巨星墜つ。訃報を聞いた時の私の感慨である。百年の孤独を始めとしたマジック・リアリズムの作品群。ラテンアメリカ文学の巨星の中で、一際大きく輝いていたのが著者であった。

土臭いラテンアメリカの風景が目に浮かぶ。土俗的な描写の中に、きらびやかなペンの魔術が振り撒かれると、そこには現実を超えた現実が広がる。退屈な日常から何かに向かってもがいていた20代の私。あまりに鮮やかに変貌する世界観の虜になり、大きな影響を受けた。

その影響は未だに続き、ラテンアメリカの諸作家は今でも好んで読んでいる。その影響は文学から音楽へと広がり、ラテンアメリカ音楽にも親しむようになった。20代の苦しかった時期の私。そこから抜け出すきっかけの一つが、ラテンアメリカ文化への傾倒である。

著者の訃報から半月が経ち、本書を手に取った。おそらく読むのは二度目だと思う。といってもほとんど前回の読書の記憶が残っていない。おそらくは当時の私には筋を読んだだけであり、脳内を素通りしてしまったのかもしれない。

というのも、本書の体裁はマジック・リアリズムとは真逆である。題名通り、遭難記の体裁を採った記録文学となっている。ニューオーリンズからコロンビアへ出航した軍艦。その甲板から転げ落ち、カリブ海をコロンビアへと漂流する男の10日間の記録である。飢えや乾きはもちろん、希望や絶望に揺られて海をさまよう男の描写。確かな描写で男の海上漂流生活が文章で描き出される。

そして10日の後、這う這うの体で海岸へたどり着き、生還者として歓待を受けるが、それもつかの間。やがて忘れ去られていく男の物語である。筋書きだけ読むと、苦難とその見返りの成功、そして転落。よくある起承転結の物語のようである。

しかし、本書の仕掛けは別にある。まえがきで、著者は漂流者本人の手記を入手し、それを基に本書を小説に仕立てたと書かれている。一人称の視点で語られる客観的な描写が続くさまは、あたかも著者が実際の手記を基に再現したかのような錯覚に陥る。

だが、本当はどうだったのか。あとがきの解説によると、当時のカリブ海でそのような遭難事故が起こったかどうかの記録が定かではないのだという。

はたして著者は、モデルとなった遭難者の手記を基に本書を世に問うたのか。それとも全くの創作なのか。

想像力だけで遭難記を執筆したとすれば、著者の構想力たるや恐るべきものがある。また、モデルがいたとすれば、その人物は本書の筋書き通り、絶望と栄光の一生の後、落魄の一生を送ったことになる。しかし、歴史からは忘れ去られたにも関わらず、書物の中で有名となって生き続けている人物でもある。そうだとすれば、なんという起伏にとんだ一生!

そう考えると、実直な記録文学の体裁を採りながら、実は本書は史実と虚実を織り交ぜたばかりか、出版された後の批評家や、私のような素人レビュワーまでも巻き込んだ文学世界を形作っていることになる。これは、文学の世界を超えた、まさにメタ文学と呼べる現象ではないだろうか。うがち過ぎの様な気もするが、逆にそれこそが著者の狙いだったとすれば、恐るべき作家である。

’14/05/03-’14/05/05


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