私にとって最も大きな2013年の読書体験は、塩野七生著のローマ人の物語全巻読破である。そのシリーズでももっとも大きく取り上げられていたのがこの人物。世界史を語る上でも欠かせないのがジュリアス・シーザーである。ジュリアス・シーザーについてはシリーズ内でも様々な観点から分析が加えられた。その分析は、当時の文献や立像、金貨からのみに止まらない。後世の作家が描いたシーザー像から遡っての分析にまで至り、塩野氏の関心の高さが見える。

本書はその後世の作家が描いたシーザー像である。後世の作家と言っても、その作家自体が歴史に名を残す人物である。歴史に題材を採った本書が、さらに後世から、その書かれた時代を解くための題材となっている。ウィリアム・シェークスピアに採り上げられたジュリアス・シーザーは、どのような人物なのであろうか。

そんな期待を背負って読み始めた本書であるが、実はジュリアス・シーザーはそれほど出番がない。では誰が主役なのか。それは、ブルータスを始めとしたジュリアス・シーザー暗殺実行犯達である。本書は、実行犯達の暗殺後の内幕を描く群像劇である。

それぞれが各々の思惑をもってジュリアス・シーザー暗殺に及ぶ。しかし、暗殺後のことを考えていないため、有効な対策が打てない。そればかりか、暗殺の正当性を訴える場で、アントニーの演説によって巧みに民衆の怒りの矛先を変えられてしまい、一転して追われる身となる。

アントニーの演説のシーンが本書のクライマックスであることに異論はないだろう。演説によって場面で民衆の空気が変わっていく様をどうやって舞台上に表現するか。演出家にとって格好の見せ場であることは間違いない。私はまだ本作の舞台上で観たことがないが、是非見てみたい気がする。

しかし、何故何百年もの間、本作が読み継がれ、演じられ続けてきたのか。理由はアントニー演説の場以外にもある気がする。

例えばブルータスが暗殺派に与する決断に逡巡する場面か。それとも最後の敗れ去り、敗者となって死んでいく場面か。

いや、そうではない。私が思うに、それは舞台から早々に去った人物の存在ではないだろうか。その人こそジュリアス・シーザー。彼が舞台上に居ないにもかかわらず、彼の存在に恐れおののき、右往左往する暗殺者たち。不在であればあるほどその穴は彼らの足元で大きく口を開ける。そして民衆は不在であればこそ、失った輝きの後に引く闇に気づく。

不在であるがゆえにその不在の大きさを知らしめる。世界史上にジュリアス・シーザーの名を膾炙させたのも本作が大きな役割を果たしていることだろう。中世にあって、そのような見事な創作上の手法を作り上げたからこそ、本作が演じ継がれ、読まれ続けてきたのではないかと思う。

’14/04/14-’14/04/16


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