を掴もうにも、文章が視覚と論理のツールである以上、五感で知るすべはない。たとえその文章が佐藤愛子氏や永井荷風氏のような大作家によって書かれたとしても。

当時の生活の実相を伝える手段は文書だけでない。映像がある。映像は視覚に加え、聴覚でも情報を伝えてくれる優れたツールだ。だが、映像もまた、生活感を完全に再現することは叶わない。生活感とは風景や動き、音だけで成り立っていないからだ。人々の思いが集まり、凝縮した結果が生活感を醸し出す。人々の思いとは、日々の井戸端での会話、雑踏や車内での会話、ラジオの音声、生活音、温度や風、匂いなど、あらゆる存在の集合だ。そうした森羅万象の一切をあらゆる五感を駆使して私たちは感じ取る。それを生活感として覚え、時代の感覚を共有する。つまり、時代感覚とは文章や映像だけで伝えることは難しいのだ。

とはいえ、昭和初期の世相を記録した情報は映画を除けば文章しか残されていない。だから、後の世の私たちが昭和の世をしのぼうとすれば、当時のつづられた文章を読み解くしかすべがない。結局、当時を生きた人々が付けた日記や新聞・雑誌記事を引用して当時の生活を再現するしかないのだ。本書は当時の日記・書籍・雑誌・新聞から可能な限り当時の生活該当感じ取れるような記載を網羅し、深く掘り下げる。それによって今の読者に当時の生活感を提示する試みだ。永井荷風は長年にわたって断腸亭日乗という日記を付けたことで知られている。本書にも断腸亭日乗からの情報が数多く引用されている。

本書はまず、タイトルから目を惹かれる。月給百円のサラリーマンとはどういうものか。知られているとおり、今と昔では一円の価値にかなり開きがあった。その境目は昭和二十一年に実施された新円切り替え実施だ。その前の時代、一円の持つ価値とは今よりはるかに大きかった。本書ではそれを通説から二千倍と試算する。つまり「一円を笑うものは一円に泣く」という警句は文字通りの意味だったのだ。(もともとは一銭を笑ふ者は一銭に泣くだったそうだが)。

本書は六章からなる。
第1章 お金の話ー基準は「月給百円」
第2章 戦前日本の「衣・食・住」
第3章 就職するまで
第4章 サラリーと昇進の「大格差」
第5章 ホワイトカラー以外の都市生活
終章 暗黙の戦争支持

一章では、一円が今の二千倍の価値があったことを前提に、当時の庶民の金銭事情を事細かく紹介する。

この紹介がとても細かい。なにしろ、給与事情についての紹介で一章がまるまる費やされるのだから。読み通すにも意志が必要だ。著者も編集者も、退屈へのリスクを覚悟できっちりと実情を伝えなければと考えたのだろう。当時のお金の額面価値が現在の二千分の一程度であること、世間もその額面を基準に動いていたこと。そして、当時の月給取りの平均が月百円ではなく、もっと下だった事も教えてくれる。月給百円は当時の月給取りが目指すべき水準だったという。ところが、本書で紹介されている分析によると国民の九割が年収六百五十円以下だったという。

つまり月給百円とは、今でいえば一千万円の年収にあたるだろうか。ただ、その場合は今の額面価値と当時の価値が二千万との差が生ずる。月給百円を二千倍すれば年収は二百四十万だ。ということは今の時代で二百四十万円稼げれば、当時としてはまあまあ裕福な生活が送れたのだ。ところが承知の通り、現代では年収二百四十万ではかなり苦しい。その状況がさらに本書の理解を複雑にしている。

あらゆる指標や談話、小説(細雪など)を駆使して、著者は当時の相場観を読者に理解してもらおうと骨を折る。ところが、現代の読者が当時の生活感を理解しようと思うと、脳内で二回は変換が求められるのだ。それが結構、骨だ。著者もそのあたりは考慮してくれてはいる。が、一章を読み通すために強いられる二重の変換をやり過ごせるかどうかが本書を読み通せるかの鍵となる。

本書は月給や各種手当てを例に挙げながら、収入の実情を詳しく紹介してゆく。では、その収入で生活が成り立つための支出はどうなのか。もちろん本書はそれを詳しく紹介する。

第二章では衣食住を詳しく例に挙げる。当時のさまざまなメディアの報道を丹念に拾い集め、著者は当時の生活に必要な費用を洗い出してゆく。そこから分かるのが、当時の生活費が年収二百四十万程度でも成り立っていたことだ。その中では当時の借金事情も紹介している。それもまた興味深い。

第三章で扱うのは当時の学歴事情だ。大学進学率が今とは比べものにならぬほど低かった当時。帝大出がエリートの同義だったことは本章に詳しい。高歌放吟し、天下国家を語る。そんな学生の生態も、時代が下れば徐々に変質してゆく。その結果が二十年前の私であり今の学生だ。

ただし、当時の学歴事情で今とは明らかに違う点がある。それは帝大と私大の間に横たわる厳然たる壁だ。帝大がエリートである意識を保てたのも、その後の社会で断然たる差が付けられていたから。それは初任給の差であり、昇給の差に如実にあらわれる。第四章ではそのあたりの差異を細かく例に挙げて紹介する。本書によると私大と帝大の間に格差がなくなったのは、だいぶ時代が下ってからのようだ。また、本章で得られる知識として、なぜ司法界には私大の出身者が多いのかも解き明かしてくれる。それによると、当時は給与の低い司法職が人気がなく、人材難を防ぐために私大からも分け隔てなく募集採用したからだという。

ホワイトカラーでも帝大出と私大で天地の開きがあった当時。では、ホワイトカラーとブルーカラーではもっと開きがあったのでは、という分析が挟まれるのも本章だ。職業ごとの収入や生活が描かれる。自営業、軍人、売春婦などなどの生活の実態。私としても興味津々だ。

第五章で紹介するのは自営業についてだ。自営業は当時の社会で生活を成り立たせることができたのか。それは私のような人種には興味深い。しかも当時は今のような情報技術は未発達。となると、稼ぎ方にも自ずと制限が生じるはず。当時も請負の仕事はさまざまにあったことだろう。だが、どうやっていたのか。多分、ほそぼそと生計を立てて行くしかなかったと思う。今のような通勤ラッシュとは無縁の時代であり、勤め人から自営業へと転職する動機は薄かったのではないか。

そして終章だ。実は本書は「おわりに」がとても重要だ。そして「おわりに」に読者を導く前触れとして終章が肝となる。なぜか。それはサラリーマンの割合が拡大するにつれ、国民から世情への感度が鈍ってくる実情が描かれるからだ。今の立場を守ろうとする立場が強まり、すぐ未来に迫る危機への備えが薄くなる。その果てが五・一五事件であり、国家総動員法であり、戦陣訓なのだ。国家が右傾化してゆくそれらの動きに対して、当時の国民の動きはあまりに鈍く、むしろ委縮していたといってもよいぐらい。国民の不感症が日本を未曽有の敗戦に追いやった一因であることはいうまでもない。

実は著者が本当に書きたかったのはここだと思う。月給百円の価値観。そんな慎ましやかな国民が、なぜ国力の差を押し切ってまで無謀な戦争に突入していったのか。終章で著者は当時の人々の間に渦巻いた不満をすくいとってゆく。そしてその不満がどのようにして軍部の台頭を招いたのかを書く。私は本書ほど、戦前の一般庶民の生活を分析した本を読んだことがない。そしてその分析は何のために行われるのか。その理由は全て終章に収れんする。なぜ国民は戦争に協賛したのか。我が国が戦争に突き進んだのは、軍部の責任だけではない。マスコミや国民の後押しがあったからこそ、日本は戦争に進んでいった。それを忘れてはいけないし、今後の我が国のあり方に生かさねばならない。

「おわりに」で、著者は当時の我が国の状態が今の中国の状況と似ていると指摘する。そこに共通するのは社会的矛盾だ。今の中国の方は日本に対してある疑問を抱くのだという。その疑問とは、なぜ当時の日本軍はあれほどにまで残酷に振舞えたのか、ということだ。さらに、今の日本人といったい何が違うのか、と困惑するのだという。中国の方にそのような疑問をぶつけられた時、私たちは言葉を失う。実は私たちにもなぜか分からないからだ。曽祖父母の時代の日常の感覚など分かるはずがない。だから中国の方に聞かれても答えらるはずがない。問いを投げられた私たちも、その答えがわからず、プロバガンダのせいにして逃げてしまう。これでは溝は埋まりようがない。

当時の日本にだって、幸福な日々もあっただろう。善き人もいたはず。それと同時に不満も渦巻き、悪に手を染める者もいた。その不満が日本を無謀な戦争へと向かわせ、中国大陸で羽目を外させることになった。そして日本軍が中国大陸で成したとされる悪行が事実なのか、それともプロバガンダの産物なのかがいまだに争われている。そんな状況に対して著者はこう書く。

「私に言わせれば、数十年前の祖父母の時代の生活感覚が失われていることこそが、日中双方の「歴史認識の欠如」だと思うようになった」(261P)

冒頭にも書いた通り、当時の生活感を今知ろうと思っても文章しかすべがない。一般庶民の日常から当時を描いた文章は、現代の私たちの目に触れにくい。そして、戦前の世相を現代に伝える文書を書き得た人物は、社会でそれなりの影響力を持っていた。だから、当時の世相を描くにも高い地位からの視点から描き出されていた。その文章が一般庶民の実感を反映しているかというと心もとない。生活感のない戦前のイメージが後世に伝えられているといってもよいだろう。

だからこそ、私たちは学ばねばならない。今の矛盾を早めに解消し、再び日本に不満がたまらないように。暴発しないように。

それには本書の分析がとても役に立つ。社会の設計とはどうあるべきか。国の針路はどこで道を外れるのか。そこで後戻りできるような風潮はどうやって作り上げればよいのか。

本書に学ぶところは多い。冒頭こそ読みにくい本書だが、それを乗り切った先には、本書の真価が待っている。

‘2018/03/15-2018/04/02


未成年


好きな海外の作家を五人挙げろと言われれば、私はそのうちの一人に著者の名を挙げる。本邦で翻訳された著者の作品はほとんど読んでいるはず。だが、私が読読ブログで著者を取り上げるのは実は初めて。というのも本作より前に出版された著者の作品は、本ブログを始める前に読んでしまっていたからだ。ちなみに、あとの四人はStephen King、John Irving、Gabriel García Márquez、Mario Vargas Llosaだ。

久々に読んだ著者の作品は、これぞ小説の見本といえる読み応えがあった。簡潔な文体でありながら内容は深く、そして展開も飽きさせない。

まず文体。簡潔でありながら、描写は怠りない。主人公のフィオーナ・メイの視点だけでなく、彼女の心のうちもきっちりと描く。ただ、心理を描くことは大切だが、凝りすぎるのもよくないと思う。特に今の文学は、心理に深入りした描写が主流ではないと思う。しかし、時には心理を描くことも必要だ。特に本書の場合はそう思う。なぜならフィオーナの職業は高等法院の裁判官だから。

本書は詳しくフィオーナの心の動きを描く。心理に深入りしているようであるが、さほど気にならなかった。むしろ必要な描写だと思う。言うまでもなく、裁判官とは人を裁く公正さが求められる。天秤のイメージでもおなじみの職業だ。原告と被告。弁護人と検事。真実と嘘。裁判官には法の深い理解と経験、そして絶妙な公平さが不可欠だ。法的には慎重な判断で定評を得た彼女。だが、私生活では判断を慎重にしすぎるあまり、ジャックとの結婚生活で子どもを作る機会を逃してしまう。

子供を持つことを犠牲にしてフィオーナが得た経験。つまり司法の徒としての経験もまた得難いものだ。例えばフィオーナが判決を下した事件はとても複雑で難しい。たとえばシャム双生児のように融合した双子のどちらを救うかの判断。宗教と倫理の間で慎重な判断が求められる中、彼女の判断は法的に適法であり、かつ倫理的にも人を納得させるものだ。著者はそれらのいきさつを冗長でなく簡潔に、それでいて納得させて描く。お見事だ。

そして本書のメインプロットだ。この内容がとても深い。シャム双生児の一件はフィオーナの賢明さを紹介するためのエピソードに過ぎない。だが、エホバの証人の信仰を法的にどうやって解釈するか。その問題はさらに深い。フィオーナが判断を下す対象は、未成年のアダム・ヘンリ。敬虔なエホバの証人の信者である両親のもと生まれた彼は、自らの信仰のもと輸血を拒否し、死を選ぶ。ただ、問題なのはその判断は未成年ゆえに法的には無効だ。彼が成人を迎えるまでには2,3カ月の時間が必要だ。そのため、信仰のもとに死を選ぶ彼の判断よりも両親の判断が優先される。さらに、医師の立場では両親の判断を差し置いても優先すべきはアダムの命だ。エホバの証人といえばその宗教的信念の強さは日本の私たちもよく知っている。そして信教の自由は保証されることが必須だ。少年の生命と信教の自由をどう判断するか。その判断はフィオーナだけでなく、読者の私たちにも信仰と法解釈の問題として迫ってくる。

現代とは、複雑な利害が絡み合う時代だ。それをジャッジする裁判官の苦労はとうてい素人には計り知れない。中でも法は社会の基盤であり最後の砦だといえる。その一方で、個人の基盤として最後の砦は信仰だ。その感覚は日本よりも欧米の方が切実なのだろう。そのような公と私の対立を、著者は簡潔な文体で、しかも説得力ある描写を交えて読者に提示する。著者は問題をよく理解し、深くかみ砕いて文章に抽出している。なので、私のような日本人にもその問題の奥深さとエッセンスがしっくりと染み込んでくる。ただ、理解できるが結論はつけられないだけで。だからこそ、フィオーナの下す判決が何なのかに興味を持って読み進められるのだ。内容に深みを持ちながら、読者を置き去りにせずしっかりと読ませる。しかも面白く読ませる。それはただ事ではない。それが本書が傑作である理由だ。

本書はまず、フィオーナとジャックの何十年目かの結婚生活に亀裂が入るところから始まる。そんなスリリングな出来事に動揺しながら、フィオーナはシャム双生児の件やその他の裁判の一切を遅滞なく進めていく。そしてジャックは愛人のもとへと行ってしまう。裁判官としての務めを全うしながら、一人きりの生活を過ごすフィオーナ。そんなところにアダム・ヘンリの審理を抱え込んでしまう。アダム・ヘンリの審理に時間の余裕はなく、審理を中断してフィオーナ自身が入院中のアダム・ヘンリのもとへと赴く。

親子以上に、場合によっては孫と祖母ほどに年の離れた二人。アダムはフィオーナの訪問によって心を動かされる。法的な立場を守りながら、法の型にはまらないフィオーナの判断にいたる心の動きが丹念につづられてゆく。実に読み応えのあるシーンだ。生命は信仰にまつわる尊厳より優先されるという彼女の判決と、その判決に至る文章。それは本書の最初のクライマックスを作り上げる。そのシーンは法に携わる人々がどのような思いで日々の職務を全うし、法を解釈しているのかを私たちのような一般人が知る上でとても参考になるはずだ。全ての裁判が公正・無私に行われているのかどうかはわからない。でも、多くの判決はフィオーナのような厳密かつ公正に検討された判断のもと、くだされているのではないだろうか。

しかし、本書はまだ終わらない。裁判は次々と続き、フィオーナの人生にはいろいろな起伏がやってくる。ジャックとの結婚生活。裁判官としての日々。そしてアダムとのかかわり。本稿を読んでくださった方の興を削ぐことになるのでこれ以上の展開は書かない。だが、本書の余韻は、とても深く永く響いたことは書いておかねば。とくに私の場合は親だ。しかもまだ未成年の娘の。親としてこれから大人になる子供をどう導くのか。どこまでが過保護でどこからが放任なのか。その判断はとても難しい。そして法の最後の判定者であるフィオーナであっても、完全な過ちなく下せる判断ではないのだ。

思えば、生きるということは絶え間ない判断、そして判決の繰り返しなのだろう。仕事として判決を下すフィオーナだけでない。私たち、一般人にしても、毎日が判決と判断を迫られつつ生きている。そして、そのことに責任を担わされているのが大人だと思う。つまり、本書のタイトルである『未成年』とは、その判断の重さが段違いに変わる境目でもあるのだ。最近でこそ成人式とはやんちゃな新成人の自己主張の場になりつつある。そんな中、成年の年齢も18歳に引き下げられるとか。しかし他の民族では通過儀礼をへなければ成人として認められなかったという。我が国にも古くから元服という儀式があった。それだけに成人になることは、ある儀式を通過したものだけが許された境目でもあるのだ。成人になって初めてその判断は尊重され、大人として認められる。

本書を読むと、私たちは成人の意味についてなにか取り返しのつかない見当違いをしつつあるのでは。本書を読んでそんな印象を受けた。

傑作である。

‘2018/01/28-2018/02/05


夜になるまえに―ある亡命者の回想


私が本ブログでアップした『夜明け前のセレスティーノ』は、奇をてらった文章表現が頻出する小説だった。その表現は自由かつ奔放で、主人公とセレスティーノの間に漂う同性愛の気配も印象に残る一冊だった。(レビュー

本書は『夜明け前のセレスティーノ』の著者の自伝だ。本書の冒頭は「初めに/終わりに」が収められている。ともに著者自身による遺書のようなものだ。ニューヨークで本書を著した一九九〇年八月の時点の。著者はエイズに感染したことで自ら死を選んだ。自ら世を去るにあたり、著者が生涯を振り返ったのが本書だ。エイズが猖獗を極めるさなかでもあり、著者の心には諦観が漂う。エイズに罹ったことについても。著者の筆致は平らかだ。ただし、著者が生涯を通じて抱き続けた疎外感と怒りは消えない。「どんな体制であれその体制における権力者たちはエイズに大いに感謝しなくてはならない。なぜなら、生きるためにしか呼吸しない、だからこそ、あらゆる教条や政治的偽善に反対する疎外された住民の大部分はこの災いで姿を消すことになるのだから」(16-17P)

そして著者の自殺をもって本書は幕を閉じる。まだ著者がキューバから亡命する前から書き始められていたという本書は、著者の生きざまそのものであった。「初めに/終わりに」の筆をおいた時点で著者は速やかにに死へと向かう。「初めに/終わりに」で著者は自らの文学的業績についても振り返っている。五部作と位置付けた作品群が完結できぬまま、死ぬ自分を歎き、カストロ政権を民衆が倒してくれることを祈りつつ。

「仕事を仕上げるのにあと三年生きていないといけないんだ。ほぼ全人類に対するぼくの復讐となる作品を終えるのに」(17P)。五部作は完結に至らなかったが、本書が著者による人類への復讐であることは明らかだ。その刃はホモ・セクシャルを決して許容しなかった人類に対して向けられている。

本書はホモの営みを赤裸々に描いている。先に、『夜明け前のセレスティーノ』には同性愛の気配が漂うと書いた。本書は漂うどころではない。全編にモウモウと満ちている。著者がホモ・セクシャルへと目覚めた瞬間から、ホモのセックス事情に至るまで。その内容は本稿に引用するのもはばかられるほどだ。その発展家の様子はすさまじいの一言につきる。なにせ初体験が8歳だというのだから。そして「エロティシズム」と題された144p~169pまでの章。ここでは出会いと交渉、そして性行為に至るまで、ありとあらゆるホモの性愛のシチュエーションが描かれる。

著者が育ったのはカストロ政権下のキューバ。共産主義と言えば統制経済なので、国民に対して建前を強いる傾向にある。そして建前の国にあって同性愛などあってはならないことなのだ。だが、本書で書かれるキューバ革命前後までのホモの性愛事情はあけすけだ。それこそ何千人斬りという人数もウソではないと思えるほどに。「六〇年代ほどキューバでセックスが盛んだった時代はないと思う。」(157P)。と「エロティシズム」の章で振り返っている。そして返す刀で著者は何がキューバをそうさせたのかについても冷静に分析する。「何がキューバの性的抑圧を押し進めたのかといえば、まさしく性解放運動だったのじゃないだろうか。たぶん体制に対する抗議として、同性愛はしだいに大胆に広がっていったのだろう。一方、独裁は悪と考えられていたので、独裁が糾弾するものはどんなものであれば肯定的なものであると、体制に従わない人たちはみなしていた。六〇年代にはすでに大半の人がそんな姿勢だった。率直に言って、同性愛者用の強制収容所や、その気があるかのように装ってホモを見つけ逮捕する若い警官たちは、結果として、同性愛を活発化したにすぎないと思う」(159P)という辛辣な分析まで出てくる。

著者とて、キューバ革命が進行する時点では反カストロだったわけではない。キューバ革命の成功がすなわち、著者をはじめとしたホモ・セクシャルの迫害に直結ではないからだ。そもそも著者はキューバ革命においてカストロ軍の反乱軍と行動をともにしていた。むしろ、腐敗したバティスタ政権を倒そうとする意志においてカストロに協調していたともいえる。著者がキューバ政府ににらまれた原因は著者の作品、たとえば『夜明け前のセレスティーノ』が海外で出版されたことによる。それが評判になったことと、その内容が反政府だと曲解されたことで当局ににらまれる。だからもともとはホモ・セクシャルが原因ではなかったようだ。が、キューバが対外的に孤立を深め、統制を強め、建前を強化する中で、ホモ・セクシャルが迫害の対象になったというのが実情のようだ。そして、著者の周辺には迫害の気配がじわじわと濃厚になる。

カストロ政権はもともと共産主義を国是にしていていなかった。革命によって倒したバティスタ政権が親米だった流れで、反米から反資本主義、そして共産主義に変容していったと聞く。つまり後付けの共産主義だ。キューバが孤立を深めていくに従い、後付けされた建前が幅を利かせるようになったのだろう。

なので、本書の描写が剣呑な雰囲気を帯びるのは、1967年以降のこととなる。そこからはホモ・セクシャル同士の出会いは人目を忍んで行われるようになる。大っぴらで開放的なセックスは描かれなくなる。ところが、海外で出版した著者の作品が著者の首を絞める。小説が当局ににらまれたため、人目を忍んで原稿を書き、書いた原稿の隠し場所に苦労する。『ふたたび、海』の原稿は二度ほど紛失や処分の憂き目にあい、三度、書き直す羽目になったとか。投獄された屈辱の経験が描かれ、アメリカに亡命しようとグアンタナモ海軍基地に潜入しようとするあがきが描かれる。キューバから脱出しようとする著者の必死の努力は報われないまま10数年が過ぎてゆく。

本書の描写には正直言うと切迫感が感じられない。なので著者がグアンタナモ基地周辺で銃撃された恐怖感、原稿の隠し場所を探しまわる危機感、亡命への努力をする切迫感が、どこまでスリリングだったかは伝わってこないのだ。それは多分、私がキューバを知らないからだと思う。そのかわり、著者が独房で絶望に打ちひしがれる描写からは悲壮な気配がひしひしと伝わってくる。中でも著者がキューバ国家保安局のビジャ・マリスタで強いられた告白のくだりは悲惨だ。著者は「ビジャ・マリスタ」の章の末尾を以下のような文章で締めくくる。
「いまや、ひとり悲惨な状況にあった。誰もその独房にいるぼくの不幸を見ることができなかった。最悪なのは、自分自身を裏切り、ほとんどみんなから裏切られたあと、それでもなお生きつづけていることだった」(278P)

著者の悲惨さより一層、本書の底に流れているテーマ。それは、権力や体制に楯突くことの難しさだ。権力にすりよる文化人やスパイと化した友人たちのいかに多いことか。生涯で著者はいったい何人の友人に裏切られたことだろうか。何人の人々が権力側に取り込まれていったのか。著者の何人もの友人が密告者となり果てたことを、著者はあきらめにも似た絶望として何度もつづる。

本書で著者が攻撃するのは、裏切者だけではない。そこには文化人も含まれる。ラテンアメリカ文学史を語る上で欠かせないアレホ・カルペンティエールとカストロの友人として知られるガブリエル・ガルシア=マルケスに対する著者の舌鋒は鋭い。日本に住む私からみると、両名はラテンアメリカ文学の巨人として二人は崇めるべき存在だ。それだけに、キューバから亡命した著者の視点は新鮮だ。あのフリオ・コルタサルですら、著者の手にかかればカストロのダミー(359P)にまで堕とされているのだから。著者はラテンアメリカ文学の巨匠としてボルヘスを崇めている。そして、ボルヘスがとうとうノーベル文学賞の栄誉を得られなかったのに、ガルシア=マルケスが受賞したことを著者は嘆く。
「ボルヘスは今世紀の最も重要なラテンアメリカ作家の一人である。たぶんいちばん重要な作家である。だが、ノーベル賞はフォークナーの模倣、カストロの個人的な友人、生まれながらの日和見主義者であるガブリエル・ガルシア=マルケスに与えられた。その作品はいくつか美点がないわけではないが、安物の人民主義が浸透しており、忘却の内に死んだり軽視されたりしてきた偉大な作家たちの高みには達していない」(389-390P)

著者が亡命に成功したいきさつも、本書にはつぶさに描かれている。それによると、キューバ国民によるデモの高まりに危機感を覚えたカストロは、国から反分子を追放することで自体を収拾しようとする。著者は自らをホモと宣言することによって、堂々と反分子として出国した。そこにスリリングな密航はない。キューバからみれば著者は反分子であり、敗残者であり、追放者なのだ。著者は平穏な中に出国する。ただ、その代償として、著者は自らの意に反した告白文を書かされ、そればかりか、名誉ある出国すら許されなかったが。

そうした亡命を余儀なくされた著者の魂がニューヨークで落ち着けるはずがない。ニューヨークを著者は「何年かこの国で暮らしてみて、ここは魂のない国であることが分かった。すべてが金次第なのだから。」(401P)

著者が友人たちに残した手紙。その内容が公表されることを望んで著者は本当に筆をおく。「キューバは自由になる。ぼくはもう自由だ。」(413P)

「全人類に対するぼくの復讐」(17P)を望まねばならないほど絶望の淵に立つ著者が自由になるには、もはや死という選択しか残されていなかったのだろう。

ホモというマイノリティに生まれついてしまった著者。著者が現代のLGBTへの理解が進みつつある状況はどう思うのだろう。おそらく、まだ物足りない思いに駆られるのではないか。そもそも著者の間接的な死因であるエイズ自体への危機感がうせている昨今だ。私にとって、エイズとはクイーンのフレディ・マーキュリーの死にしか直結していない。フレディー・マーキュリーがエイズに感染している事を告白し、その翌日に亡くなったニュースは、当時の私に衝撃を与えた。フレディ・マーキュリーの死は著者側亡くなった11カ月後だ。

私が性欲を向ける対象は女性であり、著者のようなホモ・セクシャルの性愛は、正直言って頭でも理解できていない。それは認めねばならない。偏見は抱いていないつもりだが、ホモ・セクシャルの方への共感にすらたどり着けていないのだ。著者が本書で書きたかったことは、偏見からの自由のはずだ。だが、私にとってそこへつながる道は遥か彼方まで続いており、ゴールは見えない。

著者が自由になると願ったキューバは、著者がなくなって四半世紀が過ぎた今もまだ開かれた状況への中途にある。それはカストロの死去やオバマ米大統領による対キューバ敵視政策の見直しを含めてもなお。

そのためにも、本書は読み継がれなければ、と思わせる。そして、赤裸々なホモ・セクシュアルの性愛が描かれている本書は、LGBTの言葉が広まりつつある今だからこそ読まれるべきなのだろう。

‘2018/01/01-2018/01/09


ゲームの名は誘拐


2017年の読書遍歴は、実家にあった本書を読んで締めとした。

私は誘拐物が好きだ。以前に読んだ誘拐のレビューにも書いたが、この分野には秀作が多いからだ。本作もまた、誘拐物として素晴らしく仕上がっている。本作の特色は、犯人側の視点に限定していることだ。

誘拐とは、誘拐した犯人、誘拐された被害者、身代金を要求された家族、そして、捜査する警察の思惑がせめぎ合う一つのイベントだ。それをどう料理し、小説に仕立て上げるか。それが作家にとって腕の見せ所だ。なにしろ組み合わせは幾通りも選べる。例えば本書のように犯人と被害者が一緒になって狂言誘拐を演ずることだってある。本書は誘拐犯である佐久間駿介の視点で一貫して描いているため、捜査側の視点や動きが一切描かれない。犯人側の視点しか描かないことで物語の進め方に無理が出ないか、という懸念もある。それももっともだが、それを逆手にとってうまくどんでん返しにつなげるのが著者の素晴らしいところだ。

誘拐犯の佐久間駿介は、サイバープランの敏腕社員だ。ところが心血を注いだ日星自動車の展示会に関する企画が日星自動車副社長の葛城勝俊によって覆されてしまう。己の立てた企画に絶対の自信をもつ佐久間は、屈辱のあまり葛城家に足を向ける。俺の立てた企画を覆す葛城の住む家を見ておきたいという衝動。ところがそこで佐久間が見たのは塀を乗り越えて逃げ出す娘。声をかけて話を聞くと、葛城勝俊の娘樹理だという。樹理は、父勝俊から見れば愛人の子であり、いろいろと家に居づらいことがあったので家を出たいという。その偶然を好機と見た佐久間から樹理に狂言誘拐を持ちかける、というのが本書のあらすじだ。

本書は上に書いたとおり、一貫して佐久間の視点で進む。犯人の立場で語るということは、全ての手口は読者に向けて開示されなければならない。その制約に沿って、読者に対しては佐久間の行動は全て筒抜けに明かされる。それでいながら本書はどんでん返しを用意しているのだから見事だ。

本書は2002年に刊行された。そして本書の狂言誘拐にあたってはメールや掲示板といった当時は旬だったインターネットの技術が惜しげもなく投入される。だが、さすがに2017年の今からみると手口に古さを感じる。例えばFAXが告知ツールとして使われているとか。Hotmailと思しき無料メールアドレスが登場するとか。飛ばし電話をイラン人から買う描写であるとか。でも、佐久間が日星自動車の展示会用に考えたプランや、佐久間が手掛けた「青春のマスク」というゲームなどは、今でも通用する斬新なコンセプトではないかと思う。

「青春のマスク」とは、人生ゲームのタイトルだ。私たちが知る人生ゲームとは、各コマごとの選択の結果、いくつものイベントが発生するゲームだ。ところが、この「青春のマスク」はその選択の結果によってプレーヤーの顔が変わっていく。スタートからの行いがゲームの終わりまで影響を与え続け、プレーヤーに挽回の機会が与えられなければ興が削がれ。その替わりに救いが与えられている。それがマスクだ。マスクをかぶることで顔を変え、その後の展開が有利になるような設定されている。しょせん人はマスクをかぶって生きてゆく存在。そんな佐久間の人生観が垣間見えるゲームシステムが採用されている。

「青春のマスク」のゲームの哲学を反映するかのように、佐久間と樹理の周囲の誰もが何かのマスクをかぶっている。それもだれがどういうマスクをかぶっているのかが分からない。犯人の佐久間の視点で描かれた本書が、犯人の手口を読者に明かしながら、なおも面白い理由こそが、犯人以外の登場人物もマスクをかぶっているという設定にある。だれが犯人役なのか、だれが被害者なのか。だれが探偵役でだれが警察役なのか。読者は惑わされ、作者の術中にはまる。 それが最後まで本書を読む読者の手を休ませない。そのせめぎあいがとても面白かった。

しょせん人はマスクをかぶって生きてゆく存在という、佐久間の哲学。私たちの生きている世間の中ではあながち的外れな考えではないと思う。何も正体を隠さなくてもよい。正々堂々とあからさまに生きようとしても、大人になれば考えや立場や属する領域が幾重にもその人の本質を覆い隠してしまうのが普通だ。この人は何クラスタに属し、どういう会社に属し、という分かりやすい属性だけで生きている人などそういないのではないだろうか。少なくとも私自身を客観的に外から見るとまさにそう。そもそもどうやって稼いでいるのかわかりづらいと言われたことも何度もあるし。そう考えると私の人生もゲームのようなものなのだろう。

本書はそうした人生観を思い知らせてくれる意味でも、印象に残る一冊である。

‘2017/12/30-2017/12/31


境界なき土地


著者の『夜のみだらな鳥』は傑作と言うべき作品だった。読者の時空ばかりか道徳をも失わせるような内容にはとても衝撃を受けた。ただ、一方で凝りに凝った複雑極まる構成のため、読むのにとても骨が折れたことを覚えている。一言でいうと難解な小説だ。

それ以来、久々に読む著者の小説が本書だ。ところが、本書はとても読みやすい。時間軸は一度回想シーンが挟まれるだけ。挟まれる場所もせいぜい二カ所ほど。『夜のみだらな鳥』に比べると、本書の読みやすさは段違いに思える。

ところが本書を人畜無害な内容と思うのは早計だ。本書もまた、一筋縄では行かない側面を持っている。それはジェンダーおよびセックスの観点だ。この二つは本作の中で曖昧に取り扱われる。それが読者を惑わせる。『夜のみだらな鳥』に登場するような奇形児は出てこないため毒は幾分薄い。だが、本書の中で描かれる性の混乱は、本作を異色にしている。タイトルには『境界なき土地』とあり、描かれる舞台も境界などなさそうに思える。だが、本書が指す境界の対象とは間違いなく「性」のはずだ。本作が出版された1966年は、今のようにトランスジェンダーや性同一性障害といった認識も薄い。だから本作は相当に衝撃を与えたことだろう。

本作の舞台はある娼館だ。あるくたびれた街エスタシオン・エル・オリーボ。ワイン醸造所が移転してしまい、今にも消え去りそうな街。そこに娼館はある。娼婦たちが住まい、そこを訪れる客。町の住民や街の顔役として存在感を発揮する男。本書の登場人物は一見するとまともだ。ところがそこに住まう娼婦、とくに主人公として娼館を統べるマヌエラの性別が曖昧に描かれている。そんなマヌエラに執心するパンチョ・ベガは明らかに男。マヌエラの年齢もかなり老を食っていることがほのめかされる。そんなマヌエラに執心するパンチョが異様に映る。

彼の執心が一体どこからくるのか。そしてマヌエラの心は雌雄どちらにあるのか。また、マヌエラの過去になにがあったのか。街の顔役、そして代議士のドン・アレホはこの街をどうしたいのか。それらの設定と展開は読者の興味を引き止めることに成功している。読者を惑わせるというよりは、読者に性の曖昧さを伝えることが本書の眼目であるかのようだ。

本書の冒頭にクリストファー・マーロウの戯曲『ファウスト博士』の一節が引用されている。

ファウスト まずは地獄についてお聞かせ願おう。
人間たちが地獄と呼ぶ場所はどこにあるのだ?
メフィストフェレス 空の下だ。
ファウスト それはそうだろうが、場所はどこなのだ?
メフィストフェレス 様々な要素の内側だ。
我らが拷問を受けながら永久にとどまる場所。
地獄に境界はないし、一カ所とはかぎらない。
地獄とは今我らが立つこの場所であり、
この地獄の地に、我らは永久に住み続けることになるのだ・・・・・

この詩を引用したということは、著者は性そのものを地獄と読み替えていた節がある。性の欲望こそが地獄なのだと。しかもその地獄には境界がなく、果てもない。実は外部から区分けがされていて、人がそのなかで過ごせていればどれだけよいか。だが、その区分けが取っ払われた時、人はどれほどの苦痛を感じるのか。とりとめのなく、漂うような不安。踏みしめる大地もなく、よって立つ柱もない現実が人にどれほどストレスを与えるのか。『境界なき土地』とは、人から基準が取り上げられた時の苦痛であり、自らの人生から基準が喪われた時の地獄を指しているのかもしれない。

時代はまだLGBTの理解もなく、あいまいな性が人々に眉をひそめられていた時期だ。だからこそこのような形で描かれた性に興味を持つ。このころのラテンアメリカにはこういう性の取り上げ方は許されていたのだろうか。そして、あえてマヌエラを少しグロテスクな描写にしたのは、当時の性のアブノーマルさが受け入れられなかったということなのだろうか。その苦痛を著者は『境界なき土地』という言葉で表しているのだと思う。

おそらく実際は当時のラテンアメリカにも性的マイノリティの方は多数いて、ある程度は受け入れられていたのかもしれない。しかし、かなり白眼視もされ、場合によっては迫害も受けていたのかもしれない。マヌエラの描かれ方からそんなことを想った。

今の日本ではLGBTがだいぶ知られてきている。だが、このような内容の本がそれほど支持を受けるとは思えない。まだまだキワモノとして受け取られているような気がする。実は日本のLGBTを巡る事情も、当事者に言わせればまだまだ地獄に近いのかもしれない。

あとがきに訳者が、著者の人物を襲ったスキャンダラスな部分を少し紹介している。『夜のみだらな鳥』の異常で衝撃的な描写は、著者の実体験から描かれていたことがわかる。それとともに、本書の曖昧な性の問題も、著者の実像から抽出されたのだろう。これは読みやすい分、くわせものの小説だ。

‘2017/12/11-2017/12/18


片想い


本書はとても時代を先取りした小説だと思う。というのも、性同一性障害を真正面から取り上げているからだ。本書の巻末の記載によると、週刊文春に1999/8/26号から2000/11/23号まで連載されたそうだ。いまでこそLGBTは社会的にも認知され始めているし、社会的に性同一に悩む方への理解も少しずつだが進んできた。とはいえ、現時点ではまだ悩みがあまねく世間に共有できたとはいえない。こう書く私も周りに性同一性障害で悩む知り合いがおらず、その実情を理解できていない一人だ。それなのに本書は20世紀の時点で果敢にこの問題に切り込んでいる。しかも単なる題材としてではなく、動機、謎、展開のすべてを登場人物の性同一性の悩みにからめているのだ。

著者がすごいのは、一作ごとに趣向を凝らした作品を発表することだ。これだけ多作なわりにパターン化とは無縁。そして作風も多彩だ。本書の文体は著者の他の作品と比べてあまり違和感がない。だが、取り上げる内容は上に書いた通りラジカルだ。そのあたりがすごいと思う。

本書は帝都大アメフト部の年一度の恒例飲み会から始まる。主人公の西脇哲朗の姿もその場にある。アメフト部でかつてクォーターバックとして活躍した彼も、今はスポーツライターとして地歩を固めている。学生時代の思い出話に花を咲かせた後、帰路に就こうとした哲朗に、飲み会に参加していなかった元マネージャーの日浦美月が近づく。美月から告白された内容は哲朗を驚かせる。美月が今は男性として生きていること。大学時代も女性である自分に違和感を感じていたこと。そして人を殺し、警察から逃げていること。それを聞いた哲朗はまず美月を家に連れて帰る。そして、同じアメフト部のマネージャーだった妻理沙子に事情を説明する。理沙子も美月を救い、かくまいたいと願ったので複雑な思いを抱えながら美月を家でかくまう。

ここまででも相当な展開なのだが、冒頭から44ページしか使っていない。本書はさらに377ページまで続くというのに。これだけの展開を仕掛けておきながら、この後300ページ以上もどう物語を展開させていくのだろうか。そんな心配は本書に限っては無用だ。本書には語るべきことがたくさんあるのだから。

読者は美月がこれからどうなってゆくのかという興味だけでなく、性同一性障害の実情を知る上でも興味を持って読み進められるはずだ。本書には何人かの性同一性障害に悩む人物が登場する。その中の一人、末永睦美は高校生の陸上選手だ。彼女は女子でありながら、あまりにも高校生の女子として突出した記録を出してしまうため、試合も辞退しなくてはならない。性同一性障害とはトイレ、浴場、性欲の苦しみだけではないのだ。世の中には当たり前のように男女で区切られている物事が多い。

私は差別意識を持っていないつもりだ。でも、普通の生活が男女別になっていることが当たり前の生活に慣れきっている。なので、男女別の区別を当たり前では済まされない性同一性障害の方の苦しみに、心の底から思いが至っていない。つまり善意の差別意識というべきものを持っている。ジェンダーの違いや不平等については、ようやく認識があらたまりはじめたように見える昨今。だが、セックスの違いに苦しむ方への理解は、まだまったくなされていないのが実情ではないだろうか。

その違いに苦しむ方々の思いこそが本作の核になり、展開を推し進めている。だが一方で、性同一性障害の苦しみから生まれた謎に普遍性はあるのだろうか、という疑問も生じる。だがそうではない。本作で提示される事件の背後に潜む動機や、謎解きの過程には無理やりな感じがない。普通の性意識の持ち主であっても受け入れられるように工夫されている。おそらく著者は障害を持たず、普通の性意識に生きている方と思う。だからこそ、懸命に理解しようとした苦闘の跡が見え、著者の意識と努力を評価したい。

ちょうど本稿を書く数日前に、元防衛省に勤めた経歴を持つ方が女装して女風呂に50分入浴して御用となった事件があった。報道された限りでは被疑者の動機は助平根性ではないとのこと。女になりたかったとの供述も言及されていた。それが本当かどうかはさておき、実は世の中にはそういう苦しみや性癖に苦しんだり耐え忍んでいる方が案外多いのではないかと思う。べつにこの容疑者を擁護する気はない。だが、実は今の世の中とは、男女をスパッと二分できるとの前提がまかり通ったうえでの社会設計になっていやしないか、という問題意識の題材の一つにこの事件はなりうる。

いくら情報技術が幅を利かせている今とはいえ、全てがオン・オフのビットで片付けられると考えるのは良くない。そもそも、量子コンピューターが実用化されれば0と1の間には無数の値が持てるようになり、二分化は意味を成さなくなる。私たちもその認識を改めねばなるまい。人間には男と女のどちらかしかいないとの認識は、もはや実態を表わすには不適当なのだという事実を。

「美月は俺にとっては女なんだよ。あの頃も、今も」
このセリフは物語終盤366ページである人物が発する。その人物の中では、美月とは男と女の間のどれでもある。男と女を0と1に置き換えたとして、0から1の無数の値を示しているのが美月だ。それなのに、言葉では女の一言で表すしかない。男と女の中間を表す言葉がまったくない事実。これすらも性同一性障害に苦しむ方には忌むケースだろうし、そうした障害のない私たちにはまったく気づかない視点だ。これは言語表現の限界の一つを示している。そしてそもそも言語表現がどこまで配慮し、拡張すべきかというかという例の一つに過ぎない。

本書がより読まれ、私を含めた人々の間に性同一性障害への理解が進むことを願う。

‘2017/12/09-2017/12/11


バナナ剥きには最適の日々


本書の帯には著者の作品中でもわかりやすい部類とうたわれている。だが、やはりとっつきにくさは変わらない。なぜなら全てのお話が観念で占められているから。小説にストーリー性を期待する向きには、本書は相変わらずとっつきにくいはずだ。

著者の作品を初めて読む人には、本書はどう取られるのだろうか。エッセイでなければ哲学の考察でもない。やはり小説だと受け取られるのだろうか。私の感覚では、本書は確かに小説だ。

本書は観念で占められている。観念とは、作家と読者の間に取り交わされる小説の約束事を指す。それは形を取らない。通常、それはわかりやすい小説の形を取る。例えば時間の流れ方だ。全体や各章ごとに時間の流れ方は違ったとしても、それぞれの描写の中で時間は過去から未来に流れる。それもまた約束事だ。他にもある。作家と読者の間には、同じ人間として思惟の基準が成り立っているとの約束事だ。その約束事が成立していることは、通常は作家から読者に向かって事前に了解を取らない。なぜなら、ものの考え方が共通なことは了解が不要だから。読む側と書く側で多少は違えども同じ思考様式を使うとの了解は、人類共通のもの。だから小説の作家と読者の間には了解を取る必要がない
。ところが、本書にはその了解が欠かせない。本書に必要なのは、作家の観念が小説として著されているとの了解だ。

そこを理解しないと、本書はいつまでたっても読者の理解を超えていってしまう。

本書に収められた九編のどれもが、約束事を理解しなければ読み通すのに難儀するだろう。

「パラダイス行」
約束事の一つに、基準がある。作家と読者の間に共通する基準が。それをわかりやすく表すのが単位だ。172cm。cmは長さの単位だ。172という数値がcmという単位に結びつくことで、そのサイズがお互いの共通の尺度になる。これは作家と読者の間で小説が成り立つためには重要だ。

ところが本編はその基準を無視する。基準を無視したところに考えは成り立つのだろうか、という観念。それを著者はあらゆる角度から検証する。

「バナナ剥きには最適の日々」
おおかたの小説には目的がある。それは生きがいであったり、自己実現であったり、社会貢献だったり、世界の平和だったり、世界征服だったりする。表現が何らかの形で発表される時、そこには作家と読者の間に買わされる約束事があるのだ。

話が面白い、という約束事もそう。どこかで話のオチがある、というのもそう。ところが本編は目的を放棄する。目的のない宇宙の深淵に向かって進む探査球。本編の主体である思惟はだ。そもそも宇宙の深淵に向かって進むだけの存在なので、追いつこうにも追いつけない。だから思惟の結果は誰にも読まれない。そして語られない。完璧なる孤独。しかも目的を持たない。そこに何か意味はあるのか、という作家の実験。読者が理解するべき約束事とは、孤独と無目的を追求する著者の問題意識だ。

「祖母の記憶」
本編に登場する約束事は、物語には意識する主体があるということだ。植物状態になった祖父を夜な夜な外に連れ出し、物言わぬビデオの主役に据える兄弟。物言わぬ祖父のさまざまな活躍を日々ビデオに収めては観賞する。そんな闇を抱えた行いは、いったい何を生み出すのか。

著者の実験にもかかわらず、本書に登場する主体はあくまでも兄弟だ。祖父は単なる対象物でしかない。祖父の代わりにマネキン人形でも良いことになる。そして、兄弟の活動に興味を持った娘と同じように物言わぬ祖母が現れると、本書の罪深さは一層濃厚になる。

祖父や祖母のような意思のない物体は、マネキン人形のコマ割りとどう違うのか。それが本編で著者が投げかけた観念だ。祖父を齣撮りする兄弟が、祖母を齣撮りする少女に出会う。そんな話だけなのに、そこには意思に対する問題意識の共有が必要だ。

「AUTOMATICA」
本編が示すのは文章の意味そのものだ。自動生成された文章が成り立つ要件とはそもそも何か。著者の観念が本編では論文体の文章で書き連ねられる。そもそも作家として、何を文章につづるべきなのか。そんなゲシュタルト崩壊したような、作家の存在自体への疑問が本編にはある。

そして、その情報が作家から読者に投げかけられる過程には、たしかに約束事がある。それは語彙のつながりであり、文法であり、情報の伝達である。その約束事を著者はいったん解体し、再構築しようと試みる。そこには作家とはいかなる存在か、という危機感もある。読者は普段おのれが仕事や学校で生み出している文章やウォールやツイートが何のために生み出されているのかも自問しなければならない。無論、私自身もその一人。

「equal」
本編は18の断章からなる。本書の中で唯一横書きで書かれている。内容は取り止めのないイメージだ。本編は小説というより、長編の詩と呼べるのかもしれない。

本編で押さえるべき約束事。それは小説にはストーリーや展開が必要との前提だ。それを著者は本編で軽やかに破り捨てる。だからこそ本編は長編詩なのだ。

詩とは本来、もっと自由なもののはず。詩人はイメージを提示し、読者はそのイメージを好きなように受け取る。そこには約束事など何もない。そもそも文学とはそういう自由な表現だったはず。なぜストーリーがなければならないのか。読者もまた、ストーリーを追い求めすぎてはいなかったか。そこに固定観念はなかったか。

「捧ぐ緑」
人間の生涯とは、つまるところなんの意味があるのか。ゾウリムシの生態を語る本編は、そんな疑問を携えて読者の観念を揺さぶりにかかる。生きるとはゾウリムシの活動となんら変わることはない。思弁する存在が高尚。それは誰が決めたのだろうか。著者の展開する文の内容はかなり辛辣なのに、語り口はあくまでもソフト。

だが、その裏側に潜む命題は、辛辣を通り押して虚無にまで至る。企業や仕事、全ての経済活動を突き放した地平。もしかすると人が生きていくための動機とは本編に書かれたような何も実利を生まない物事への探究心ではないだろうか。そんな気がしてくる。

「Jail Over」
本編は、倫理観の観念を料理する。かつて生命を宿していた肉体を解体する。それが生きていようと死んでいようと。人間だろうと動物だろうと。自分だろうと他人だろうと。果たしてそこに罪はあるのか。幾多の小説で語られてきた主題だ。

本編ではさらにその問いを推し進める。肉体を解体する作業からは何が生み出されるのか。そこにはもはや罪を通り越した境地がある。意識のあるものだから肉体を解体してはならないのか。

jailを超えて、語り手は肉片となった牢屋の中の自分に一瞥をくれる。肉体を破壊するとは、意志する主体が自分の入れ物を分解しただけの話。そうなるとそこには罪どころか意味さえも見いだせなくなる。遠未来の人類のありようすら透けて見える一編だ。

「墓石に、と彼女は言う」
無限と量子力学。この宇宙はひとつだけではない。泡宇宙や並行宇宙といった概念。その観念が作家と読者の間に共有されていなければ本編は理解できない。宇宙の存在をその仕組みや理論で理解する必要はない。あくまでイメージとしての観念を理解することが本編には求められる。

無限の中で、意識とはどういう存在なのか。己と並列する存在が無限にある中、ひとつひとつの存在に意味は持てるのか。その思考を突き詰めていくと強烈な虚無感に捕らえられる。虚無と無限は対の関係なのだから。

「エデン逆行」
本編が提示する観念は時間だ。どうやってわれわれは時間を意識するのか。それは先祖と子孫を頭に思い浮かべれば良い。親がいてその親がいる。それぞれの親はそれぞれの時代を生きる。そこに時間の遡りを実感できる。子孫もそうだ。自分の子があり、その孫や孫。彼らは未来を生きるはずだ。

命が絶たれるのは、未来の時間が絶たれること。だからこそ罪があるのだ。なぜなら時間だけが平等に与えられているから。過去もそう。だから人を殺すことは悪なのだ。なぜ今を生きる人が尊重されなければならないか。それは先祖の先祖から積み重ねられた無限の時間の結果だからだ。あらゆる先祖の記憶。それは今を生きている人だけが受け継いでいる。時間のかけがえのなさを描いた本編。本編が提示する観念は、本書の中でも最もわかりやすい概念ではないか。

本書の9編には、さまざまな約束事がちりばめられている。それぞれの約束事は作家によって選ばれ、読者に提示されている。それをどう受け取るかは読者の自由だ。本来ならば約束事とは、もっと自由だったはず。ところが今の文学もそうだが、ある約束事が作家と読者の間で固定されているように思う。今までも文学の閉塞については論者がさんざん言い募ってきた。そしてその都度、壁をぶち破る作家が読者との間に新たな約束事を作り出してきた。おそらく著者は、私の知る限り、今の文壇にあって新たな約束事を作り上げつつある第一人者ではないだろうか。

‘2017/08/12-2017/08/16


硝子の葦


帯のうたい文句にこう書かれている。
「爆発不可避、忘却不能の結末
ノンストップ・エンタテイメント長編!」
さすがにこの文句は盛りすぎだと思う。
でも、一気に本書を読めたのは確か。

序章で厚岸の街を舞台に起こった爆発事故。そこで亡くなった幸田節子は、なぜ死ななければならなかったのか。本書は冒頭に爆発事故を置くことで、なぜ爆発事故が起こったのかという謎を読者に提示する。その謎を解きほぐすため、爆発事故までの出来事を追ってゆくのが本書の構成だ。厚岸といえば、北海道の東に位置する牡蠣が有名な海辺の町だ。だが、厚岸はさほどにぎやかな街ではない。それどころか単調な気配が濃厚だ。

ところが、そんな街に住む幸田節子の周囲は単調とは程遠い。複雑な家に生まれたためか、節子は人間をさめた目で見る。さらに人生に対しても乾いた感性でしか向き合えないようになってしまった。彼女は厚岸で飲み屋を営んできた母の律子から虐待を受けていた。律子の男との関係は奔放で、節子の父親も流しの漁船員だという。一夜だけの関係を結んだだけで行方知れずになった父。父を知らず、奔放な母に育った節子は、尖ったりグレる前に、人生を達観してしまった。達観のあまり、人生を平板なものと考えている。そして何の期待も希望も持たずに人生を過ごしている。だからこそ節子は母の元愛人だった喜一郎からの求婚を受け入れたのだ。喜一郎の求婚は、気楽な人生を送らないか、という愛情とは遠い言葉だった。そして節子は、喜一郎の経営するラブホテルに隣接した住居で日々を送っている。

節子は日々を無意味にしないため、短歌の会に参加している。喜一郎の援助のもと、自費出版で歌集も出した。そのタイトルが「硝子の葦」。葦は中が空洞であり、うつろ。硝子は折れやすくもろい。まさに節子の人生観そのもののようなタイトルだ。

そんな節子の日々は、喜一郎が事故を起こし、意識が不明のままというニュースで一転する。ニュースが入って来たその時、節子は結婚する前まで勤めていた税理士事務所の所長澤木と情事の最中だった。澤木は長年喜一郎の事業の経理を担当しており、なにくれとなく節子にも目をかけてくれている。喜一郎の事故をきっかけに、次々に節子の周りに事件が起こる。

節子の作風は性愛。男女の営みをテーマに取り上げるのは、ラブホテルの隣に住むことで己の人生に溜まってゆくオリを取り除くためだろうか。だが、節子の歌は、会の中で節子を少し浮いた存在にしていた。ところがもっと浮いているのが同じ会に属する佐野倫子。家族の健やかな平和と穏やかな日常を描く彼女の短歌に何か偽善のにおいを感じ、節子は佐野倫子を遠ざけていた。それなのに、佐野倫子の方から節子に近づいてくる。

節子の予感は正しく、佐野倫子の旦那の渉は倒産した地元百貨店の親族。日々、生活感のなさを発揮し、落ちぶれた己のうっぷんを妻子にぶつけるダメ夫。娘のまゆみは日々虐待を父から受けている。

そんな日々を描きながら、物語は徐々に疾走を始める。冒頭にあげた帯の文句ほどにはスピード感はないが、物事が次々につながっていき、そして冒頭の爆発事故に至る。その後、どうなってゆくのかは、これ以上書かない。ミステリの要素と犯罪小説の要素が濃い本書。その中で核となる節子の人生の転換がわざとらしくないのがいい。

なぜわざとらしさを感じなかったのか。それは、本書の中で随所に描かれる色彩と関係があるのかもしれない。冒頭から爆発の火と煙で幕を開ける本書。そして主な舞台となるのは、けばけばしいラブホテル。カバーイラストにもある壊れた車の鮮やかな朱色。読者は本書にちらつく艶やかな原色のイメージに気づくはず。ところが、節子の心情を表わすかのような乾いた世界観と、原野を思わせる北海道のイメージが本書の色合いを徐々にセピアに変えてゆく。原色からセピアへと色褪せていく描写。それが節子のあり方にわざとらしさを感じられなかった原因かもしれない。短歌の会という限られた場の閉塞感とラブホテルから漏れ出る性愛の爛れた感じが、節子の乾いたセピア色の世界にアクセントを加える。本書の色相はセピアの中に原色が時折混じり、それが本書のアクセントだ。その原色は節子という一人の女性が願った輝きだったとも解釈できる。

著者の作品を読むのは初めて。Wikipediaの著者の項に書かれていたが、著者の実家は本書と同じくラブホテルだったそうだ。しかも名前まで同じ「ホテルローヤル」。だからこそ著者は、ここまで実感を持ってラブホテルを書けるのだろう。しかもどこか距離をおいて男女の営みを眺めるような視点で。しかも著者は釧路出身だという。厚岸にほど近い地に育ち、道東に広がる原野になじみ、それでいてラブホテルの色彩感覚を知る。だからこそ本書のような色彩感覚が生み出せたのだと思う。

私はあの道東の色を忘れたような色彩感が好きだ。厚岸も。その近くの霧多布湿原も。かつて訪れた道東の静寂にも似た色合い。本書から感じたのは道東の色遣いだ。本書を読み、また道東に行きたくなった。そして、著者の他の作品にも目を通したくなった。旅情にも通じる色彩の描写を楽しむのも、本書の読み方の一つかもしれない。

‘2017/08/04-2017/08/05


鈴木ごっこ


本書は、お客様が入居するオフィスビルの共用スペースに置いてあった。ちょうどその時、帰りに読む本を持ち合わせていなかったのでお借りした。そんなわけで、本書についても著者についても全く知識がなかった。なんとなくタイトルに惹かれたのと、読むのにちょうどよい分量に思えたから選んだだけのこと。ノーマークだし期待もしていなかった。ところが本書がとても面白かったのだ。まさに読書人冥利に尽きるとはこのこと。

膨大な借金を抱えた見知らぬ四人が一軒家に集められ、鈴木なにがしを名乗って暮らすよう強制される。一年間、同居生活をやりとげ、偽装家族であることがばれなければ借金はチャラにする。それが謎の黒幕からの指令だった。

それぞれの事情を抱えた四人は、借金を完済する同居生活に突入する。タケシ、ダン、小梅、カツオ。四人のうち、小梅とカツオが偽夫婦、ダンが偽息子、タケシは偽爺さんという設定だ。彼らの日々は平穏に済むはずがない。たとえば隣人に住む一家の美人の奥さんに恋をして、なおかつ落とせ、などという無謀な指令がカツオにくだされる。そんな指令に従いながらも、四人は何とか生活を送る。小梅は小梅でかつて磨いたレストラン経営の腕をいかし、自炊して四人を食わせる。

本書は四章に分かれている。それぞれの章は一年間の四季があてられている。ちょうど彼らの同居生活に合わせて。それぞれの章は、四人のそれぞれの視点で語られる。四人の生活は指令を乗り越えつつ、無事に季節は過ぎてゆく。そして、物語はハッピーエンドへ向かうように感じられる。なにしろ一年間の同居生活は毎日が規則正しい。そして小梅のつくる料理は栄養価もよいので、四人は健康体になってゆく。ところが最後にどんでん返しが待っているのだ。

本書のような設定は、不動産競売のための先住要件を満たすための手段としてよく知られている。宮部みゆきさんの『理由』でも似たような状況設定が描かれていた。いわゆるヤクザによって集められた者たちが仮面家族を演じる設定だ。ところが、そう思って読んでいると思わぬ落とし穴にはまる。本書の裏側を流れるカラクリに一回目ですべて気づくことのできる読者はいるのだろうか。私はほんの一部しか気づかなかった。本書の分量はさほど長くなく、むしろ短い。それなのにきちんと布石が打たれ、きれいにオチがつけられていることに驚く。しかも見事などんでん返しまで用意して。実は著者ってすごい人やないの。

後に著者のことを調べてみた。それによると著者は劇団を主催しているそうだ。そういわれてみると、本書には地の文による状況説明が少ない。物語のほとんどはセリフと登場人物の行動だけで進んでゆく。それは舞台芸術の流れそのものだ。また、ちょっと見ただけではそれぞれのセリフには大した意味は含まれていないように思える。実際、本書を読み終えてみてもそれらのセリフに深い意味はなかったことに気づかされる。これも聞いてすぐに観客の記憶から流れていってしまう舞台のセリフの感覚そのものだ。本書を構築しているのはシンプルな骨格とどんでん返しのためのわずかなギミック。

そして著者はあまりセリフに意味を与えず、短いストーリーの中で見事にどんでん返しをやってのける。これぞ舞台で鍛えられた腕なのだろう。または舞台のだいご味といってよいかもしれない。それは研ぎ澄まされたライブ感覚が求められる舞台上で鍛えられてきたのだろう。本書からは小説のすごさだけでなく、舞台芸術の持つ実力すらも教えられたように思う。

与えられた時間軸の中で効果的な印象を与える。それは舞台やテレビ関係者が書く小説で時折感じることだ。百田尚樹さんの短編集からも同じ感覚を感じた。おそらく、これは映像的な感覚をもっている作家に特有のスキルなのだろう。二つの芸術に共通するのは時間軸だ。時間の進み、そして時間の区切り。彼らはその制約をものともせず、舞台やテレビの仕事をやってのけている。時間をわがものとし、それを小説の中にうまく取り入れている。この気づきは私にとって新鮮だった。

本書の帯にはこういう文句が書かれている。
「ラスト7行の恐怖に、あなたは耐えられるか?」
この文句は少々大げさだ。恐怖は感じない。だが、ラスト7行のうち、初めの3行については、3回ほど読み直すことをお勧めしたい。別の意味の恐怖を感じるはずだ。それまでそのようなからくりに全く気付かずに読んでいたことに。そして、著者の筆力が自らの読解力を上回っていた事実に。私は最初、3行の意味を深くとらえておらず、恐怖は感じなかった。だが、本稿を書くにあたってもう一度本書を読んでみた。そして、ラスト7行のうち、最初の3行が抱く真の意味に気づきおののいた。

本書を読み、著者の他の作品を読んでみなければ、と思わされた。まったく、こういう出会いがあるから読書はやめられないのだ。

‘2017/06/21-2017/06/21


建売秘密基地 中島家


著者の作品は初めて読む。が、本書は正直にいって、うーん、というか。評価しにくい。

いや、この自由さは好き。かつて少年ジャンプで、漫☆画太郎氏の作品を読んだ時の衝撃を思わせるような。漫☆画太郎氏の作風に初めて触れたのは読み切りだったと思う。スクリーントーンの存在を知らないのでは、と思う手書き感100%のタッチ。お世辞にもデッサンが整っているとは思えない人物の造形。些細な対立からケンカがエスカレートしていくストーリー。これがヘタウマなのか、それとも確信犯なのか。当時の私には判断が付かなかった。だが、少年ジャンプの懐の深さが見えたと思う。いまだに記憶に残っているぐらいだから。

本書は平凡な一家が住む建売を豪華な屋敷と交換したいという申し出から始まる。そのアイデアが面白い、と思って読み始めたのだが、ストーリーはだんだん脱線してゆく。宇宙人は地球にくるわ、脈略もない謎の組織は暗躍するわと、いい意味で悪ノリしてる。

私は、本書のような自由な発想の小説はもっと世に受け入れられるべき、と思っている。最近、こういったアイデアのぶっ飛んだ小説にお目にかかれておなかっただけに、本書のような小説は評価したい。

最近は、こういったフィクション系は、漫画が主流になっている。でも、小説にもまだまだこういったアイデアを試す余地はあるはず。小説としての結構も大切だが、あえてそこから踏み外す勇気も必要かも。人物が書けてないとか、矛盾しているとか、いいたい人には好きにいわせておけばいい。私には、本書の書きっぷりは、あえて小説の骨格をはずし、コミカルな方向にとがってみたように見えた。

著者の作風がまだ見えていないので、他の作品も読ませてもらってから評価したい。果たして、著者は小説が分かった上でわざと全身の骨を外したのか。それとも勢いだけで書いたら本書のようになったのか。

もし後者の場合、こういう小説が商業ベースに乗る時点で、まだまだ出版界にも望みが持てるのではないかと思う。スタイルになっても、権威になっても、それはステレオタイプとマンネリズムへの一本道なのだから。小説もどこかで勢いとアナーキーなとがり方が必要だと思うので。

もし前者の場合、著者の持つ度胸は驚くべきだと思う。そしてその熱量もすごいものがあるに違いない。かつて村上龍氏の『昭和歌謡大全集』という小説を読んだが、その時の悪ノリをはるかに超えているのが本書なのだから。そして、誤解を恐れずに言うと、こうした悪ノリは同人誌やコミックの分野にはまだ文化として残されているような気がする。それを小説で再現し、出版した編集者の慧眼も大したものだと思う。

‘2017/06/09-2017/06/10


消えた少年たち<下>


上巻のレビューで本書はSFではないと書いたた。では本書はどういう小説なのか。それは一言では言えない。それほどに本書にはさまざまな要素が複雑に積み重ねられている。しかもそれぞれが深い。あえて言うなら本書はノンジャンルの小説だ。

フレッチャー家の日々が事細かに書かれていることで、本書は1980年代のアメリカを描いた大河小説と読むこともできる。家族の絆が色濃く描かれているから、ハートウォーミングな人情小説と呼ぶこともできる。ゲーム業界やコンピューター業界で自らの信ずる道を進もうと努力するステップの姿に焦点を合わせればビジネス小説として楽しむことだってできる。そして、本書はサスペンス・ミステリー小説と読むこともできる。おそらくどれも正解だ。なぜなら本書はどの要素をも含んでいるから。

サスペンスの要素もそう。上巻の冒頭で犯罪者と思しき男の独白がプロローグとして登場する。その時点で、ほとんどの読者は本書をサスペンス、またはミステリー小説だと受け取ることだろう。その後に描かれるフレッチャー家の日常や家族の絆にどれほどほだされようとも、冒頭に登場する怪しげな男の独白は読者に強烈な印象を残すはず。

そして上巻ではあまり取り上げられなかった子供の連続失踪事件が下巻ではフレッチャー家の話題に上る。その不気味な兆しは、ステップがゲームデザイナーとしての再起の足掛かりをつかもうとする合間に、ディアンヌが隣人のジェニーと交流を結ぶのと並行して、スティーヴィーが学校での生活に苦痛を感じる隙間に、スティーヴィ―が他の人には見えない友人と遊ぶ頻度が高くなるのと時期を合わせ、徐々に見えない霧となって生活に侵食してゆく。

上巻でもそうだが、フレッチャー夫妻には好感が持てる。その奮闘ぶりには感動すら覚える。愛情も交わしつつ、いさかいもする。相手の気持ちを思いやることもあれば、互いが意固地になることもある。そして、家族のために努力をいとわずに仕事をしながら自らの目指す道を信じて進む。フレッチャー夫妻に感じられるのは物語の中の登場人物と思えないリアルさだ。夫妻の会話がとても練り上げられているからこそ、読者は本書に、そしてフレッチャー家に感情移入できる。本書が心温まるストーリーとして成功できている理由もここにあると思う。

私は本書ほど夫婦の会話を徹底的に書いた小説をあまり知らない。会話量が多いだけではない。夫婦のどちらの側の立場にも平等に立っている。フレッチャー夫妻はお互いが考えの基盤を持っている。ディアンヌは神を信じる立場から人はこう生きるべきという考え。ステップは神の教えも敬い、コミュニティにも意義を感じているが、何よりも自らが人生で達成すべき目標が自分自身の中にあることを信じている。そして夫妻に共通しているのは、その生き方を正しいと信じ、それを貫くためには家族が欠かせないとの考えに立っていることだ。

この二つの生き方と考え方はおおかたの日本人になじみの薄いものだ。組織よりも個人を前に据える生き方と、信仰に積極的に携わり神を常に意識しながらの生き方。それは集団の規律を重んじ、宗教を文化や哲学的に受け止めるくせの強い日本人にはピンとこないと思う。少なくとも私にはそうだった。今でこそ組織に属することを潔しとせず個人の生き方を追求しているが、20代の頃の私は組織の中で生きることが当たり前との意識が強かった。

本書の底に流れる人生観は、日本人には違和感を与えることだろう。だからこそ私は本書に対して傑作であることには同意しても、解釈することがなかなかできなかった。多分その思いは日本人の多くに共通すると思う。だからこそ本書は読む価値がある。これが学術的な比較文化論であれば、はなから違う国を取り上げた内容と一歩引いた目線で読み手は読んでいたはず。ところが本書は小説だ。しかも要のコミュニケーションの部分がしっかりと書かれている。ニュースに出るような有名人の演ずるアメリカではなく、一般的な人々が描かれている本書を読み、読者は違和感を感じながらも感情を移入できるのだ。本書から読者が得るものはとても多いはず。

下巻が中盤を過ぎても、本書が何のジャンルに属するのか、おそらく読者には判然としないはずだ。そして著者もおそらく本書のジャンルを特定されることは望んでいないはず。自らがSF作家として認知されているからといって本書をSFの中に区分けされる事は特に嫌がるのではないか。

本書がなぜSFのジャンルに収められているのか。それはSFが未知を読者に提供するジャンルだから。未知とは本書に描かれる文化や人生観が、実感の部分で未知だから。だから本書はSFのジャンルに登録された。私はそう思う。早川文庫はミステリとSFしかなく、著者がSF作家として名高いために、安直に本書をSF文庫に収めたとは思いたくない。

本書の結末は、読者を惑わせ、そして感動させる。著者の仕掛けは周到に周到を重ねている。お見事と言うほかはない。本書は間違いなく傑作だ。このカタルシスだけを取り上げるとするなら、本書をミステリーの分野においてもよいぐらいに。それぐらい、本書から得られるカタルシスは優れたミステリから得られるそれを感じさせた。

本書はSFというジャンルでくくられるには、あまりにもスケールが大きい。だから、もし本書をSFだからと言う理由で読まない方がいればそれは惜しい。ぜひ読んでもらいたいと思える一冊だ。

‘2017/05/19-2017/05/24


消えた少年たち〈上〉


本書は早川SF文庫に収められている。そして著者はSF作家として、特に「エンダーのゲーム」の著者として名が知られている。ここまで条件が整えば本書をSF小説と思いたくもなる。だが、そうではない。

そもそもSFとは何か。一言でいえば「未知」こそがSFの焦点だ。SFに登場するのは登場人物や読者にとって未知の世界、未知の技術、未知の生物。未知の世界に投げこまれた主人公たちがどう考え、どう行動するかがSFの面白さだといってもよい。ところが本書には未知の出来事は登場しない。未知の出来事どころか、フレッチャー家とその周りの人物しか出てこない。

だから著者はフレッチャー家のことをとても丁寧に描く。フレッチャー家は、五人家族だ。家長のステップ、妻のディアンヌ、長男のスティーヴィー、次男のロビー、長女で生まれたばかりのベッツィ。ステップはゲームデザイナーとして生計を立てていたが、手掛けたゲームの売り上げが落ち込む。そして家族を養うために枯葉コンピューターのマニュアル作成の仕事にありつく。そのため、家族総出でノースカロライナに引っ越す。その引っ越しは小学校二年生のスティーヴィーにストレスを与える。スティーヴィーは転校した学校になじめず、他の人には見えない友人を作って遊び始める。ステップも定時勤務になじめず、ゲームデザイナーとしての再起をかける。時代は1980年代初めのアメリカ。

著者はそんな不安定なフレッチャー家の日々を細やかに丁寧に描く。読者は1980年代のアメリカをフレッチャー家の日常からうかがい知ることになる。本書が描く1980年代のアメリカとは、単なる表向きの暮らしや文化で表現できるアメリカではない。本書はよりリアルに、より細やかに1980年代のアメリカを描く。それも平凡な一家を通して。著者はフレッチャー家を通して当時の幸せで強いアメリカを描き出そうと試み、見事それに成功している。私は今までにたくさんの小説を読んできた。本書はその中でも、ずば抜けて異国の生活や文化を活写している。

例えば近所づきあい。フレッチャー家が近隣の住民とどうやって関係を築いて行くのか。その様子を著者は隣人たちとの会話を詳しく、そして適切に切り取る。そして読者に提示する。そこには読者にはわからない設定の飛躍もない。そして、登場人物たちが読者に内緒で話を進めることもない。全ては読者にわかりやすく展開されて行く。なので読者にはその会話が生き生きと感じられる。フレッチャー家と隣人の日々が容易に想像できるのだ。

また学校生活もそう。スティーヴィーがなじめない学校生活と、親に付いて回る学校関連の雑事。それらを丁寧に描くことで、読者にアメリカの学校生活をうまく伝えることに成功し。ている。読者は本書を読み、アメリカの小学校生活とその親が担う雑事が日本のそれと大差ないことを知る。そこから知ることができるのは、人が生きていく上で直面する悩みだ。そこには国や文化の差は関係ない。本書に登場する悩みとは全て自分の身の上に起こり得ることなのだ。読者はそれを実感しながらフレッチャー家の日々に感情を委ね、フレッチャー家の人々の行動に心を揺さぶられる。

さらには宗教をきっちり描いていることも本書の特徴だ。フレッチャー夫妻はモルモン教の敬虔な信者だ。引っ越す前に所属していた協会では役目を持ち、地域活動も行ってきた。ノースカロライナでも、モルモン教会での活動を通して地域に溶け込む。モルモン教の布教活動は日本でもよく見かける。私も自転車に乗った二人組に何度も話しかけられた。ところがモルモン教の信徒の生活となると全く想像がつかない。そもそもおおかたの日本人にとって、定例行事と宗教を結びつけることが難しい。もちろん日本でも宗教は日常に登場する。仏教や神道には慶弔のたびにお世話になる。だが、その程度だ。僧侶や神官でもない限り、毎週毎週、定例の宗教行事に携わる人は少数派だろう。私もそう。ところがフレッチャー夫妻の日常には毎週の教会での活動がきっちりと組み込まれている。そしてそれを本書はきっちりと描いている。先に本書には未知の出来事は出てこないと書いた。だが、この点は違う。日々の中に宗教がどう関わってくるか。それが日本人のわれわれにとっては未知の点だ。そして本書で一番とっつきにくい点でもある。

ところが、そこを理解しないとフレッチャー夫妻の濃密な会話の意味が理解できない。本書はフレッチャー家を通して1980年代のアメリカを描いている。そしてフレッチャー家を切り盛りするのはステップとディアンヌだ。夫妻の考え方と会話こそが本書を押し進める。そして肝として機能する。いうならば、彼らの会話の内容こそが1980年代のアメリカを体現していると言えるのだ。彼らが仲睦まじく、時にはいさかいながら家族を経営していく様子。そして、それが実にリアルに生き生きと描かれているからこそ、読者は本書にのめり込める。

また、本書から感じ取れる1980年代のアメリカとは、ステップのゲームデザイナーとしての望みや、コンピューターのマニュアル製作者としての業務の中からも感じられる。この当時のアメリカのゲームやコンピューター業界が活気にあふれていたことは良く知られている。今でもインターネットがあまねく行き渡り、情報処理に関する言語は英語が支配的だ。それは1980年代のアメリカに遡るとよく理解できる。任天堂やソニーがゲーム業界を席巻する前のアタリがアメリカのゲーム業界を支配していた時代。コモドール64やIBMの時代。IBMがDOS-V機でオープンなパソコンを世に広める時代。本書はその辺りの事情が描かれる。それらの描写が本書にかろうじてSFっぽい味付けをあたえている。

では、本書には娯楽的な要素はないのだろうか。読者の気を惹くような所はないのだろうか。大丈夫、それも用意されている。家族の日々の中に生じるわずかなほころびから。読者はそこに興を持ちつつ、下巻へと進んでいけることだろう。

‘2017/05/13-2017/05/18


横浜駅SF


鉄道ファンを称して「鉄ちゃん」という。その中にはさらに細分化されたカテゴリーがあり、乗り鉄、撮り鉄、線路鉄、音鉄などのさまざまなジャンルに分かれるらしい。私の場合、駅が好きなので駅鉄と名乗ることにしている。なぜなら私はさまざまな地域を旅し、その地の駅を訪れるのが好きだからだ。

駅はその土地の玄関口だ。訪問客にその地の文化や風土をアピールする役目を担っている。設置されてからの年月を駅はその土地の音を聞き、匂いを嗅ぎ、景色を見、温度や湿度を感じることに費やしてきた。駅が存在した年月は土地が培って来た歴史の一部でもある。土地の時空の一部となる事で駅は風土の雰囲気を身にまとう。そして土地になじんでゆく。

駅とは人々が通り過ぎ、待ち合わせるための場所だ。駅に求められる機能の本質はそこに尽きる。馬から列車へ人々の移動手段が変わっても駅の本質はブレない。行き交う人々を見守る本質をおろそかにしなかったことで、駅はその土地の栄枯盛衰を今に伝える語り手となった。

駅が本質を保ち続けたことは、車を相手とした道の駅と対照的な方向へ駅を歩ませることになった。物販や産地紹介に資源を割かず、あくまでも玄関口としての駅を全うする。その姿勢こそが私を駅に立ち寄らせる。駅とは本来、旅人の玄関口でよい。駅本屋をその土地のシンボルでかたどったデザイン駅も良いが、見た目は二の次三の次で十分。外見はシンプルでも駅の本質を揺るがせにせず、その地の歴史や文化を芯から体現する。そんな駅がいい。そうした駅に私は惹かれる。

ただし、駅にはいろいろある。ローカル駅から大ターミナルまで。大ターミナルは、その利用客の多さから何度も改修を重ねなければ立ちいかない。そしてその都度、過去の重みをどこかへ脱ぎ捨ててきた。それは大ターミナルの宿命であり、だからこそ私を惹きつけない。何度も改修を重ねてきた駅は、いくら見た目が立派でもどこか軽々しさを感じさせる。とくに、常に工事中でせわしさを感じる駅に対してはまったく興味がもてない。本書の主人公である横浜駅などは特にそう。私は何度となく横浜駅を利用するがいまだに好きになれない。

横浜駅はあまりにも広い。まるで利用客に全容を把握されることを厭うかのように。地下を縦横に侵食するPORTAやザ・ダイヤモンド。空を覆う高島屋やそごうやルミネやJOINUS。駅前を首都高が囲み、コンコースにはゆとりが感じられない。横浜駅のどこにも「横浜」を感じさせる場所はなく、旅人が憩いを感じる遊びの空間もない。ビジネスと日常が利用客の動きとなって奔流をなし、その流れを埋めるように工事中の覆いが点在する。いくら崎陽軒の売店があろうと、赤い靴はいてた女の子像があろうと、横浜駅で「横浜」を探すことは容易ではない。私が二十数年前、初めて関西から鈍行列車で降り立ち、友人と合流したのがまさに横浜駅。その日は港の見える丘公園や中華街やベイブリッジに連れて行ってもらったが、横浜駅に対してはなんの感慨も湧かなかった。そして、今、仕事や待ち合わせなどで日常的に使っていても感慨が湧き出たことはない。

私が横浜駅に魅力を感じないのは、戦後、急激に開発された駅だからなのか。駅前が高速道路とビルとデパートに囲まれている様子は急ごしらえの印象を一層強める。今もなお、せわしなく改造と改良と改修に明け暮れ、落ち着きをどこかに忘れてしまった駅。横浜駅の悪口を書くのはそれぐらいにするが、なぜか私は横浜駅に対して昔から居心地の悪さを感じ続けている。多分、私は横浜駅に不安を覚えているのだろう。私の把握を許さず、漠然と広がる横浜駅に。

そんな私の目にららぽーと横浜の紀伊国屋書店で平積みになっている本書が飛び込んできた。そしてつい、手にとって購入した。横浜駅が好きになれないからこそ本書のタイトルは目に刺さる。しかもタイトルにSFと付け加えられている。SFとはなんだろう。科学で味付けされたウソ。つまりそのウソで横浜駅を根底から覆してくれるのでは、と思わせる。さらには私が横浜駅に対して抱く負の感情を本書が取り除いてくれるのでは、との期待すら抱かせる。

本書で描かれる横浜駅は自立し、さらに自我を持つ。そのアイデアは面白い。本書が取り上げるのが新宿駅でも渋谷駅でもなく横浜駅なのだからなおさら興味深い。なぜ横浜駅が主人公に選ばれたのか。それを考えるだけで脳が刺激される。

知ってのとおり、横浜駅はいつ終わるともしれないリニューアル工事の真っ最中だ。新宿駅や渋谷駅でも同様の光景がみられる。ところが渋谷駅は谷あいにあるため膨張には限度がある。新宿駅も駅の周囲に散らばる都庁や中央公園や御苑や歌舞伎町が駅に侵食されることを許すまい。東京駅も大阪駅も同じ。ところが横浜駅には海がある。みなとみらい地区や駅の浜側に広がる広大な空間。その空間の広がりはそごうやタカシマヤや首都高に囲まれているにもかかわらず、横浜駅に膨張の余地を与えている。横浜駅の周囲に広がる空間は他の大ターミナルには見られない。強いて言うなら品川駅や神戸駅が近いだろうか。だが、この両駅の工事は一段落している。だからこそ本書の主役は横浜駅であるべきなのだ。

ただでさえつかみどころがない横浜駅。それなのに横浜駅の自我は満ち足りることなく増殖し膨張する。そんな横浜駅の不気味な本質を著者は小説の設定に仕立て上げた。不条理であり不気味な駅。それを誰もが知る横浜駅になぞらえたことが本書の肝だ。

自我を持つ構造体=駅。それは今の人工知能の考えそのままだ。自立を突き詰めたあまり人間の制御の及ばなくなった知性の脅威。それは人工知能に警鐘を鳴らす識者の論ではおなじみのテーマだ。本書に登場する横浜駅もそう。人の統制の網から自立し、自己防衛と自己複製と自己膨張に腐心する。人工知能に自己の膨張を制御する機構を組み込まなければ際限なくロジックに沿って膨張し、ついには宇宙を埋め尽くすだろう。人工知能の危険に警鐘を鳴らす文脈の中でよくいわれることだ。本書の横浜駅もまさにそう。横浜市や神奈川県や関東どころか、日本を蹂躙しようと領域を増やし続ける。

本書は駅の膨張性の他にもう一つ駅の属性を取り上げている。それは排他性だ。駅には外界と駅を遮断するシンボルとなるものがある。言うまでもなく自動改札だ。自動改札はよくよく考えるとユニークな存在だ。家やビルの扉はいったん閉ざされると外界と内を隔てる壁と一体化する。一度閉まった扉は侵入者を排除する攻撃的な印象が薄れるのだ。ところが自動改札は違う。改札の向こう側が見えていながら、不正な入場者を警告音とフラップドアによってこれ見よがしに締め出す。そこには排除の意図があからさまに表れている。自動改札は駅だけでなく一部のオフィスビルにも設けられている。だが、普通に生活を送っていれば自動改札に出くわすのは駅のほかはない。自動改札とは駅が内部を統制し、外界を排除する象徴なのだ。そして、自動改札はローカル駅にはない。大規模駅だけがこれ見よがしの排他性を持つ。それこそが、私が大規模駅を好きになれない理由の一つだと思う。

駅の膨張性と排他性に着目し、同時に描いた著者。その着眼の鋭さは素晴らしい。本書で惜しいのは、後半に物語の舞台が横浜駅を飛び出した後の展開だ。物語は日本を数カ所に割拠する駅構造体同士の争いにフォーカスをあわせる。その設定は今の分割されたJRを思わせる。ところが、横浜駅に対立する存在を外界の複数のJRにしてしまったことで、横浜駅に敵対する対象がぼやけてしまったように思うのだ。横浜駅に対立するのは外界だけでよかったはず。その対立物を複数のJRに設定したことで、駅の本質が何かという本書の焦点がずれてしまった。それは駅の特異さ、不条理さという本書の着眼点のユニークさすら危うくしたと思う。

駅が構造を増殖するのは人工物を通してであり、自然物ではその増殖に歯止めがかかるとの設定も良い。横浜駅の中を結ぶ情報ネットをスイカネットと名付けたのも面白い。日本を割拠するJRとの設定もよい。本書のいたるところに駅の本質に切り込んだネタがちりばめられており、駅が好きな私には面白い。鉄ちゃんではなく、本書はSFファンにとってお勧めできる内容だ。ところがSF的な展開に移った後半、駅に関する考察が顧みられなくなってしまったのだ。それは本書の虚構の面白さを少し損ねた。それが私には惜しい。

むしろ、本書は駅の本質を突き詰めたほうがより面白くなったと思う。まだまだ駅の本質には探るべき対象が眠っているはずだ。本書に登場する改札ロボットの存在がどことなくユーモラスであるだけに、その不条理さを追うだけで本書は一つの世界観として成り立ったと思う。だからこそ、条件が合致する横浜駅に特化し、駅の閉鎖性や不条理性を突き詰めていった方が良かった。多分、読者にも読みごたえがぐっと増したはず。その上で続編として各地のJR間の抗争を描いてもよかったと思う。短編でも中編でもよい。ところが少し急ぎすぎて一冊にすべての物語を詰め込んでしまい、焦点がぼやけた。それが惜しまれる。

ともあれ、本書をきっかけに私が横浜駅に抱く感情のありかが明確になった。それは本書から得た収穫だ。私は引き続き、各地の駅をめぐる旅を続けるつもりだ。そして駅の本質が何かを探し求めて行こうと思う。今まではあまり興味を持っていなかった大ターミナルの構造も含めて。

‘2017/05/12-2017/05/13