「去年マリエンバートで」という映画がある。私はまだ見たことがない。
本書はその世界観に影響を受けて書かれたそうだ。著者があとがきで書いている。

本書は、あるホテルに集う人々が次々に殺されてゆく話だ。
もちろん、そうした設定だけでは何も目新しさはない。だから、本書は新しい趣向を凝らしている。
その趣向は、本書に不思議な感覚をもたらしている。

それは死んだ人が生き返る、という設定だ。
といっても、何も作中で超常現象が起こることはない。あくまでも生と死のルールは厳密に守られている。
ただし、本書の各章では一人ずつ殺される場面が描写される。そして、次の章ではそのシーンが再現される。ただ、再現されたシーンでは、人は死なない。替わりに物が落ちたり壊れたりする。
その章が終わりを迎えるころ、別の人間が違うシチュエーションで殺される。
ところがその次の章では前の章で人が死んだはずのシーンが再現されるが、再現シーンでは人は死なず、替わりに物が落ちたり壊れたりする。
そんな入れ子のような構成が各章で繰り返されることが本書の特色だ。

何食わぬ顔で死んだはずの人が動き回る。
それは読者に奇異な印象を与える。
死んだ人が動き回っている状況の不可解さについて、作中の人物は誰もが何も問いただすことはない。
だから読者は、何事もなかったかのように話が進むことに、どこか引っ掛かりを覚えながら本書を読み進める。
そんな奇妙な構成を持つ本書は、推理小説のルールを逸脱することはない。読者の興を削がず、それでいながら奇妙な構成が読者の興味を惹くところが本書の面白さだ。

「去年マリエンバートで」の作中に交わされるセリフが、本作の至るところに引用される。
引用された台詞は本書の内容に全く影響がないように思える。
だが、引用されたセリフ自体は、少なくとも「去年マリエンバートで」をみていない私のような読者には全く意味が解らない。そのため、読者はセリフによってさらに不思議な感覚に満たされていく。

「去年マリエンバートで」は、過去の出来事を思い出せない人物が、過去の出来事を知る人物から延々と自分との思い出を語られる。
その内容は難解で、それぞれに時間軸の違う四つの話が並行して進められる。その並行した挿話を意図して編集することで、どの時間軸の話が語られているのか、一見すると分からなくなるような趣向が仕掛けてあるらしい。
つまり、話者をあえて切り替えることで、それが事実なのか記憶の中の出来事なのかを意図して混乱させることが狙いなのだろう。

本書もまさに、そうした狙いに沿って書かれているように思える。
第一変奏から第六変奏まである本書の構成の中で、六通りの記憶と六通りの現実が組み合わさる。
合わせ鏡に映った複雑な組み合わせの中から、何が真実の出来事なのかを突き止めなければならない。
読者にとっても複雑であり、最後まで読まないと全体像が見えないことが、読者のページを次々と繰らせる。

そもそも推理小説とは虚構の出来事だ。そうである以上、記憶の中の出来事を描くことは、アンフェアには当たらないはず。
だから閉ざされたホテルという空間で起こった本書も、記憶の中の出来事が重層的に並行して語られることで、一風違った色合いを見せる。
閉ざされた空間を逆手に取った著者の工夫が際立っている。

本書には高齢の三姉妹が登場する。彼女たちの生い立ちにも、本書の謎を解くカギが隠されている。
そして、冒頭から三姉妹が語り合う無意味に思えるとりとめもない会話こそが、謎そのものになっている。
それは、本書の構成の謎自体にも影響を与えている。

あとがきで著者が本書の解説をしているが。
まさに本書は、著者が「去年マリエンバートで」から受けた感動を小説という形で昇華した作品である。
本書を読み、私は「去年マリエンバートで」を観なければならない、と強く感じた。
そうした時間と空間とレトリックが歪んだ小説は私の好むところだからだ。
そして、それが推理小説の形で提示されたところに本書の妙味があると感じた。

推理小説は、かなりの形式で出版され、あらゆる可能性が出尽くしてきたころだと思う。
今後は、より前衛的な設定とアバンギャルドな展開を持った推理小説が出てくるだろう。
その中には、ラテンアメリカ文学でよく知られるようなマジック・リアリズムにのっとった作品も登場するに違いない。
時間と空間と視点を歪め、混乱させた作品。それは推理小説のルールを破壊していると非難されるかもしれない。
だが、推理小説とはそうしたフェーズも含めて展開していくべき時期にきていると思われる。本書はその試みの一つとして覚えておきたい。

「心地よく秘密めいた恩田陸」と「恩田陸スペシャル・インタビュー」は末尾に収められた杉江松恋氏による文章だ。
この二つの文章からは、杉江松恋氏がとてもよく著者の作品を読み込んでいることが分かる。綿密に分析された構成は、この二つの文章だけで一つの作家論として成立しているほどだ。
この二つの文章を読むと、私が著者の作品はまだまだ読めていないことを痛感する。まだまだ読むべき著者の作品は多いのだ。「去年マリエンバートで」のような映画も含めて。

‘2019/3/2-2019/3/8


カテゴリ: 読ん読く.
最終更新日: 5月 19, 2020

コメントを残して頂けると嬉しいです

読ん読くの全投稿一覧