本稿を書き始める数日前、今年度のノーベル文学賞受賞者が発表された。有力候補とみなされていた村上春樹氏は、残念ながら受賞を逃した。毎年のように候補者に名が挙がる氏であるが、本人は同賞に対しそれほどの拘りはないように思える。私の思い込みであるが、今までに読んだ氏の著作からはそういった色気があまり感じられなかったためである。茫洋としてつかみどころのない、見えないもの。現実の色に塗れず、むしろそこから遠ざかり零れ落ちる。そんな世界観を抱く氏の著作からは、ノーベル賞といった世俗の栄誉は縁遠いように思えた。今までは。

本作は、今までの著者の作品とは現実との関わり方が違うように思える。より近寄っていると言っても良い。その近寄り方は、現実にすり寄り媚を売るのとは少し違う。本作のテーマを際立たせるため、あえて現実に近寄って描写した。そんな感じである。テーマを浮かび上がらせるため、背景となる現実を彫っては捨て、削っては捨てる。そうすることで、提示されるテーマはより鮮明になる。

BOOK 1<4月-6月>と名付けられた本書は、芸事にいう序破急の序にあたる。青豆なる殺し屋稼業の女性と、川奈天吾なる小説家志望の塾講師。この二人が本書全体の主人公となる。何も関わりの無いように思える二人の日常が交互に章立てされて物語は進む。序といっても退屈な状況説明が続くわけではない。のっけから読者を引きつける展開が待っている。青豆は、首都高の上でタクシーを降り、非情出口まで歩いてそこから降りていくといったような。目的地のホテルで鮮やかな手技で男の命を奪うといったような。天吾の方は、天才少女作家の応募作を改作し、添削して世に出すといったような。

二人が過ごす、彼らなりに穏やかな日常。そのような日常を転換すべく訪れた展開。そんな中、二人の考えや生い立ちが徐々に語られていく。物語の行く末に興味を持たせ続けながら序の状況説明や人物説明まできっちり行ってしまうあたり、さすがの熟練の技である
先に、本書は今までの著者の作品よりも現実に近づいた描写が目立つと書いた。しかし、近づいたといっても近づきすぎず、現実の瑣末なディテールには踏み込まない。現実の描写とは、あくまで二人の人物像を際立たせるための小道具である。青豆の殺人者としての技量は殊更に誇張しない。性欲が溜まると男をあさりに行く程度の日常。そこには現実のディテールは不要で、その少々危険な香りのする日常を追うだけで読者は次の展開が待ち遠しくなる。一方、危うい行動とは無縁に思える天吾の日常も同じである。塾講師としての日常の雑務にはあまり触れない。小説の応募や選考や出版といった祭り事からも距離を置く。天才少女作家である「ふかえり」を配し、そのエキセントリックでマイペースな行動が天吾を振り回すだけで、読者はますます目が離せなくなる。

話は天吾の代筆した「空気さなぎ」の爆発的なヒットと、仲介した編集者である小松の存在、さらには「ふかえり」の幼少期から、謎の信仰集団が登場するに至って、天吾の日常は破天荒なそれへと変わっていく。柳屋敷に住む謎の老婦人からの青豆への依頼と、柳屋敷の謎めいた執事タマルとの関わりを通し、青豆の世界も大きく動く素振りを見せる。彼女を取り巻く日常がいつの間にか別のものにすり替わり、少しずつ現実が幻想的な色を帯び始める。

ここまで読んでいて、私はテーマと思われるものが浮かび上がっていることに気付いた。それは現実からの疎外である。謎の信仰集団は、当初は現実に背を向けて自給自足を営むだけの集団だったが、急速に閉鎖的になっていく。天吾の幼少期、NHKの集金人である父に休日ごとに集金に連れまわされ、学校ではNHKというあだ名で呼ばれ疎外される。「空気さなぎ」があまりにも大ヒットし、代筆がばれないよう、喧騒から逃れるように世間から疎外された日常をふかえりと過ごす。青豆はあゆみという婦人警官と世界との疎外感を埋めるために、性の逸脱に精を出す。

謎の信仰集団の成立過程、NHK集金人、あゆみを通した婦人警官の描写。ここにきて、著者の筆は精緻を描き、詳細を語る。今までの著者の小説にはない描きっぷりである。その結果、浮かび上がってきたのが世界からの疎外感である。私などは、疎外感が本書の唯一のテーマである、と序の時点で早合点してしまったほどである。

’14/05/27-‘14/06/01


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