私は常々、政治信条や人生観に対してはバランス感覚を大切にしたいと考えている。それは読書についても同様である。

本書の前に読んだ「白洲次郎の嘘」(以下前読書)は、白洲次郎という人物を量る上で、バランスに傾きがあると思わざるを得ない論旨であった。

このような時、私は対極にある立場から書かれた本を読むようにする。前読書でさんざん白洲ヨイショ本と揶揄された本書こそ、その任に相応しい。そんなわけで蔵書には加えていたが、まだ読む順番に達していなかった本書の出番となった。

著者の作品は、吉田茂元首相を題材とした「吉田茂の見た夢」を読んでいる。2年半前の読後感でも、バランスの取れた書き方をする方という印象を持った。激辛でしびれた口を癒すには、対極となる甘口のデザートよりも、平衡感覚のとれた一杯の水こそが甘露となる。

本書は激物で麻痺しかかっていた私の白洲次郎観を修正してくれた。その功績や大である。本書が単なる甘口のヨイショ本では、このしびれは元には戻らない。著者の私情に左右されない筆致は安心できる。また、本書では前読書では取り上げられなかった様々な事実が述べられている。それらの事実こそが、前読書の著者が導いた結論を次々と覆してくれた。

前読書では、白洲次郎の容貌や関係者の遺した文章を基に、白洲次郎を白洲家にあってユダヤの血が入った者としてほぼ断定し、その前提で話を進めている。また、白洲家の親族に対する白洲次郎の言及がほぼないことを根拠に、血縁の薄さを物語るとして書かれていた。

しかし、本書では、白洲家一同の写真が冒頭に掲載されている。その容貌たるや兄弟と似ているではないか。また、白洲次郎の生涯を語る上で、兄弟姉妹への言及があることも記載されている。

前読書のレビューで批判点として挙げた、著者が取材もせずに批難するのはどうか、という点。本書の著者がケンブリッジまで取材に出かけたかどうかは知らない。ただ、罵言を避け、あきらかな追従からは一線を引く端正な文章からは、そうした私情は一切立ち上ってこない。現地取材もせずに批判することとの大きな違いである。

もちろん、前読書のレビューにも書いたように、白洲次郎の裏の顔を知りたい、という欲求はある。そして、本書の筆はそこまでは及んでいない。おそらくそれは白洲次郎が生前に語っていたように、「こういうものは、墓場まで持っていくもんなのさ」という事なのだろう。

武相荘の館内にも数年訪れていない。購読している武相荘だよりというメルマガによると、今春の庭はとても賑やかになりそうだとか。家の主人がどのような営みをしようと、庭の花々は季節の移ろいを正直に映し出す。白洲次郎の未だ知られていない謎解きは、これからの歴史家に委ねるとして、彼という一人の男が丹精込めて作り上げた庭は、彼の人生を物語ってくれるはずである。

’14/3/8-’14/3/9


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