毎年、年始は正月休みを利用して海外の名作を読むようにしている。
2019年の最初に手に取ったのは本書だ。

本書のタイトルは有名な喜歌劇と同一である。その喜歌劇の元となった戯曲が本書だ。
戯曲である以上、内容はセリフとト書きだけで成り立っている。ほかは何もない。
念のために書くと、ト書きとは、舞台の美術の概要や、役者の位置、動きなどの演出上の指示のことだ。各場面の冒頭に簡潔に記される。
つまり、登場人物の感情や言動はセリフから読み解くしかない。

これが小説なら、セリフと地の文が程よく混ざり合っているから問題ない。情景や人物の関係も説明され、読者に理解しやすいように描かれている。登場人物の感情や言動、著者の意図なども理解しながら読み進められるように配慮されている。

戯曲にはそれがない。
戯曲の場合、セリフだけで登場人物の思惑や物語の進行を読み取らねばならず、慣れない読者にとっては少し敷居が高い形式だ。
もちろん、セリフを読んでいく事で、おおかたの舞台の進行は理解できるはずだ。
今でも舞台を見に行くと、演目によってはパンフレットにセリフとト書きが全て掲載されているものもある。ただしそれは舞台を実際に見たコアなファンのためであり、本質は舞台上にあることは間違いないだろう。

私は本書の舞台を見たことはまだない。
なので、本書を読んでも舞台の動きや状況は今ひとつ理解できていない。

もちろん、セリフの言葉を追っている分には、笑いの要素がちりばめられていることが分かるし、舞台を実際に観た時に笑うだろうな、と予想できる。
一方で、戯曲として読んでいるだけでは笑いにつながりにくいことも事実だ。

結局、舞台とは場の空気が重要であり、その空気を役者と観客が一体となって作り上げる事に尽きるのだと思う。
役者の動きがセリフと連動する事で観客に伝わり、それが観客からの反応となって観客席と舞台に及ぶことで、劇場全体の場の空気として醸成される。
それが重要だからこそ、演出家という職業が成り立つのだろう。

では仮に、舞台の完成形を、舞台の上で演技された時点だとする。すると、戯曲とは未完成の芸術形式ではないか、という疑問が生じる。
果たして、戯曲には文学としての価値はないのだろうか。
もちろん、そんなことはない。

舞台の上での演技や演出の可能性は、底本となった戯曲に力があってこそ発揮できるはずだと思う。
そして戯曲に記された筋書きが基になってこそ、役者の動きや舞台美術は効果を発揮する。
目に見える視覚とは、観客にとって重要な要素だ。
小説が映画やアニメの一次創作物となる例が多いのも同じ理由に違いない。
文字だけで書かれた小説だと、読者の想像力によって内容の理解や受け取り方に差が生じる。そうした読み手によって千差万別の受け取り方を補完する芸術形式がそれらのメディアだと思う。

では、小説と戯曲の違いはなんだろう。それは、視点が一定である事ではないだろうか。
ト書きとセリフだけでなる戯曲は、内側からの視点がない。全ては外からの視点で成り立っている。
ト書きには作者の思いが説明されているが、その記述は断片的であり、演出の裁量の多くは演出家に委ねられている。
そしてセリフには演者の内面の心が描かれていない。

小説は視点が自在なので、場面に応じて自在に展開ができる。戯曲が不自由な点はその展開にあると思う。
むしろ、不自由であるからこそ、戯曲の外に出た場合の表現の幅はひろがる。

よく舞台はいきものだという。
初日から千秋楽まで、同じ舞台はない。日々、細かな演出が加えられ、削られる。アドリブは入り、役者の体調による動作の違いがあり、セリフをとちることだってある。
そうしたライブ感こそが演劇の面白さだと惹かれ、劇場に通い詰めるファンもいるはずだ。

そうした底本から外に広がる可能性は、映画やアニメにはとぼしい。
なぜなら映画やアニメはスクリーン上で上映されている時点でほぼ完成しているからだ。
そのため、アニメや映画の元となった作品と、そこから派生したメディア作品は別のものとして扱われているのが実情ではないだろうか。
当然、そうしたメディア作品にも脚本はあるだろう。だが、脚本を読んだところでドラフト版にすぎない、との印象は拭えないと思われる。
だからこそ、それらの台本が戯曲となり、出版されている事例は少ないのではないだろうか。

ところが、本書のような戯曲から舞台への流れは違う。
舞台自体が日々、未完成であることが前提だ。
たとえロング・ランであっても、年月をへる間に役者は年老い、演者は入れ替わる。そして常に舞台は新陳代謝される。

だからこそ、その基準となる戯曲は必要であり、出版されるに値するのだ。

そういう風に戯曲を前向きに捉え、その上であらためて本書を読み直してみると理解もしやすい。

ある人物が正体を隠し、それが登場人物の間に勘違いを生み出し、物語をすすめてゆく。
打算と恋が入り混じり、そこに勘違いが登場人物の思惑を狂わせてゆく。
それこそが本書の面白さである事はいうまでもない。

そうした喜劇のエッセンスを映像の情報がなく味わえることも、戯曲の魅力だと思う。

‘2019/01/01-2019/01/03


カテゴリ: 読ん読く.
最終更新日: 2月 24, 2020

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