海上自衛隊の横須賀地方総監部の見学に訪れたのは2017年の秋のこと。
その時、護衛艦「たかなみ」に乗船させていただいたが、たかなみに乗るまでの時間が空いてしまい、先に「三笠」見学に訪れた。

三笠公園は、横須賀地方総監部から30分ほど歩いた場所にある。海に面した風光明媚な公園は海に面し、岸壁には「三笠」が停泊している。
岸壁には平らかな広場が設えられている。丸く形どられた池には噴水が吹き出し、その池の中央には三笠を背後にした東郷平八郎元帥の銅像が遠くを見据えている。

私にとって初めての三笠。
艦内は思ったより広く、そして現役当時を思わせる雰囲気が保たれていた。
甲板には巨大な鎖が無造作にさらされ、その先は海へと消えている。

その時、ご一緒した方より聞かれたのが「「坂の上の雲」読みました?」だった。私は恥じらう気持ちと共に「まだ読んだことがないんですよ~」と返した。
そして、三笠の甲板や操舵輪や艦長室を存分に堪能する間、私の心にわだかまっていたのは、自分がまだ明治を描いた本書を読んでいないことだった。
読者家を称していながら、まだ本書を読んでいない事実に気づかされたのが、この時の会話だった。

もう一つ、私に本書を読まねばと思わせたのは、東郷元帥記念公園の存在だ。
当時、私が半常駐していた職場の近所の東郷元帥記念公園によく散歩に訪れていた。
公園に残されたライオン像と給水塔の遺物だけがかつての旧宅の広壮さの名残を今に伝えている。
この公園には本当に何度も訪れており、私は東郷元帥には何かとご縁があったのだろう。

私が「坂の上の雲」を読み始めるのも時間の問題だったに違いない。
2018年も後半になり、意を決して読みはじめた。

もっとも、読む前から本書の内容はおぼろげには知っていた。
秋山兄弟と正岡子規を軸に据え、勃興する明治日本の時代の空気を描く。そんな認識だった。

その第一巻である本書では、三人の生い立ちを語る。
伊予松山での日々。それは、戊辰戦争で新政府軍に抗した賊軍としての汚名との戦いだった。
その汚名は、伊予の若者から栄達の道を奪う。
未来の希望が喪われた有為の若者にとって、政府高官の道は選択肢にない。軍隊に入るか、学問で生きるしか、身を立てる術はなかった。

秋山兄弟は、そうしたタガを破ろうと、迷える青年期を送る。そして正岡子規も身を立てる道を文学に求める。
一巻である本書は、彼らの若さと野心が充満している。

彼らの心を支えていたのは、時代の空気もあった。
封建の時代が去り、次なる未来へ駆け上がろうとする明治日本の勃興。
それは賊軍とされた伊予松山でも同じだ。
人々は枠にはまらず、自由でありながら、日本人としての矜持を持っていた。

明治とは、日本人の一人一人が自身の生き方を真剣に悩み、日本のこれからを真摯に考えていた時代でもある。
そして、封建の時代から新時代に切り替わるにあたり、仕組みが整っていないため、なろうと思えば、身を立てられる時代でもあった。

正岡子規は、秋山真之とともに、松山中学を首尾良く中退する。そして上京して一高に入学し、栄達への足掛かりを掴む。
しかし、一高に入学したはよいが、文学に熱中してしまう。
哲学を論じ、人はどう生きるかに頭を悩ませる子規。
その姿は、国家建設の理想に燃えていた一部の学生にとっては看過できない振る舞い。一高の学生でありながら文学にうつつを抜かすとは何事か、と糾弾される。

さらに秋山兄弟の兄、好古は一足先に陸軍に入る。
一高での肩身の狭さや、兄に学費を負担してもらっている引け目もあり、真之も海軍へと進路を変更する。それは、一緒に文学を極めようと誓った仲の正岡子規を裏切ることでもある。
真之はここで自らの資質を要領が良すぎることと見極めている。試験にも勉強せずにヤマを張って臨み、そのヤマを見事に当てて高得点を取る。
文学に惹かれながらも、自らの容量の良さを生かす場を違う世界に求める。この点は重要だ。

本書で描かれる真之は要領も良いが、向こう気の強い人間だ。
そんな真之が唯一頭が上がらない人物。それが、兄の好古だ。その兄が陸軍に入ったため、同じ軍でも兄とは違って海軍に目を向けたことも見逃せない。

もちろん、真之のその選択は、将来の日本を救うことになる。日本海海戦の勝利として。そのことを読者の私たちは知っている。そして、著者も読者がそれを承知していることを前提の上で本書をつむいでゆく。

本書で見逃してはならないのは、好古の欧行のエピソードだ。
好古の留学先は、明治の陸軍が模範としたドイツではなくフランス。
それは陸軍の教育方針では見えない視点を好古に与え、後年、黒溝台や奉天で好古が騎兵を率いて活躍する素地となる。
本書ではドイツから招いたメッケルがどれだけ日本陸軍に影響を与えたかについても触れている。
その事実とあわせて読むと、好古の後年の日露戦争での活躍がより深みをともなって理解できる。

また、子規が喀血する場面も本書に登場する。野球に熱中した少年が味わった初めての蹉跌。
真之たちと歩いて江ノ島まで行ったほどの男が、旅に疲れた結果、喀血を友とする悲哀。
海軍兵学校に入った真之は学校が江田島に移ったこともあり、松山に帰り、病床の子規を見舞う。
軍人としての道を進む真之と病床に臥す子規の対比。これが本書に複雑な味わいを与えている。

もちろん、病床で諦めなかったことが、子規の名前を不朽にした。そして秋山兄弟もそれぞれの経験を積み、後年の名声の基礎を培っている。
彼らの名が後世に輝かしく伝わっているのはなぜか。そうした彼らの青年期のエピソードこそ、本書のかなめだ。

読者は、本書で描かれる日本の歴史を知っている。結果を知った上で、なおかつわくわくしながら読める。
それこそが、本書の魅力でもある。

‘2018/12/5-2018/12/7


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