エッセイと小説の違い。いったいそれはどこにあるのか。本書を読みながらそんなことを思った。

かつて、私小説という小説の一ジャンルがあった。作家の生活そのものを描写し、小説に仕立てる。明治、大正の文学史をひもとくと必ず出てくる小説の一ジャンルだ。

では私小説とは、作家の身の回りをつれづれに記すエッセイと何が違うのだろう。

私は平たく言えばこういうことだと思っている。私小説とは作家が身の回りのあれこれを小説的技巧を駆使して描いたもの。それに対してエッセイは技巧を凝らさず、肩の力を抜いて読めるもの。もうひとつの違いは、小説としての筋のあるなしではないだろうか。起承転結らしきものが作家の日常を通して描かれるのが私小説。一方、エッセイは構成が曖昧でも構わない。

こんな風にエッセイと小説の違いを振り返ったところで、本書の内容に踏み込みたいと思う。まず本書には、筋がない。書かれる内容は多種多様だ。著者の子供時代を回想するかと思えば、宇宙の深淵を覗き込み、科学する文章も出て来る。一文だけの短い内容もあれば、数ページに章もある。著者の周りに出没する猫をつぶさに観察した猫を愛でているかと思えば、歴史書の古めかしい文章が引用される。

本書に書かれているのは、エッセイとも私小説とも言えない内容だ。両方の内容を備えているが、それだけではない。ジャンルに括るにはあまりにも雑多な内容。しかし、本書はやはり小説なのだ。小説としか言い様のない世界観をもっている。その世界観は雑多であり、しかも唐突。

著者は実にさまざまな内容を本書に詰めている。一人の作家の発想の総量を棚卸しするかのように。実際、著者にとっての本書は苦痛だったのだろうか、それとも病み付きになる作業だったのか。まるで本書の一節のようなあとがきもそう。著者の淡々とした筆致からは著者の思いは読み取れない。

だが、著者は案外、飽きを感じずに楽しんでいたのではないか。そして、編集者によって編まれ本になった成果を見て自らの作家としての癖を再認したのではないか。もしくは、発想の方向性を。

これだけ雑多な文章が詰められた本書にも、著者の癖というか傾向が感じられる。文体も発想も原風景も。

実をいうと、著者の本を読むのは初めてだ。それでいながらこんな不遜なことをいうのは気が引けるが、本書の内容は、著者の発想の表面を薄く広くすくい取った内容に思えた。その面積は作家だけあって広く、文章も達者。けれども、一つのテーマを深く掘り下げたような感じは受けなかった。

言うなれば、パッと目の前にひらめいた発想や思考の流れを封じ込め、文章に濾し出した感じ。たぶん、その辺りの新鮮な感覚を新鮮なうちに文章に表現するのが本書の狙いなのだろう。

本書には、そのアイデアを延長させていけば面白い長編になりそうなものがたくさんあった。私もまずは著者の他の長編を読みたいと思う。そして、著者の発想や書きっぷりが本書のそれとどれくらい違うのか確かめねば、と思った。

‘2016/09/13-2016/09/26


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