本書は著者の最晩年の作品だ。

著者は序でこのように述べている。
「私は茶の湯の会のことは、現在の茶会のことも昔の茶会のことも全然智識が無い。茶会の作法や規則なども全く知らないが、自分の独り合点で鞆ノ津の城内や安国寺の茶席で茶の湯の会が催される話を仮想した。」(六ページ)

著者は福山の出身らしい。私はそのことを知らなかった。
福山から鞆ノ津まではそれほど遠くない。本書を読む一年前、kintone Caféで福山に行った際、鞆の街並みを初めて訪れてみた。安国寺には行けなかったが、本書にも登場する鞆城跡には訪れた。城跡からみた鞆ノ浦の眺望や、瀬戸内の凪いだ海の景色を堪能した。

そこで何度も行われた茶会の様子と、交わされた会話を連ねてゆくことで、著者は戦国時代の激動の世相を客観的に描いている。
本書はまず、天正16年3月25日のお茶会の様子から始まる。場所は足利義昭の茶屋だ。一度は将軍の座に就いた足利義昭は、その後ろ盾であるはずの織田信長によって追放され、当時は鞆ノ津にいたことが知られている。

そのお茶会では戦国の世に生きる人々がさまざまな噂話を語る。語られるのは、まず九州征伐。
当時、鞆ノ津は毛利家の支配下にあった。毛利家の重鎮である小早川隆景は島津軍を攻めるため九州へと従軍し、留守にしている。

そうした戦国の世の現実をよそに茶会に集う人々。ある人は引退し、ある人は悠々自適の暮らしを営んでいる。そして、茶会の中で騒然とした世間の噂話を交わし合う。

当時にあっては、こうした情報交換こそが激動の世の中を生き抜くために欠かせなかったのだろう。
本書は、11年近くの時間を描く。鞆を舞台にしたこの物語の中で登場人物の増減や異動はあるが、おおかたの顔ぶれは似通っている。

おそらく毛利家にとって最大の試練は、羽柴秀吉軍が備中高松城を包囲した時だろう。
だが、それは本能寺の変によって変わる。城主の清水宗春の切腹を条件として、羽柴軍は明智軍と雌雄を決するために東へと引き返していった。
その試練を超えたからこそ、このようにお茶会も楽しめる。

本書はまずそうした当時の毛利家の置かれた状況を思い起こしながら読むとよい。

毛利家にとって最大の試練を乗り切った後、つかの間の平安が続く。
島津攻めが終わった後は、小田原攻め。日本を西に東にと軍勢は動く。だが、荒波の立つ世相とは逆に鞆ノ津は凪いだように穏やか。人々は茶会を楽しみ、そこで世間の噂話に花を咲かせる。
その客観的な視点こそが本書の特徴だ。

小田原攻めの結果、太閤秀吉によって諸国は平定され、日本は統一された。
ところが、鞆ノ津は運よく戦火から逃れられていた。そのため、茶会で交わされる噂話には緊迫感が欠けている。あくまでも茶の湯の場の弛緩した話として、平穏に噂話は消費されてゆく。
世の中の激動と反するような鞆ノ津の状況がうまく表現されている。

だが、秀吉の野心は日本を飛び出す。朝鮮半島の向こう、明国へと。それによって、鞆ノ津を治める小早川隆景は渡海することになった。
鞆ノ津も世間の影響からは全く無関係ではない。茶会をする人々は、そうした世の中の動きを噂話とし、茶会の興に添える。

この時期、千利休が秀吉によって切腹させられたことはよく知られている。
茶会に集う人々にもそのような噂が上方より流れてきた。皆で切腹に至る原因を推測し合う。

本書で語られる原因は、千利休の切腹は朝鮮攻めを太閤秀吉に諫めたことで怒りを買った、というものだ。この説は私もあまり聞いた記憶が無く新鮮だった。
だが、確かにそういう解釈もあるだろう。当時の人々がそうした推測をさえずっていた様子が想像できる。
茶の湯を広めた千利休の話題を茶の湯の場で語らせるあたり、著者の想像力が感じられる。

人々は太閤秀吉も耄碌した、などとくさしつつ、一方で朝鮮の地で繰り広げられているはずの戦の戦局を占う。
一進一退の攻防がさまざまな手段で伝えられ、日本でも朝鮮での戦いに無関心でなかったことが窺える。

やがて文禄・慶長の役は太閤秀吉の死によって撤収される。その際の騒然とした状況なども本書は語る。人々は続いての権力者が誰か、ということに話題の関心を移してゆく。
庶民というか中央政局から一歩退いた人のたくましさが感じられる。

そこでちょうど、度重なる戦役から戻ってきたのが安国寺恵瓊だ。外交僧であり、大名と同等の地位を得ていたとされる安国寺恵瓊。この人物が茶会に参加することになり、本書の中でも茶会の中に度々噂に上がっていた長老が、日本の歴史の節目節目に登場していたことを読者は知る。

太閤秀吉が亡き後の実権は徳川家康に移りゆく。家康に対抗する石田三成との反目と、それぞれの思惑を抱えた諸大名の動きが茶の湯の場での自由な噂話となって語られてゆく。

本書は鞆ノ津を舞台としている。おそらく鞆ノ津以外にも全国のあちこちで茶会が開かれ、それぞれで談論がなされ、謀議がたくらまれていったことだろう。
茶の湯の意味が本書を通して浮かび上がってくるようだ。

本書は関ヶ原の戦いの直前までを茶の湯の参加者に語らせ、そして唐突に終わりを告げる。
その終わり方は唐突だが、実は関ケ原の戦いの後に斬首された安国寺恵瓊の最期を暗示しているともとれる。
知っての通り、関ヶ原の戦いでの毛利軍は、ひそかに家康に内通していた吉川広家によって南宮山の陣にくぎ付けにされていたからだ。しかも戦後処理の際、毛利家は安国寺恵瓊を生贄に仕立てるかのように引き渡した。そのおかげか、西軍の総大将という役割でありながら毛利家の取りつぶしを逃れた。

そうした長老の哀切な運命を暗示しつつ、本書は終わる。それが読者に余韻を残す。

本書の解説で加藤典洋氏が詳細に語っている通り、本書は著者の最晩年の作である。だが、戦国の世を茶の湯の会という客観的な手法で描いた傑作といえる。
また鞆ノ津に行きたいと思う。

‘2020/02/09-2020/02/12


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