巨星墜つ、の印象がとかく強かった著者の訃報。小説家として、イベントプロデューサーとして、精力的に活動した著者。その存在は巨大だったように思う。

だが、私自身、著者の作品はそれほど多く読んでいない。多分10冊いくかいかないかではないか。今さらながら、読めていない著者の作品をもっと読みたいと思っている。そもそも最近は、著者の作品自体をあまり見掛けない。『日本沈没』以外は忘れ去られつつある作家になっているのではないか。そんな気がしてならない。それはとても残念なことだと思う。

もともと、SFというジャンルは時の流れに弱い。それはもちろんそうだろう。だが、それは舞台が近未来であった時の話。遠未来の小説の場合、発表当時の内容に技術的陳腐化を避ける工夫が凝らされていれば、長く生き残る可能性はある。

本書もそう。本書は1987年に発表された。1987年とは、Windowsは3.1に達しておらず、インターネットも研究室の中でしか使えなかった時代。だが、博識で知られた著者の識見は、1987年の時空にいながら30年後の今を、さらに未来を見通していたかのようだ。

本書に盛り込まれているのは、当時では最新の科学的知見だ。それは、マスコミ報道よりもさらに研究領域に踏み込んでいないと知ることのできないはず。つまり、1987年であってもその内容は相当先進的。それゆえ、本書で述べられているあらゆる描写に、2016年のわれわれが読んで違和感を覚える箇所は少ない。

それにしても本書は欲張りな小説だ。SFといっても幅広いので、取り上げられるテーマはいろいろありうる。だが本書は、SFが守備範囲とするテーマのうちかなりをカバーしようとしている気がする。ファーストコンタクト、異星人接触、データ化による自我変容、自己同一性、異星居住、時間空間のありかた、そして宇宙論。著者は作家人生で培ってきた全てを本書に詰め込もうとするかのように、持てる全てを惜しみ無く取り込んでいる。

結果的に本書は、著者にとって最後の長編となった。多分、著者自身もそれを予感していたのだろう。あらゆるアイデアを盛り込み、作家生活の集大成とするつもりだったのではないか。

あとがきでは著者にとって後輩のSF作家たちが座談会形式で本書をネタにしている。そこでも触れられているが、著者は常々SFが低く見られている現状を憤っていたという。私もそれには賛成だ。

SFとは、一概に定義できるような形式ではない。が、今のわれわれが住む場所、時代とは違った視点を描く表現形式、という定義もあながち間違ってはいないはず。であるからこそ、SFは他の時代、他の星系が舞台となることが多いのだ。では逆に、他の時代や場所を描いていなければSFとはいえ取るに足りないジャンルなのだろうか。そうではないことはもちろんだ。多くのSFに書かれている内容は、場所が違えど、時代が違えど、読み物として優れている。ある時代、ある星系が舞台であっても、内容は人間の感性に訴える必要はあるにせよ、そこの未来星人の星人生がしっかり書き込まれていなければならない。それが現代地球人の目から見て異世界だからこそ、われわれはSFを楽しむ。だから、SFに書かれているのは、その時代、その場所の人から見れば、なんの変哲もない私小説のようなことだってある。せいぜいが日常の刺激となるような冒険小説のように取られることだってある。はたまた、そこで問い掛けられる観念は、純文学の最高峰に位置するかもしれない。本書において著者が書き出そうと苦心する人工実存は、他の星人には切実な社会的問題となりえるのだ。それがたまたま、私たち太陽系の西暦2000年代初頭の視点で書かれ、読まれているだけで。

実はそう考えると、SFを一段低く見る風潮はあまり根拠のないように思える。たぶん著者を含めたSF界の人々が苛立つのもそこにあるのだろう。空想から生まれた社会にも、われわれの実人生にとって得られる気づきはたくさんあるはず。

一方で、SFには世界観の理解が求められる。観念的な記号に満ちた哲学書が文学として読まれないのと同じく、科学理論や知識がないとSFを読むのは難儀なことだ。ことに本書のような内容ならなおさらに。おそらくそれこそがSFの抱える宿命なのだろう。最先端のさらに先を書くことがテーマだとすれば、最先端をを知らぬ読者にはなにも伝わらないというジレンマ。それこそSFの抱える問題なのだろう。

著者は本書でそういった問題点に気を配っている。宇宙空間に人類の認識では把握できない物体が出現する。本書はその物体がテーマとなるが、著者のその配慮は適切だと思う。本書での事物の描写は細かい。微に入り細をうがつという表現がぴったりなほど。そうしながら著者の該博な知識は、本書のあちこちに大量の科学的語彙をばらまかずにいられない。

それはもはや、無謀ともいえる領域だ。あらゆるSFテーマを最新の科学知識を加えて盛り込み、しかもSFが好きな読者以外にもアピールしようというのだから。

畢生の大作を、という著者の意気込みが垣間見える。しかし残念なことに、本書は未完に終わった。やはり構想が壮大すぎたのだろう。だが、そこから本書の内容が破綻していると見るのは早計だ。

たしかにあらゆるSFテーマを盛り込もうとしているため、読みながら戸惑ってしまうことは事実だ。

本書の出だしはヒデオ・エンドウという技術者が主人公だ。研究者の妻アンジェラと人工実存を作る研究を行う中、子を持つことについての意見が対立する。子を持つことは人としての存在意義に関わるのかいなか。両者の論点はそこにある。生物としての子とアルゴリズムによる人工実存の子の両方を望む妻と、研究の道を極めたいエンドウ。

その結果は別離、そして妻の死という悲劇に終わる。

一方でエンドウの属する地球政府は、宇宙空間に突如現れた長さ二光年の物体の扱いに苦慮していた。一体この物体は何か。調査ないしは使節団を送り込まねばならない。しかし、地球からこの物体に生体の人間を送り込むには時間がかかりすぎる。そのため、エンドウの研究にあらためて脚光が当てられる。つまり、人工実存をこの物体に送り込もうというのだ。人工実存であれば地球からの使節としても相応しい振る舞いができるし、寿命にも限りがない。かくして人工実存がその構造体に赴いて、というのが本書の粗筋だ。

読み終えてだいぶたつが、こうやって粗筋が頭の中で思い出せることが本書の筋が破綻していない証拠だ。

にもかかわらず、本書は未完に終わっている。巻末に付された座談会によれば、著者が結末を迷ったため、とうとう完成されずに終わったのだという。だが、本書の巻末もギリギリになって著者は虚無回廊が何かについて定義している。

「無」を媒介項として「虚宇宙」と「実宇宙」をつなぎ、しかもそのつなぐルートは「回」でも「廊」でも、どちらでも「位相的に等価」であるような存在(378ページ)

著者が関西を拠点にしていたことは知られている。そして、阪神淡路大震災に遭遇したことで鬱になってしまったことも。そのようなことは著者自身がメディアに書いているので知っている方もいるだろう。もし仮に、著者が精力的であり続けたとしたら、本書は完結し、日本SF史に残る作品になっていたかもしれない。惜しいことをしたものだ。実は本書には著者自身によって2000年初夏に記されたあとがきが付されている。それによると、完結の形ははっきりしないが、おぼろげながら構想が徐々にある方向を目指していると書かれている。

ということは著者は続きの構想を誰にも漏らしていなかったのか。そして、それこそが、本書のような大作が未完のまま30年寝かされている理由だと思われる。しかし、これほどの作品が未完のままでいいはずがない、と思うのは私だけだろうか。本書を書き継ぐ有志の作家はいないのか、との声があがったはずだ。著者の作品でもっとも知名度の高い作品が『日本沈没』であることに異論はないだろう。そして、そちらは作品として完結していたにも拘らず続編が別の作家(谷甲州氏)によって書かれている。

であるなら、本書を未完のままとせずきちんと作品として完結させるのは日本SF界に課された課題ではないか。巻末に付された掘晃氏、山田正紀氏、谷甲州氏による座談会ではそのような男前な意見は吐かれなかった。だが、「『虚無回廊』本篇の続きを誰か他の人間が書くのは難しいけれど、皆がそれぞれ影響を受けた部分、興味を持った部分を書いていくのは面白いと思いますよ。」と堀氏も語っている。ファンとしては他の作家でもいいので志を受け継ぎ、本書の完結に挑んで欲しいものだ。

著者の有名な作品名をおそれながら流用するならば、「継ぐのは誰か」がファンの心の声なのだから。

‘2016/10/10-2016/10/14


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