本書を読み終えた頃、街中には映画「天空の蜂」の封切り直前のポスターが貼り出されていた。駅や映画館で見かける「テロリストによって人質となった原発」というコピーは私の目を引いた。

言うまでもなく、本書の著者は「天空の蜂」の原作である同名小説の著者でもある。私も「天空の蜂」は十数年前に読んだ。今思い返しても先進的な内容で、原発の弱点を端的に暴いた傑作といえる。その後十数年を経て図らずも起こった福島第一原発の事故により、原発の脆弱性が浮き彫りになった。それを契機に改めて天空の蜂の先見性に脚光が当たり、今回の映画化につながったのだろう。

著者はエンジニア出身として知られている。その著者が現実に起こった原発事故の後、改めて原子力に向き合い、そして突き詰めて考えた成果。それを問うた作品が本書である。

作家がミステリーを書くとき、通常は謎ありき動機ありき、で書くのではないだろうか。しかし、本書は違うアプローチで書かれたように思う。どうすれば原子力についての思索をミステリーに織り込むか。本書はまずそこから構想が起こされたのではないだろうか。そして著者は原子力についての思索に作家としての心血を注いだのではないか。本書の帯にはこのように書かれている。「こんなに時間をかけ、考えた作品は他にない」と。

上の言葉の本意は、プロットや筋、トリックを考えることを指していないように思える。そうではなく、物語の背景や底に流れる原子力への思索をいかにして本書に織り込むか、にあったのではないか。しかし原子力という現実の鬼子を物語の前面に押し出したのでは、小説としての効果が発揮できない。著者はそう判断したのだろう。だが、それは素人から見て高度な技に違いない。しかし、著者は原子力を前面に出さず、なおかつ原子力についての思索を読者に問うことに成功している。

本書の筋やプロット、トリックは無論盤石の出来である。そのままでも上質のミステリーであることに変わりない。しかし、本書でもっとも印象に残った一節はエピローグにある。そこで読者は著者の思いを知る。そして本書が「天空の蜂」とは一味違う技巧で原子力について著者が語ったことを知ることになる。

本書の主人公が原発技術者であることは本書の冒頭で紹介される。斜陽産業である原子力産業に見切りをつけようか迷う技術者として。

本書で取り上げられる事件はアサガオを中心として回る。そこに原子力は登場しない。原子力とは関係のないまま事件は解決する。では原子力についての著者の思索はどこに現れるのだろうか。それはエピローグに現れる。謎がすべて解けた後、主人公がエピローグで下す決断こそがこの物語の肝なのである。その決断こそが、著者が原子力に対して正面からぶつかり、考え抜いた結論を効果的に表現する手段に違いない。その決断については、本書の筋とは違って著者のメッセージを読み解く肝となる。なので、本書については特にエピローグから本書を読まないほうがよいだろう。なお、その結論とは私が原子力について考える立場に等しい。

私は原発の漸次廃止には賛成する。そして今の原発が将来廃れるであろうとも予想する。ただし、全ての原発を即時廃炉とすることには反対だ。それは、大体発電手段の利用による燃料費の高騰といった経済的な理由だけではない。理由は他にもある。その理由こそが本書のエピローグで書かれている内容だ。

望む望まないに関わらず、わが国は原発が稼働開始した時点ですでに後戻りできない決断を下してしまった。そしてその決断の後始末は、誰かが長い時間、それも数世代に亘って担い続けていかなければならない。そこには賛成も反対もない。否応無しに誰かがやらねばならないのだ。それこそが私が原発の即時廃炉に反対する理由である。本書で主人公が下した決断もまさにその思想を沿ったもの。そこに我が意を得た思いだ。

‘2015/8/27-2015/8/28


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