上杉鷹山公の事績に触れた後は、細井平洲先生の事績を読むのが定石といえよう。という偉そうな書き出しで始めてはいるものの、実は細井平洲先生の名を聞いたのは、第8回嚶鳴フォーラムが初めて。

細井平洲先生は、上杉鷹山公の師として知られる人物である。上杉鷹山公の事績を学ぶ上で必ず出てくるのが細井平洲先生の教え。のはずだが、今までいかに私の読書がなっていなかったかということだろう。本稿の前のレビューである「上杉鷹山の経営学」にもちゃんと平洲先生は登場する。そもそも嚶鳴フォーラムは平洲先生の出身地である愛知県東海市の呼びかけで始まっている。その関係で嚶鳴フォーラムの実施団体である嚶鳴協議会は、今も愛知県東海市に事務局を置いているという。嚶鳴という語句すら、平洲先生が江戸で開いた私塾の名前-嚶鳴館から採っているという。

では、平洲先生とはどんな人物だったのか。嚶鳴フォーラムでも東海市の首長により平洲先生の紹介はなされていた。しかし限られた時間故、本書を読んでより深く理解したいと思った次第だ。

本書は小説の体をとっている。が、その内容はかなり簡潔だ。随筆のようにすいすいと読むことができる。平洲先生を書くにあたり著者が採ったアプローチとは、思想ではなく生涯。本書では、平洲先生の生涯を淡々と描いている。なので、平洲先生の思想を深く学びたい方には本書は少々物足りないかもしれない。

しかし、本書は平洲先生の生涯を知る入門書としては最適である。平洲先生の生涯が幼少期から晩年まで順に易しく記されている。上にも書いた通り、平洲先生といえば、江戸時代ならず日本史上の名君として挙げられる上杉鷹山公の師として知られている。つまり、その生涯を知ることは、上杉鷹山公による改革の背景を知ることになるのだ。平洲先生の思想を語るのに小難しい思想を並べてはならない。著者はそのことを弁えた上で本書を書いたのだろう。なぜなら、平洲先生の学問とは実学にあるから。理屈をこねくりまわすのではなく、実践にこそ本分があるのが実学。つまり、本書が思想を語らず、人物や事績で平洲先生を語るのも、その実学の精神に則ったためといえる。

本書から読み取れる平洲先生の生涯とは、人に恵まれたことに尽きる。両親の理解に恵まれ、師の人柄に恵まれ、親友の友情に恵まれ、弟子の地位や熱意に恵まれた。なぜそれほどまでに人の縁に恵まれたのか。それを知ることに本書を読む意味がある。

人を集める人徳とは、生まれつきの素養だけではない。人格を練る努力を通して身に付く人徳もある。

平洲先生の場合、素質ももちろんだが後天的な努力も人徳を養ったのだろう。平洲先生は江戸時代の人物であり、その人物を伝える資料があまり残っていない。そのため、著者の筆致も遠慮がちだ。それが本書全体に淡泊な味わいが漂う原因だろう。しかし、その事績からは、勉学に対してひたむきな平洲先生の意志が読み取れる。勉学とは己自身への努力であり、己自身に対する闘いである。その刃は他人には向ってはならない。

そこに平洲先生の持って産まれた性質が組み合わさり、他人には魅力と映ったのではないか。その魅力は、平洲先生を勉強させたい支援させたいと思わせる域に達したに違いない。

尾張に在って、学問向上に燃える豪農の倅、細井甚三郎。寺子屋の義寛和尚に才を見出だされ、農民の身ながらにして名古屋へ。身分社会の当時は、農民の立身出世の手段といえば学者か僧へ成ることであった。おそらくはその期待もあっての名古屋行きなのだろう。

名古屋では甚三郎は加藤于周という医者の猶子となる。猶子とは財産の相続などを目的としない養子関係のこと。加藤宇周先生を師として勉学に励むも、宇周先生は仁三郎の才を見抜き、京都へ行ってより広い知識を学ぶことを薦める。

ところが、名古屋から京へ登ったところ、学者がいない。めぼしい学者は各藩のお抱え学者となって京を去ってしまった。そこで甚三郎は独学の道を選ぶ。食費もほとんど書物に費やし、憑かれたように読書に没頭する日々。

甚三郎に転機が訪れたのは名古屋にもどってから。中西淡淵という学者にひかれ、師弟の交わりをむすぶ。

学問のための学問は教えるつもりはない。菊作りが菊を栽培するように学問を教えてはならぬ。淡淵先生の言葉として本書に紹介されている。

ところが淡淵先生は、甚三郎の才が漢学にあることを見抜き、長崎行きを薦める。

甚三郎の実家は豪農であるが、甚三郎に対する投資が並みではない。向学心に燃える甚三郎に旅費や書籍代などを惜しまず与える。また、それに応えるかのように甚三郎は書物にかじりついて勉強に励む。

長崎では仲栗と子静という学問を共に極めんとする親友を得る。

しかし、母の死の知らせがあって故郷に戻る甚三郎。母の死の衝撃に耐えられず、心労に倒れる。その間に仲栗が淡淵先生に師事したいと名古屋にやってくる。さらには淡淵先生も江戸に出ることになる。そんな訳で病の癒えた甚三郎は淡淵先生と共に江戸へ向かう。そこで私塾を開くとともに平洲へと名を改める。平洲先生の誕生である。

詩経古伝を著した平洲先生は、名のある学者となる。それにも関わらず、道端で辻説法を始めてしまうのが平洲先生の飾らぬところ。やがて、その辻説法が米沢藩の藁科松伯の目に止まる。藁科松伯といえば、米沢藩上杉家中の人物であり、上杉鷹山公の改革を早いうちから支援した人物。その松伯が、平洲先生こそ若き我が藩主の師にふさわしい人物と見込む。

ここから、日本史上屈指の名君と呼ばれた上杉鷹山公の米沢藩建て直しに弾みが付く。平洲先生の教え通り、ただひたすらに実学、実践の教えを藩政に映し出そうとする鷹山公。その実直な政策は、やがて成果を産む。勿論、不平派によるサボタージュや七人の不平派家臣によるあわやの藩主軟禁もあった。このあたりの苦労は、本稿の前にアップしたレビューにも書いたが、上杉鷹山公の事績としてよく紹介されているようだ。

やがて、藩の改革を見届けた平洲先生は、江戸へ。藩に仕えず、独立の気宇を持って、弟子を教える道を選ぶ。しかしその盛名は故郷尾張には届かぬまま。しかし、尾張藩にも人物はいた。その人は天下に聞こえる平洲先生が名古屋城から程近い地で産まれたと聞き、尾張藩として招聘に動く。

尾張藩では名古屋で教える以外にも、直に農民たちに教えを伝えようと、廻村講話を始める。米沢藩でも農民たちに語りかけたように。農民たちは飾らぬ平洲先生の語りに涙を流し、念仏を唱えて聞き入ったとされる。

好きな学問を好きなだけさせてもらい、最後には自分の積み上げてきた学問の成果を、無垢な心で聞き入ってくれる人々に語る。まさに幸せな一生であるといえよう。しかしそれは、好きな事をひたすらに突き詰めた成果である。学問に見栄や名誉を求めず、ただひたすら庶民の感覚を忘れずに学ぶことを続けたからであろう。

また、本書では弟子と師という関係が印象深く迫る。現代にあってネットを漁ればすぐに情報が入る今、人々はともすれば独学に走る。かくいう私が独学の最たる人間である。本を師として生きてきたといっても過言ではない。しかし人を、尊敬できる人物を師とすることの得難さ。そのことが、本書を通して平洲先生の生き様から感じられる。

私もそういった師に巡り合える日が来ればよいなぁと思いながら、本に向かう日々である。平洲先生の読書への思いには及ばないかもしれないが、これからも本は肌身離さず持ち続けたいと思っている。

また、機会があれば東海市にも訪問し、平洲先生の事績を巡ってみたいとも思っている。

‘2015/04/13-2015/04/15


2 thoughts on “小説 細井平洲―人を育て、善政を扶けた実学の人

  1. 水谷 学

    嚶鳴フォーラムで実は一番気になったのが細井平洲でした。上杉鷹山の生みの親とも言える細井平洲を知らずして実学を語るなと言ったところでしょうか?4年前二宮尊徳の生家へ行ったものの、資料館を訪れなかったことを悔やんでいます。YKG活動で東海市を訪れるというのも良いのではないでしょうか?その前に諏訪原城、二俣城、高天神城、長篠城、設楽原などが気になりますが…人生において誰と出会うかということが一番重要なきっかけになると最近特に感じています。

    1. 長井祥和 Post author

      水谷さん、こんばんは。

      まさに実学を語るなら細井平洲と二宮尊徳は欠かせませんよね。尊徳記念館、なんならもう一回三人で行きますか? 私もあそこはあと数回は行って報徳思想を学びたいと思っています。桜の季節に行けばよさげですよね。

      東海市はぜひ行きたいですが、いかんせん費用と時間がかかりますよね。私も実家の帰省時に行くには娘たちの受けが悪そうなので、一人で時間を作っていこうかと思っていたところでした。3人で行ければベストですが。

      武田と徳川の小競り合いが頻発したあのあたりもよさそうです。多分私は4月の頭ぐらいに時間とってどこかをふらっと旅しようかともくろんでいます。

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