北海道の余市蒸留所にいくことがあれば、リタハウスにはぜひ訪れていただきたい。実際に竹鶴リタさんが使っていた居室が移築されている。

そのたたずまいは来訪者に不思議な落ち着きを与える。こうして文をつづっている今も、そこで飲んだアールグレイティーのベルガモット香を思い出す。全体的に男性の無骨な風情を感じさせる余市蒸留所の構内にあって、この一角だけ可憐な風が吹いていたような気がする。

竹鶴リタさんは、おととしブームを巻き起こしたNHK朝の連続ドラマ「マッサン」でヒロインとなった女性のモデルだ。

遠く離れた極東の島国から、スコッチウイスキーの製法を学びに来たマッサンこと竹鶴政孝氏。そのマッサンと恋に落ち、日本でスコッチウイスキーを作るというマッサンの夢を支えるため、日本に入り嫁したリタさん。そのドラマチックな生涯は、連続ドラマの題材としてうってつけだろう。

結局私は、観たかった「マッサン」を一度も観なかった。なのでドラマの内容については感想も批評も書けない。想像だが、単なる夫婦愛のドラマではなかったと思う。特に日本についてからの二人の歩み。竹鶴政孝氏の摂津酒造退社から、雌伏の教師時代、さらに壽屋入社から山崎蒸留所建設、そして壽屋の鳥居信二郎氏とたもとを分かっての大日本果汁設立。ニッカウヰスキー設立までの苦しい歩みを夫婦で乗り越える姿が、起伏をもって描いていたことだろう。ドラマ内でのリタさんの立ち位置は、異文化に溶け込む努力を重ねつつ望郷の想いを胸にしまい、夫の夢の実現を甲斐甲斐しく支える妻、というところか。

だが、リタさんにとっては、そんな風に簡単に人生を括られるのは心外だろう。本書にも書かれているが、太平洋戦争中には敵性外人として目をつけられ、迫害される苦しい想いをしたこともあったらしい。そういった時、スコットランドにすむ母や姉妹と頻繁に文通を繰り返していたという。マッサンの存在以外にも母国語でやりとりした手紙が異郷で心細いリタさんの心のよりどころとなったことは容易に理解できる。

私が今まで読んできた竹鶴リタさんについて書かれた文章は、日本側からの視点で書かれていたように思う。だが本書は、英国人によって英語で書かれたものだ。著者は、スコットランドのリタさんの実家カウン家にも遺されているリタさんから届いた手紙を読み解いている。その手紙は母国語で書かれたリタさんの想いが詰まっている。著者は英国での取材だけでなく、日本の竹鶴家にも許可を得てスコットランドからリタさん宛に来た手紙も読み解く。その内容も本書に盛り込まれている。

著者は英国では日英交流史の研究家として知られている方のようだ。本書はマッサンブームの余波を受けて翻訳重版となった。でも著者が本書を著したのはマッサンブームよりも随分前のこと。1998年のことだ。その頃は世界的なスコッチウイスキーの退潮が一段落し、再びブームになり始めた時期だ。つまり著者はウイスキーよりも日英交流史を語る上でリタさんとマッサンを格好の題材としたのだろう。本書はそれだけではなく、日本の飲酒事情やニッカウヰスキーの歩み
、摂津酒造とマッサンの関係や竹鶴酒造など、本書だけでも竹鶴夫妻の歩みを学ぶことができる。

英国女性である著者の筆致はリタさんに同情の色が強い。それは当然かもしれない。ただし著者はリタさんに同情するあまり、マッサンを悪く書くことはしない。そのかわりにマッサンがニッカウヰスキーを一流企業へと育て上げる過程で、リタさんに淋しく心細い思いをさせたという著者の不満や当時の軍部による弾圧がリタさんの寿命を縮めたという糾弾の色が行間より汲み取れる。

マッサンも仕事一筋でリタさんを省みなかったわけではない。それを物語るエピソードとして、リタさんが亡くなった際、竹鶴氏は自室から二日間出てこなかったという逸話が伝えられている。しかしそのエピソードは本書に取り上げられていない。これは少し残念だ。

本書が重心に置いているのは、どちらかと言えばスコットランドの母や姉妹と日本のリタさんの文通だ。マッサンとリタさんの夫婦間の交流についてはあまり触れていない。それは夫婦間に立ち入る事を遠慮したのか、それとも夫婦仲を偲ばせるような手紙が残っていないため想像で書くのを戒めたのか。いずれにしてもリタさんとマッサンの関係については筆があまり割かれていない。

所詮、夫婦間のことを詮索するのは野暮なのだろう。しかし誰がなんと言おうと、マッサンが極東の果てからスコッチウイスキーを学びに来たのも確かならば、そこでリタさんと相愛の仲になったのも確か。当時はまだ珍しい国際結婚、ましてや日本なる何処の国とも知れぬ新興国に嫁に行かせた恋心は純粋だったに違いない。その恋は様々な障害や妨害を乗り越え、終生二人を繋ぎとめていた。マッサンは、リタ夫人が日本でスコッチウイスキーをというマッサンの夢を信じて日本に来てくれた恩に報い、ニッカの製品を世界一の称号を得られるまでに育て上げた。それでいいじゃないか、と思う。著者は2004年に世を去っているが、2001年にシングルカスク余市10年がWHISKY MAGAZINEで最高得点を取ったことや、2002年にザ・スコッチ・モルト・ウイスキー・ソサエティが選ぶモルト蒸留所に日本の蒸留所として始めて余市が選ばれたことを知ったかもしれない。

この文章を書いている今日(2016/5/30)、偶然にも妻から教えて貰ったのだが、竹鶴家からマッサンとリタの墓参り自粛のお願いがあったらしい。だが本書を読んだからには、是非参らせてもらいたいと思っている。今まで余市蒸留所には二回訪問しているのだがお二人の墓に詣でる機会は訪れてない。

次回、私が余市蒸留所に訪れる際は、さしものマッサンブームも終わっていると思う。誰もいないお墓の前で、酒飲みとしてではなく、本書に心動かされた者として頭を下げたいと思う。

‘2016/05/03-2016/05/03


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