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心のふるさと


今までも何度かブログで触れたが、私は著者に対して一方的な親しみを持っている。
それは西宮で育ち、町田で脂の乗った時期を過ごした共通点があるからだ。
また、エッセイで見せる著者の力の抜けた人柄は、とかく肩に力の入りがちだった私に貴重な教えをくれた。同士というか先生というか。

タイトル通り、本書で著者は昔を振り返っている。
すでに大家として悠々自適な地位にある著者が、自らの活動を振り返り、思い出をつづる。その内容も力が抜けていて、老いの快適さを読者に教えてくれる。

冒頭から著者は自らのルーツに迫る。
著者のルーツは岡山の竹井氏だそうだ。竹井氏にゆかりのある地を訪ね、自身のルーツに思いを馳せる内容は、まさに紀行文そのものだ。

続いて著者は、若き日の思い出を章に分けて振り返る。
著者がクリスチャンであることはよく知られている。そして、当社が幼い頃に西宮に住んでいたことも。
西宮には夙川と言う地がある。そこの夙川教会は著者が洗礼を浴びた場所であり、著者にとって思い出の深い教会であるようだ。
そこの神父のことを著者は懐かしそうに語る。そして著者が手のつけられない悪童として、教会を舞台にしでかした悪行の数々と、神父を手こずらせたゴンタな日々が懐かしそうに語られる。

また、著者が慶応で学ぶなか、文学に染まっていった頃の事も語られる。同時に、著者が作家見習いとして薫陶を受けてきた先生がたのことも語られていく。
その中には、著者が親交を結んだ作家とのエピソードや、他の分野で一流の人物となった人々との若き日の交流がつぶさに語られていく。

「マドンナ愛子と灘中生・楠本」
本書に登場する人物は、著者も含めてほとんどが物故者である。
だが、唯一存命な方がいる。それは作家の佐藤愛子氏だ。
90歳を過ぎてなお、ベストセラー作家として名高い佐藤愛子氏だが、学生時代の美貌は多くの写真に残されている。
この章では、学生の頃の佐藤愛子氏が電車の中で目を引く存在だったことや、同じ時期に灘中の学生だった著者らから憧れの目で見られていたこと。また佐藤愛子氏が霊感の強い人で、北海道の別荘のポルターガイスト現象に悩んでいたことなど、佐藤愛子氏のエッセイにも登場するエピソードが、著者の視点から語られる。

「消えた文学の原点」と名付けられた章では、著者は西宮の各地を語っている。書かれたのは、阪神・淡路大震災の直後と思われる。
著者のなじみの地である仁川や夙川は、阪神・淡路大震災では甚大な被害を被った。
著者にとって子供の時代を過ごした懐かしい時が、地震によってその様相をがらりと変えてしまったことへの悲しみ。これは、同じ地を故郷とする私にとって強い共感が持てる思いだ。
本編もまた、私に著者を親しみをもって感じさせてくれる。

本書を読んでいて思うのが、著者の交流範囲の広さだ。その華やかな交流には驚かされる。
さらに言えば、著者の師匠から受けた影響の大きさにも見るべき点が多々ある。
私自身、自らの人生を振り返って思い返すに、そうした師匠にあたる人物を持たずにここまで生きてきた。目標とする人はいたし、短期間、技術を盗ませてもらった恩人もいる。だが、手取り足取り教えてもらった師匠を持たずに生きてきた。それは、私にとって悔いとして残っている。

別の章「アルバイトのことなど」では、著者が戦後すぐにアルバイトをしていた経験や、フランスのリヨンで留学し、アルバイトをしていたことなど、懐かしい思い出が生き生きと描かれている。かつて美しかった女性が、送られてきた写真では、おばあさんになってしまったことなど、老境に入った思い出の無残が、さりげなく描かれているのも本書にユーモアと同時に悲しみをもたらしている。

また別の章「幽霊の思い出」では、怪談が好きな著者が体験した怪談話が記されている。好奇心が旺盛なことは著者の代名詞でもある。だから、そんな好奇心のしっぺ返しを食うこともあったようだ。
私に霊感は全くない。ただ、好奇心だけはいまだに持ち続けている。こうした体験を数多くしてきた著者は羨ましいし、うらやましがるだけでなく、私自身も好奇心だけは老境に入っても絶対に失いたくないと強く思う。

他の章には、エッセイが七つほどちりばめられている。

「風立ちぬ」で知られる堀辰雄のエッセイの文体から、「テレーズ・デスケルウ」との共通点を語り、後者が著者にとって生涯の愛読書となったことや、堀辰雄やモウリヤックの作品から、宗教と無意識、無意識による罪のテーマを見いだし、それが著者の生涯の執筆テーマとなったことなど、著者の愛読者にとっては読み流せない記述が続く。

また、本書は著者の創作日記や小説技術についての短いエッセイも載っている。
著者のユーモリストとしての側面を見ているだけでも楽しいが、著者の本分は文学にある。
その著者がどのようにして創作してきたのかについての内容には興味を惹かれる。
特に創作日記をつける営みは、作家の中でどのようにアイデアが生まれ育っていくかを知る上で作家への志望者には参考になるはずだ。

著者は、他の作家の日記を読む事も好んでいたようだ。作家の日々の暮らしや、観察眼がどのように創作物として昇華されたのかなどに興味を惹かれるそうだ。
それは私たち読者が本書に対して感じることと同じ。
本書に収められた著者のエッセイを読んでいると、一人の人間の日常と創作のバランスが伺える。本書を読み、ますます著書に親しみを持った。

‘2019/7/21-2019/7/21


掏摸


著者の「教団X」は衝撃的な作品だった。私は「教団X」によって著者に興味を持ち、本書を手に取った。

本書は欧米でも翻訳され、著者の文名を大いに高めた一冊だという。
「掏摸」とはスリのこと。いかに相手に気づかれずサイフの中の金品を掏り取るか。数ある罪の中でも手先の器用さが求められる犯罪。それがスリだ。
もし犯罪を芸術になぞらえる事が許されるなら、スリは犯罪の中でも詐欺と並んで芸術の要素が濃厚だと思う。

スリは空き巣に近いと考えることもできるが、空き巣は大抵の場合、場所の条件によって成否が大きく左右される。
さらに、持ち主が被害に気づきやすい。大事になる。

ところが手練れのスリになれば、移動の合間にサイフの中身を抜き取り、持ち主が気づかぬうちに元の場所に戻すこともできる。
相手に盗まれたことすら気づかれぬうちに財布を戻し、しかもサイフの中の全ての金品を奪わずに、少しだけ残しておく。
そうすることで、極端な場合、移動を繰り返す被害者が、移動中のどこかで落としたぐらいにしか思わないことさえある。
被害者に犯罪にあったことさえ気づかせない犯罪こそ、完全犯罪といえるだろう。

そこには、本来、悪が持っている、やむにやまれぬ衝動ではなく、より高尚な何かがある。
それこそが他の犯罪に比べスリを芸術となぞらえた理由だ。
スリ師の一連の手順には、手練れになるまでの本人なりの哲学さえ露になる。
スリを行う上で、何に気をつけ、どういう動機で行うか。それはスリではないとわからないことだ。
むしろ、生き方そのものがスリとなっているのだろう。

だからこそ、著者はスリを取り上げたのだろう。
スリの生態や動機を知らべ、その生きざまを主人公の行動を通して明らかにし、文学として昇華させようとしたのだろう。
本書に描かれたさまざまなスリの生態。それはスリの営みが犯罪である事を踏まえても、犯罪として片付けるだけでは済まない人としての営みの本質が内包されているようにすら思える。
ただし、スリはあくまでも犯罪だ。スリを礼賛することが著者の狙いではない。

スリとはすなわち手口でしかない、いうなれば小手先の芸術。
そこには、何か作家の琴線に触れる職人的な魅力が備わっているのだろう。

本書には主人公の生き方を否定するかのような、さらに本格的な悪が登場する。
その悪の前には主人公の罪など、しょせん生きるためのアリバイに過ぎないとさえ思える。
思うに著者は、悪の本質を描くため、より軽微なスリという犯罪から描きたかったのではないか

著者は本書で悪の本質を追求したかったのだろう。
それを著者は本書に登場する絶対的な悪、つまり木崎の存在として読者に提示される。

絶対的な悪を体現した人物、木崎は、相手に対する一切の忖度をかけない。
そればかりか、主人公を否定すらしない。ただのモノとして、道具として扱う。

木崎の絶対的な悪に対し、主人公には甘さがある。
万引を繰り返す母子に同情をかける主人公。
子供は親の万引の片棒を担がせられている。そして、母はつぎつぎと男を引っ張り込む売春婦だ。
主人公は、彼らの万引の現場に居合わせる。そして彼らの手口が店側にばれていること。次に同じ現場で犯行を行うと、捕まることを母子に忠告する。
そのような主人公の同情を察し、子は主人公のもとに転がり込む。自らの境遇に嫌気がさして。

誰にとっても、人生とはつらく苦しいものだ。
ところが親にとって道具とされる子にとっては、辛い以前に人生とは万引そのものでしかない。何も将来が見えず、何の希望も知らない日々。
主人公のように、スリという犯罪を芸術として楽しむ余裕や視野すらない。より、憐れむべき存在。
だから主人公は子に同情する。そして憐れむ。

ところが絶対的な悪木崎にとっては、主人公が子にかける同情は一片の値打ちすらない。それどころか相手を意のままに操る弱みとして映る。
主人公は母子を人質にされ、木崎の命に従うことを強いられる。

主人公は木崎からスリを要求される。その難易度の高い手口とスリリングな描写は本書のクライマックスでもある。
主人公はどうやって不可能にも思えるスリを成し遂げるのか。
その部分はエンターテインメントに似た読み応えがあって面白い。

だが、本書には別の読みどころもある。それは絶対的な悪、木崎その人が悪の本質を語る場面だ。

「お前がもし悪に染まりたいなら、善を絶対に忘れないことだ。悶え苦しむ女を見ながら、笑うのではつまらない。悶え苦しむ女を見ながら、気の毒に思い、可哀そうに思い、彼女の苦しみや彼女を育てた親などにまで想像力を働かせ、同情の涙を流しながら、もっと苦痛を与えるんだ。」(119ページ)
「俺は人間を無残に殺したすぐ後に、昇ってくる朝日を美しいと思い、その辺の子供の笑顔を見て、なんて可愛いんだと思える。それが孤児なら援助するだろうし、突然殺すこともあるだろう。可哀そうにと思いながら!」(119ページ)

木崎によれば、この世とは「上位にいる人間の些細なことが、下位の人間の致命傷になる。世界の構造だ。」(140ページ)

その考えをつきつめると、最大の悪に行き着く。悪とは人の人生を完全に操ることだと木崎は語る。
木崎は、ある男の一生を例に挙げる。人生のすべての運命や出会いを知らぬ間に操られ続けた男。懸命に生きてきたと本人は信じているのに、すべての幸運も不幸も、出会いや別れさえもすべて上位のある存在にお膳立てされていたことにすぎなかった。それを知った時の男の絶望。

悪とは何をさすのか。
それは他人の人生への介入であり、支配ではないだろうか。
木崎の哲学はそこに行き着く。
自らを上位に立つ人間として位置づけ、絶対的な悪への信念にもとづき、他人を自らを支配する。
木崎の行動の動機はそこにある。その支配がさらに自らを上位に押し上げ、より純粋な悪へと昇華させる。

われわれ小市民が考える悪とは、自分自身を少しでも楽にするための営みに過ぎない。
木崎の考える悪とは、さらに他人の支配も絡める。例えば相手の体を傷つけたり、相手の金品を盗んだり、相手の生命を奪うといった。それこそが悪の一面だが、ただし、それを自覚的に行うのと自分の中の止まない衝動に操られて行うのでは悪の意味が違ってくる。
木崎は自分の信念に基づき、自覚して悪を行使する。だからこそ彼は悪の絶対的な体現者なのだ。

それに比べると、主人公は母子に対し善意の介入を行う。それは善に属する。
そこが主人公が営む悪、すなわちスリと木崎の考える悪の間にある絶対的な差なのだろう。

スリという営みからここまで悪の輪郭を描き出す本書。
私たちの普段の生き方を考える上でも悪は避けては通れない。
味わい深い一冊だ。

‘2019/6/9-2019/6/12


楽園のカンヴァス


本書は実に素晴らしい。あらゆる意味で端正にまとまっている。
小説としての結構がしっかりしている印象を受けた。

本書の主人公、織絵は、美術館の監視員というどちらかといえば裏方の役割を引き受けている。母と娘と共に暮らし、配偶者は登場しない。

ところがある日、織絵にオファーが届く。
そのオファーとは、アンリ・ルソーの作品を日本に貸し出すにあたり、日本側の交渉担当として織絵を指定していた。
オファーを出してきたのは、ニューヨーク近代美術館のチーフ・キュレーターであるティム・ブラウン。
キュレーターとして花形の地位にあり、地味に描かれている織絵の境遇とは似つかわしくない。

娘の真絵との関係を修復できぬまま、生活に思い悩むように描かれる織絵。
そんな彼女の過去に何があるのだろうか。冒頭から読者の興味を惹いてやまない。
そして、舞台は十六年前へ。

ここから、本書の視点は十六年前のティム・ブラウンに変わる。
ティム・ブラウンは、ニューヨーク近代美術館のアシスタント・キュレーターとして、上司のトム・ブラウンのもとで働いていた。
上司のトム・ブラウンだけでなく、ティムのもとへも何通ものダイレクトメールが届く。
その中に混ざっていた一通こそ、スイス・バーゼルからの招待状だった。招待の主はコンラート・バイラー。伝説の絵画コレクターであり、有名でありながら、誰も顔を見たことのない謎に満ちた人物。
てっきり上司に届くべき招待状の宛名が誤って自分に届いたことをチャンスとみたティムは、誤っていたことを明かさずに招待を受ける。

バーゼルに飛んだティムは、そこでバイラーの膨大なコレクションのうちの一つ、アンリ・ルソーが描いた絵画の真贋の鑑定を依頼される。
アンリ・ルソーの代表作『夢』に瓜二つの『夢をみた』。果たしてこれが真作なのか偽作なのか。
その依頼を受けたのはティムだけではない。もう一人の鑑定人も呼ばれていた。
バイラ―の依頼は、二人の鑑定人がそれぞれ『夢をみた』を鑑定し、より説得力のある鑑定を行った方に『夢をみた』の権利を譲るというもの。
ティムともう一人の鑑定人は早川織絵。新進気鋭のルソー研究家として注目されていた彼女こそ、ティムが競うべき相手だった。

二人は、七日の間、毎日一章ずつ提示される文章を読まされる。
そこにはルソーの慎ましく貧しい日々が活写されていた。
その文章には何が隠されているのか。果たして『夢をみた』は真筆なのか。
さらに、織江とティムの背後に暗躍する人物たちも現れる。その正体は何者なのか。
七日間、緊迫した日々が描かれる。

本書を読むまで、私は恥ずかしいことにアンリ・ルソーという画家を全く知らなかった。
本書の表紙にも代表作『夢』が掲げられている。
そのタッチは平面的でありながら、現代のよくできたイラストレーターの作品を思わせる魅力がある。
色使いや造形がくっきりしていて、写実的ではないけれど、リアルな質感を持って迫ってくる。

ルソーは正規の画家教育を受けず、40歳を過ぎるまで公務員として働いていたという。
独学で趣味の延長として始めた画業だったためか、平面的で遠近感もない画風は、当時の画壇でも少し嘲笑されて受け取られていたらしい。
だが、パブロ・ピカソだけはルソーの真価を見抜いていた。そればかりか、後年のピカソの画風に大きく影響を与えたのがルソーだという。

私は本書を読んだ後、アンリ・ルソーの作品をウェブで観覧した。どれもがとても魅力的だ。
決して私にとって好きなタッチではない。だが、色使いや構図は、私の夢の内容をそのまま見せられているよう。
夢というよりも、自分の無意識をとても生々しく見せられているように思えるのだ。
本書のある登場人物が『夢』について言うセリフがある。「なんか・・生きてる、って感じ」(290p)。まさにその通りだ。

ティムと織江も、正統派の画壇からは軽んじられているルソーを正しく評価し、その魅力を正しく世に伝えようとする人物だ。
だからこそ、バイラーも二人をここに呼んだ。

そんな二人に毎日提示される文章。
そこには、当時の大きく変わろうとする美術界の様子が描かれていた。
素朴で野心もない中、ひたむきに芸術に打ち込むルソー。
美術には全く門外漢だったのに、ルソーの作品に惹かれ、日がな一日、憑かれたように絵を眺め、それが生きがいとなってゆく登場人物たち。

本書には、権威主義にまみれ、利権の匂いが濃厚な美術界も描かれる。
もう一方では、芸術の生まれる現場の純粋な熱量と情熱が描かれる。

本来、芸術とは内なる衝動から生まれるべきもののはず。
そして、芸術を真に愛する人とは、名画の前でひたすら絵を鑑賞し続けられる人の事をいう。本来はそうした人だけが芸術に触れ、芸術を味わうべき人なのだろう。
ところがその間に画商が割って入る。美術館と美術展を主催するメディアが幅を利かせる。ブローカーが暗躍し、芸術とは関係のない場所で札束が積まれて行く。

本書にはそうした芸術を巡る聖と俗の両方が描かれる。
俗な心は人間に欲がある限り、なくならないだろう。
むしろ、純粋な芸術だからこそ、俗な人々の心を打つのかもしれない。

百歩譲って、名画をより多くの目に触れさせるべきという考えもある。美術館は、その名分を基に建てられているはずだ。
そのような美術館の監視員は、コレクターよりもさらに名画に触れられる仕事だ、という本書で言われるセリフがある。まさに真実だと思う。
著者の経歴通り、本書は美術の世界を知った著者による完全なる物語だ。

小説もまた芸術の一つ。
だとしたら、本書はまさに芸術と呼ぶべき完成度に達していると思う。

‘2019/4/21-2019/4/22


二人静 第四回 金春流能楽師中村昌弘の会


能を最後に観たのはいつのことだろう。まったく覚えていない。そもそも私は能を観たことがあるのかすら自信がない。たしか学生時代に授業の一環で鑑賞した気がするのだが。それぐらい今の私は能の初心者だ。もちろん、国立能楽堂を訪れるのは今回が初めて。

この度の機会は主催の金春流の能楽師、中村昌弘さんが狛江にお住まいであるご縁からお誘いをいただいた。私はそのご縁を逃がさず、きちんとした能を観劇し、堪能し、さまざまな気づきをいただいた。この日はあいにくの雨だったが熱心なファンは多数いるらしい。ほぼ九割がた席は埋まっていた。

能舞台といえばイメージがすぐ浮かぶ特徴のある外観。渡り廊下(橋掛かり)から前面に突き出た立体的な舞台までは幾何学を思わせる構築の美にあふれている。舞台の背後のほかはすべて開放された無駄のない空間。そんな能舞台を国立能楽堂は観客席を含めて屋内に収めている。屋内でありながら能の臨場感を感じさせ、同時にこの日のような悪天候でも気にせず開演できる。それが国立能楽堂の良いところだろう。

観客席から舞台を見て右後ろ奥に切戸口という役者の出入り口がある。開幕の合図を機に、四名の羽織袴の男性とまだ幼さの残る少年が舞台へと進み出てきた。そこからしずしずと進み出る様はそれだけで一つの様式美を感じさせる。仕舞の「邯鄲 夢の舞」が始まる。変声期を迎える前の少年のかん高い声と四名の地謡の野太い声の対照が印象に残る。重厚な地謡の響く中、少年の舞はわずかなたどたどしさを感じたものの、金箔があしらわれた扇を操る様は軽やか。この後に登場して解説を加えた能楽評論家の金子氏によると、少年は今日の主催の中村昌弘さんの息子さんだそう。昨年末に今日の演目である邯鄲を披露する予定だったが、急なインフルエンザで休演を余儀なくされたとか。今日の舞は雪辱を果たす舞台になったそうだが、無事に勤め上げられてホッとしている事だろう。次代の日本の伝統芸能を担っていってほしいと思う。

金子氏の解説は続いての狂言「空腕」と能「二人静」にも及ぶ。能楽評論家という職業は今日初めて知ったが、名乗るだけのことはあり、明快に見どころや聞きどころを語ってくださる。とても参考になった。

金子氏が退場した後は、仕舞「野守」だ。中村昌弘さんが優雅に扇を操り、舞に動きをつける。時にたたらを踏んで舞台から音の波動を発し、リズムを刻む。重厚かつ軽快な舞。さすがだと思う。まさに静と動。それでありながら、前にかざした扇に首をキリッと向ける所作がとても印象に残った。地謡の山井綱雄さんが謡う微妙なメロディの抑揚と、時折、中村さんがたたらを踏んで舞台を鳴らす外は静寂に満ちた舞。そこに一つのアクセントを与える首の表現。私が美しさを感じたのはそこだ。

私は仕舞を見るのはほぼ初めて。妻の日舞を何度か見、歌舞伎の舞台を見た程度だ。こうした所作の美しさは、きらびやかな西洋仕立ての舞台ではあまり感じることはない。ところが能舞台で見ると、その美しさがことさらに迫ってくる。この上なく簡潔な衣装でありながら、人の動きが鮮やかに迫ってくる。空気の動きまで感じられるかのような舞は、音響がまったくない澄み切った能舞台ならではのものだと思う。

続いての仕舞「昭君」は中村さんではなく、別流派である観世流の武田宗典さんによるもの。私はこうした舞踊を語る知識も経験もない。うまく語れないし、二つの演目の違いが何なのかも分からない。それでも二つの舞からは何らかの個性は感じられた。これが舞う演者の個性なのか、流派の違いによるものかは分からない。だが、この二つの仕舞は、時間も短く、メリハリもあってかえって印象に残った。

続いては狂言「空腕」。事前に金子氏から解説が加えられていたため、おおかたの筋は理解していたつもり。狂言はいわゆるコントの源流。だからセリフが観客に聞き取れなければ、何にもならない。正直、最初の三つの仕舞では、地謡が何を言っているのか全く分からなかった。

ところが「空腕」はとても分かりやすかった。大蔵流の善竹富太郎さんがシテ。善竹大二郎さんがアドを演じていたが。この二人の発するセリフは朗々としてとても分かりやすい。どこが笑いどころなのかも理解できる。笑いのツボは数百年の時を隔ててもなお通じるのだ、と理解できる。

歌舞伎や落語など、江戸時代に発展した芸能が今も盛んに興行を行うのはわかる。だが、室町以前から受け継がれた芸能は今の世の中ではなかなか表舞台に出ることは少ない。ところが狂言は別だ。狂言は今の芸能界でも存在感を十分に発揮している。和泉元彌さんを真似たチョコレートプラネットの「ソロリソロリ」もそうだし、野村萬斎さんの活躍ぶりもすごい。それはセリフが明朗で、かつ人間の本性に切り込む芸の本質が、現代にもなお通じるからではないだろうか。

幕あいの休憩を挟み、続いては能「二人静」。今日の主演目だ。これまでの三つの仕舞と狂言はかろうじて舞のダイナミズムが現代の時間軸に通じるものがあった。だが、能はまったく違う。舞台の上で流れる時間は忙しない現代のそれとは別世界。橋掛かりを進んでくる菜摘娘や静御前の亡霊の歩みの遅さといったら。

ビジネスの現場ではあり得ない時間の進み。それは、合理化を旨とする情報業界に住む私にとってはもはや異次元に思える。現代人は忙しない、と揶揄されるが、その一員として生きていると、その忙しさは実感できない。だが、能舞台に流れるゆったりとした時間は、私の生活リズムとは完全に乖離している。ビジネスの現場にどっぷりの今だからこそ、能に流れる時間の遅さを新鮮に感じた。古き良き日本の風土や文化から見た時、現代のビジネスの時間軸とは果たして人のあるべき姿なのだろうか。そんなことを思った。

正直、あまりの時間の進みの遅さに、私は前半の菜摘娘が徐々に静御前に憑依されてゆく部分で三度ほど瞬間的に寝落ちしてしまったほどだ。金子氏よりここが見どころと教わっていたにもかかわらず。

後半、静御前の亡霊が橋掛りを渡って舞台へ乗り、菜摘娘と静御前の亡霊がそろって舞うシーンはクライマックスだと思う。ここも事前に金子氏の解説でなぜ難しいのかを教わっていた。いわゆる能面の目の部分は、わずかにしか開いていない。そして眼の位置は演者の顔に合わせているのではないという。つまり能面を被ると視野が極端に狭まる。それでありながら、菜摘娘と静御前の亡霊の所作にズレや狂いは許されない。そこを鍛錬と勘で合わせるのが見所だという。

正直、微妙なズレは何度か見かけた。明らかなズレも数度はあった。最初はそのズレが失敗に思え、残念にも感じた。だがやがて、そのズレをも含めて鑑賞するのが正しいのではないかと思うようになった。

そもそもズレとは基準としたリズムがあってこそ。ところが能を鑑賞していると基準となるリズムがわかりにくい。確かに能には囃子が付く。「二人静」でも太鼓と小鼓、笛や八名の地謡の方々が背後と脇に控えている。太鼓と小鼓の方は「ヨーッ!」「ハ」と声を伸ばし、合いの手を入れつつ鼓を打つ。だが、その拍子にロックやジャズのリズムは感じられない。そもそも、大鼓に拍子の整合性はあるのだろうか、と思ってしまう。だが、悠久のリズムに合わせ、演じられるのが能なのだろう。

と考えると「二人静」の少しぐらいのズレは許容しなければならない。そしてズレも含めて楽しむ。それが正しい能の楽しみ方ではないかと思った。解説で金子氏がおっしゃっていたが、能が好きだったことで知られる太閤秀吉の望みで「二人静」が舞われた際のエピソードが伝わっているという。当時も二人静を演ずるには同じぐらいの技量を持ち、背格好も同じぐらいの演者をそろえなければならなかったという。そして当代の実力ある二人の演者は流派も違い、犬猿の仲だったとか。実際、秀吉の前で披露された「二人静」の舞はバラバラだったという。にも関わらず、演目としては確かに完成されていたとか。つまり一分たりとも狂ってはならないというのは現代人ならではの感性であり、能の本質ではないということなのだろう。

むしろピッタリと一分の狂いもなく二人の演者の舞が合うことこそ、非現実的でかえって興が削がれるのではないか。デジタルを思わせる完全に同期された舞など、能の舞台にあっては異質でしかない。そんなものはVTuberに任せておけばよい。むしろ、能舞台の上に流れる雄大な時間軸にあっては少しぐらいのズレなど、差のうちに入らないことのほうが大切だ。

私はそのことに思い至ってから、舞台の舞のズレが気にならなくなった。

また、狂言と能では座席前のパネルにセリフが流れるようになっている。狂言は明確にセリフが理解できたので不要だった。だが、能ではさすがに何を謡っているのかわからずパネルのスイッチを入れた。そこで見た極端までに切り詰められたセリフ。それは古くからの日本語の響きが受け継がれており美しい。日本古来の美学が感じられる。ただ、惜しいことに、現代の日本には私も含めてそれを理解できる人がほとんどいない。

パネルにセリフを流すのはよいことだと思うけれど、このセリフをなんとかして理解できるものにできないか。それとも、これは能本来の様式として保存すべきで、セリフも変えずに今後も上演されていくのが正しいのだろうか。私にはわからない。でも、現代の能楽師は当然そのことを考えているはず。本来ならば観客に教養や素養があればよいが、それはかなわぬ願い。では現代のどこに能が生き延びる余地があるのか。

あらゆる文化がデジタルの波に洗われている昨今。能舞台の上こそは、現代ではもはや見られない情報から隔絶された世界なのだと思う。そして能舞台から発信される情報とは、舞台の上で演じられる所作や舞や謡いや拍子のみ。ピンマイクもなく、特殊効果にも頼らない舞台。磨き抜かれ、時流とは一線を画した美意識に純化された生身の人間から発せられる情報。今どき、そんな情報に触れられる機会はそうそうない。

私は能の孤高の世界観にとても惹かれた。そして能の世界に流れる時間軸から逆に現代の世界の疲れと歪みをみた。

そして能が生き延びる余地とは、まさにそこにあるのではないかと考えた。人本来のリズム。そのリズムとは本来、エンジンの動きやCPUのクロック信号、電磁波の周波に襲われるまでは、人間が刻んでいたもののはず。ところが今や人間が刻むべきリズムはデジタルの圧倒的な沸騰に紛れどこかに消えてしまった。だが、人が人である限り、そのリズムはどこかで誰かが保ち続けなければならない。それを担うことこそが能の役目ではないだろうか。

人を置き去りにしていったリズムは、この先もデジタルが牛耳っていくことだろう。だからこそ、能が求められる。能舞台に流れる時間だけが、人の刻むリズムを今に伝える。とすれば、能をみることに意味はある。時間を思い出すための能。人がデジタルから離れるためには、今や能だけが頼りなのかもしれない。

‘2019/06/15 国立能楽堂 開演 13:30~

https://nakamura-nou.saloon.jp/kouenkai/index/tandokukouenbacknumber.html


図説滝と人間の歴史


滝が好きだ。

みていて飽きない稀有なもの。それが滝だ。旅先で名瀑を訪れると時間のたつのを忘れてつい見入ってしまう。滝ばかりは写真や動画、本を見ただけではどうにもならない。滝の前に立つと、ディスプレイ越しに見る滝との次元の違いを感じる。見て聞いて嗅いで感じて。滝の周囲に漂う空気を五感の全てで味わう。たとえ4K技術が今以上に発達しても、その場で感じる五感は味わえないに違いない。

私の生涯で日本の滝百選は全て訪れる予定だ。本稿をアップする時点で訪れたのは25カ所。まだまだ訪れる予定だ。私が目指す滝には海外も含まれている。特にビクトリア、 ナイアガラ、イグアス、エンジェル、プリトヴィツェの五つの名瀑は必ず訪れる予定だ。

今までの私は滝を訪問し、眼前に轟音を立てる姿を拝むことで満足していた。そして訪れるたびに滝の何が私をここまで魅了するのかについて思いを巡らしていた。そこにはもっと深いなにかが含まれているのではないか。滝をもっと理解したい。直瀑渓流瀑ナメ瀑段瀑といった区分けやハイキングガイドに書かれた情報よりもさらに上の、滝がありのままに見せる魅力の本質を知りたい。そう思っていたところ、本書に出会った。

著者はオーストラリアの大学で土木工学や都市計画について教えている人物だ。本書はいわば著者の余技の産物だ。しかし、著者が考察する滝は、私の期待のはるか先を行く。本書が取り上げるのは滝が持つ多くの魅力とそれを見るための視点だ。その視点の中には私が全く思いもよらなかった角度からのものもある。

例えば絵画。不覚にも私は滝が描かれた絵画を知らなかった。もちろんエッシャーの滝はパズルでも組み立てたことがある。だがそれ以外の西洋の滝を扱った絵画となるとさっぱりだ。本書は絵画や写真がカラーでふんだんに掲載されている。数えてみたら本書には滝そのものを撮った写真は67点、絵画は41点が載っている。それらの滝のほとんどは私にとってはじめて知った。自らの教養の足りなさを思い知らされる。

本書では、滝を地学の観点から扱うことに重きを置いていない。滝が生まれる諸条件は本書でも簡潔に解説されており抜かりはない。滝の生成と消滅、そして学問で扱う滝の種別。それらはまるで滝を語る上でさも重要でないかのようにさらりと記される。そういったハイキングガイドのような記述を本書に期待するとしたら肩透かしを食うことになるだろう。

本書の原書は英語で書かれている。翻訳だ。この翻訳が少し練れていないというか、生硬な文章になっている。少し読みにくい。本書はそこが残念。監修者も付いているため、内容については問題ないはず。だが、文章が生硬なので学術的な雰囲気が漂ってしまっている。

だが、この文章に惑わされて本書を読むのをやめるのはもったいない。本書の真骨頂はその先にあるのだから。

地質学の視点から滝を紹介した後、本書は滝がなぜ人を魅了するのかを分析する。この分析が優れておりユニーク。五感で味わう滝の魅力。そして季節毎に違った顔をみせる滝の表情。増水時と渇水時で全く違う表情を見せる滝。著者は世界中の滝を紹介しつつ、滝についての造詣の深さを披露する。

そして、著者は滝の何が人を魅了するのかを考察する。これが、本書の素晴らしい点だ。まず、滝の姿は人々に大地の崇高さを感じさせる。そして滝は人の感情を呼び覚ます。その覚醒効果は滝に訪れると私の心をリフレッシュしてくれる。また、眺望-隠れ場理論と呼ばれるジェイ・アプルトンの理論も紹介する。この理論とは、眺望の良いところは危険を回避するための隠れ場となるとの考えだ。「相手に見られることなく、こちらから相手を見る能力は、生物としての生存に好ましい自然環境の利用につながり、したがってそうした環境を目にすることが喜びの源泉になる」(72p)。本能と滝を結び付けるこのような観点は私にはなかった。

また、もう一つ私に印象を残したのは、滝とエロティシズムを組み合わせる視点だ。私は滝をそういう視点で見たことがなかった。しかしその分析には説得力がある。滝は吹き出す。滝は濡れる。滝はなだらかに滑る。このような滝の姿から想像されるのは、エロスのメタファーだ。あるいは私も無意識のうちに滝をエロティシズムの視点で感じていて、そこから生命の根源としての力を受け取っているのかもしれない。

また、楽園のイメージも著者にとっては滝を語る上で欠かせない要素のようだ。楽園のイメージを著者は滝がもたらすマイナスイオン効果から結びつけようとしている。マイナスイオンが科学的に正しい定義かどうかはさておき、レナード効果として滝の近くの空気が負の電荷を帯びることは間違いないようだ。マイナスイオンが体をリフレッシュする、つまり滝の周りにいると癒やされる。その事実から著者は滝に楽園のイメージを持ってきているように受け取れた。ただ、マイナスイオンを持ち出すまでもなく、そもそも滝には楽園のイメージが付き物だ。本書は滝に付いて回る楽園のイメージの例をたくさん挙げることで、楽園のイメージと滝が分かちがたいことを説いている。

著者による分析は、さらに芸術の分野へと分け入る。絵画、映画、文学、音楽。滝を扱った芸術作品のいかに多いことか。本書で紹介されるそれら作品の多くは、私にとってほとんど未知だ。唯一知っていたのがシャーロック・ホームズ・シリーズだ。ホームズがモリアーティ教授と戦い、ともに滝へと落ちたライヘンバッハの滝のシーンは有名だ。また、ファウストの一節で滝が取り上げられていることも本書を読んでおぼろげに思い出した。そして滝を扱った芸術といえば絵画を外すわけにはいかない。本書は41点の絵画が掲示されている。その中には日本や中国の滝を扱った絵画まで紹介されている。著者の博識ぶりには圧倒される。日本だと周文、巨勢金岡、円山応挙、葛飾北斎の絵について言及されており、葛飾北斎の作品は本書にも掲載されている。私が本書に掲載されている絵画で気に入ったのはアルバート・ビアスタット『セントアンソニーの滝』とフランシス・ニコルソン『ストーンバイアーズのクライドの滝』だ。

芸術に取り上げられた滝の数々は滝が人間に与えた影響の大きさの表れだ。その影響は今や滝や流れそのものを人間がデザインするまでに至っている。古くまでさかのぼると、古代ローマの噴水もその一つだ。ハドリアヌス帝の庭園の噴水などはよく知られている。また、純然にデザイン目的で作られた滝もある。本書はそれらを紹介し、効果やデザインを紹介し、人工的な滝のありかたについてもきちんと触れている。

滝を美的にデザインできるのならば、滝をもっと人間に役立つように改良できるはずだ。例えば用水のために人工的に作られたマルモレの滝。マルモレの滝の作られた由来が改良の代表例として本書に取り上げられる。他にも水力発電に使われるために水量を大幅に減らされ、滝姿を大幅に変えられた滝。そういった滝がいくつも本書には紹介される。改良された滝が多いことは、滝の本来の姿を慈しみたい滝愛好家には残念な話だ。

人工的に姿を変えられる前に滝を守る。そのため、観光化によって滝の保全が図られる例もある。本書には観光化の例や工夫が豊富に紹介される。私が日本で訪れた多くの滝でも鑑瀑台を設け、歩道を整備することで観光資源として滝を生かす取り組みはおなじみだ。観光化も行き過ぎると問題だし、人によっては滝原理主義のような考えを持つ人もいるだろう。私は華厳の滝(栃木)や仙娥滝(山梨)や袋田の滝(茨城)ぐらいの観光化であれば、特に気にならない。もちろん滝そのものに改変を加えるような観光化には大反対だが。

こうして本書を読んでくると、滝とは実にさまざまな切り口で触れ合えることがわかる。このような豊富な切り口で物事を見る。そして物事の本質を考える。それが大切なのだ。私も引き続き滝を愛好することは間違いない。何も考えずに滝の眼前で何時間もたたずむ愛しかたもよいと思うし、場合によっては滝を考え哲学する時間があってもよい。本書を読むと滝の多様な楽しみ方に気づく。そうした意味でもとても参考になる一冊だ。図書館で借りた一冊だが、機会があれば買おうと思っている。

‘2017/04/21-2017/04/22


生首に聞いてみろ


著者の推理小説にはゆとりがある。そのゆとりが何から来るかというと、著者の作風にあると思う。著者の作風から感じられるのは、どことなく浮世離れした古き良き時代の推理小説を思わせるおおらかさだ。たとえば著者の小説のほとんどに登場する探偵法月綸太郎。著者の名前と同じ探偵を登場させるあたり、エラリー・クイーンの影響が伺える。法月探偵の行う捜査は移動についても経由した場所が逐一書き込まれる。そこまで書き込みながら、警察による人海捜査の様子は大胆に省かれている。それ以外にも著者の作品からゆとりを感じる理由がある。それは、ペダンティックな題材の取り扱い方だ。ペダンティックとは、衒学の雰囲気、高踏なイメージなこと。要は浮き世離れしているのだ。

本書は彫像作家とその作品が重要なモチーフとなっている。その作家川島伊作の作風は、女人の肌に石膏を沁ませた布を貼りつけ型取りし、精巧な女人裸像を石膏で再現することにある。死期を間近にした川島が畢生の作品として実の娘江知佳をモデルに作りあげた彫像。その作品の存在は限られた関係者にしか知らされず、一般的には秘匿されている。それが川島の死後、何者かによって頭部だけ切り取られた状態で発見される。娘をモチーフにした作品であれば頭部を抜きに作ることはありえない。なぜならば顔の型をとり、精巧に容貌を再現することこそが川島の作品の真骨頂だからだ。なのになぜ頭部だけが持ち去られたのか。動機とその後の展開が読めぬまま物語は進む。

彫像が芸術であることは間違いない。前衛の、抽象にかたどられた作品でもない限り、素人にも理解できる余地はある。だが、逆を言えば、何事も解釈次第、ものは言いようの世界でもある。本作には川島の作品に心酔する美術評論家の宇佐見彰甚が登場する。彼が開陳する美学に満ちた解釈は、間違いなく本書に浮き世離れした視点を与えている。川島の作品は、生身に布を貼ってかたどる制作過程が欠かせない。そのため、目が開いたままの彫像はあり得ない。目を閉じた川島の彫像作品を意味論の視点から解説する宇佐見の解釈は、難解というよりもはやスノビズムに近いものがある。解釈をもてあそぶ、とでも言えば良いような。それがまた本書に一段と浮き世離れした風合いを与えている。

ただ、本書は衒学と韜晦だけの作品ではない。「このミステリかすごい」で一位に輝いたのはだてではないのだ。本書には高尚な描写が混じっているものの、その煙の巻き方は読者の読む気を失わせるほどではない。たしかに彫像の解釈を巡って高尚な議論が戦わされる。しかし、法月探偵が謎に迫りゆく過程は、細かく迂回しているかのように見せかけつつ、地に足がついたものだ。

探偵法月の捜査が端緒についてすぐ、川島の娘江知佳が行方不明になる。そして宇佐見が川島の回顧展の打ち合わせに名古屋の美術館に赴いたところ、そこに宇佐見宛に宅配便が届く。そこに収まっていたのは江知佳の生首。自体は急展開を迎える。いったい誰が何の目的で、と読者は引き込まれてゆくはずだ。

本書が私にとって印象深い理由がもう一つある。それは私にとってなじみの町田が舞台となっているからだ。例えば川島の葬儀は町田の小山にある葬祭場で営まれる。川島のアトリエは町田の高が坂にある。川島の内縁の妻が住むのは成瀬で、川島家のお手伝いの女性が住んでいるのは鶴川団地。さらに生首入りの宅配便が発送されたのは町田の金井にある宅配便の営業所で、私も何度か利用したヤマト運輸の営業所に違いない。

さらに川島の過去に迫ろうとする法月探偵は、府中の分倍河原を訪れる。ここで法月探偵の捜査は産婦人科医の施術にも踏み込む。読者は彫像の議論に加え、会陰切開などの産婦人科用語にも出くわすのだ。いったいどこまで迷ってゆくのか。本書は著者の魔術に完全に魅入られる。

そして、謎が明らかになった時、読者は悟る。彫像の解釈や産婦人科の施術など、本筋にとって余分な蘊蓄でしかなかったはずの描写が全て本書には欠かせないことを。それらが著者によって編みあげられた謎を構成する上で欠かせない要素であることを。ここまでゆとりをひけらかしておきながら、実はその中に本質を潜ませておく手腕。それこそが、本書の真骨頂なのだ。

‘2017/01/12-2017/01/15


ベルリン、わが愛/Bouquet de TAKARAZUKA


本作は、私にとって初めて独りだけで観た舞台だ。独りだけで観劇することになった事情はここでは書かない。ただ、私の妻子は事前に本作をみていた。そして妻子の評価によると本作は芳しくないようだ。むしろ下向きの評価だったと言ってよいくらいの。そんな訳で、私の期待度は薄めだった。正直、事前に妻子が持っていたパンフレットにも目を通さず、あらすじさえ知らずに客席に座ったくらいだ。

そんな消極的な観劇だったにも関わらず、本作は私に強い印象を残した。私の目には本作が、宝塚歌劇団自らが舞台芸術とは何かを振り返り、今後の舞台芸術のあり方を確かめなおそうとする意欲作に映った。

なぜそう思ったか。それは、本作が映画を取り上げているためだ。映画芸術。それは宝塚歌劇そのものである舞台芸術とは近く、それでいて遠い。本作は舞台の側から映画を描いていることが特徴として挙げられる。なにせ冒頭から舞台上に映画館がしつらえられるシーンで始まるのだから。別のシーンでは撮影現場まで登場する。今まで私は舞台の裏側を描く映画を何作も知っている。が、舞台上でここまで映画の内幕を描いているのは本作が初めてだ。

舞台の側からこれほどまでに映画を取り上げる理由。それは、本作の背景を知ることで理解できる。本作の舞台は第二次大戦前のベルリンだ。第一次世界大戦でドイツが課せられた膨大な賠償金。それはドイツ国民を苦しめナチスが台頭する余地を生む。後の1933年に選挙で第一党を獲得するナチスは、アーリア人を至上の人種としユダヤ人やジプシー、ロマを迫害する思想を持っていた。その過程でナチスによるユダヤ人の芸術家や学者を迫害し、大量の亡命者を生んだことも周知の通り。そんな暗い世相にあって、映画はナチスによってさらにゆがめられようとしていた。映画をプロパガンダやイデオロギーや政治の渦に巻き込んではならない。そんな思いをもって娯楽としての映画を追求しようとした男。それが本作の主人公だ。脚本は原田諒氏が担当した宝塚によるオリジナル脚本である。

冒頭、舞台前面に張られたスクリーンにメトロポリスのタイトルがいっぱいに写し出される。私はメトロポリスはまだ見ていない。だが、メトロポリスをモチーフにしたQUEENの「RADIO GA GA」のプロモーションビデオは何度も見ている。なので、メトロポリスの映像がどのような感じかはわかるし、それが当時の人々にとってどう受けいれられたかについても想像がつく。

あらすじを以下に記す。METROPOLISのタイトルが記されたスクリーンの幕が上がると、プレミアに招待された人々が階段状の席に座っている。期待に反して近未来の描写や希望の見えない内容を観客は受け入れられない。人々は前衛過ぎるメトロポリスをけなし、途中退席して行く。メトロポリスを監督したのはフリッツ・ラング監督。この不評はドイツ最大の映画会社UFAの経営を揺るがしかねない問題となる。

そこで、次期作品の監督に名乗りを上げるのが、本作の主人公テオ・ヴェーグマンだ。彼はハリウッド映画に遅れまじと、トーキー映画を作りたいとUFAプロデューサーに訴え、監督の座を勝ち得る。

テオは友人の絵本作家エーリッヒに脚本を依頼する。さらに、当時ショービジネス界の花形であるジョセフィン・ベーカーに出演を依頼するため、楽屋口へと向かう。ベーカーは自らが黒人であることを理由に出演を辞退するが、そのかわりテオはそこで二人の女優と出会う。レニ・リーフェンシュタインとジル・クラインに。テオは、果たして映画を完成させられるのか。

本作は幕開けからテンポよく展開する。そして無理なく出演者を登場させながら、時代背景を描くことも怠らない。ここで見逃してはならないのが、人種差別の問題にきちんと向きあっていることだ。ジョセフィン・ベーカーはアメリカ南部出身の黒人。当時フランスを中心に大人気を博したことで知られる。本作に彼女を登場させ、肌の色を理由に自ら出演を断らせることで、当時、人種差別がまかり通っていた現実を観客に知らしめているのだ。先にも書いたとおり、ナチスの台頭に従って人種差別政策が敷かれる面積は広がって行く。それは、人種差別と芸術迫害への抵抗という本作のテーマを浮き彫りにさせてゆく。

本作が舞台の側から映画を扱ったことは先に書いた。特筆すべきなのは、本作が映画を意識した演出手法を採っていることだ。それはスクリーンの使い方にある。テオが撮った映画でジルが花売り娘として出演するシーンを、スクリーンに一杯に映し出す演出。これはテオの映画の出来栄えと、ジル・クラインの美しさを際立たせる効果がある。だが、この演出は一つ間違えれば、舞台の存在意義を危うくしかねない演出だ。舞台人とは、舞台の上で観客に肉眼で存在を魅せることが使命だ。だが、本作はあえて大写しのスクリーンで二人の姿を見てもらう。この演出は大胆不敵だといえる。そして私はこの演出をとても野心的で意欲的だと評価したい。しいて言うならば私の感覚では、モノクロの映像があまりにも鮮明過ぎたことだ。当時の人々が映画館で楽しんだ映像もフィルムのゴミや傷によって多少荒れていたと思うのだが。わざと傷をつけるのは「すみれコード」的によろしくないのだろうか。

美しい花を売る演技によって、端役に過ぎなかったジル・クラインはヒロインのはずのレニ・リーフェンシュタインを差し置いて一躍スターダムな評価を受ける。さらには、そのシーンに心奪われたゲッベルスに執心されるきっかけにもなる。

プライドを傷付けられたレニは、ジル・クラインがユダヤ人の母を持つこと、つまりユダヤの血が流れていることをゲッベルスに密告する。そしてナチスという権力にすり寄っていく。そんなレニのふるまいをゲッベルスは一蹴する。彼女がユダヤ人であるかどうかを決めるのはナチスであると豪語して。ジル・クラインに執心するあまりに。史実ではゲッベルスはドイツ国外の映画を好んでいたと伝えられている。本作でもハリウッドの名画をコレクションする姿など、新たなゲッベルス像を描いていて印象に残る。

あと、本作で惜しいと感じたことがある。それはレニの描かれ方だ。史実ではレニ・リーフェンシュタインは、ナチスのプロパガンダ映画の監督として脚光を浴びる。ベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア」の監督としても名をはせた彼女。戦後は逆にナチス協力者としての汚名に永く苦しんだことも知られている。ところが、本作ではレニがナチスに近いた後の彼女には一切触れていない。例えば、レニが女優から監督業にを目指し、ナチスにすり寄っていく姿。それを描きつつ、そのきっかけがジルに女優として負けたことにある本作の解釈を延ばしていくとかはどうだろうか。そうすれば面白くなったと思うのだが。もちろん、ジル・クラインは架空の人物だろう。でも、レニの登場シーンを増やし、ジルとレニの関係を深く追っていけば、レニの役柄と本作に、さらに味が出たと思うのだが。彼女の出番を密告者で終わらせてしまったのはもったいない気がする。

もったいないのは、そもそもの本作の尺の短さにも言える。本作がレビュー「Bouquet de TAKARAZUKA」と並演だったことも理由なのだろうけど、少し短い。もう少し長く観ていたかったと思わせる。本作の幕切れは、パリへ向けて亡命するテオとジルの姿だ。客車のセットを舞台奥に動かし、降りてきたスクリーン上に寄り添う二人を大写しにすることで幕を閉じる。この流れが、唐突というか少々尻切れトンボのような印象を与えたのではないか。私も少しそう思ったし、多分、冒頭にも書いた妻子が低評価を与えたこともそう思ったからではないか。二人のこれからを観客に想像させるだけで幕を下ろしてしまっているのだ。ところが本作はそれで終わらせるのは惜しい題材だ。上に書いた通りレニとジルのその後を描き、テオに苦難の人を演じさせるストーリーであれば、二幕物として耐えうる内容になったかもしれない。

惜しいと思った点は、他にもある。本作にはドイツ語のセリフがしきりに登場する。「ウィルコメン、ベルリン」「イッヒ! リーベ ディッヒ」「プロスト!」とか。それらのセリフがどことなく観客に届いていない気がしたのだ。もちろん宝塚の客層がどれぐらいドイツ語を理解するのかは知らない。そして、これらのセリフは本筋には関係ない合いの手だといえるかもしれない。そもそも他のドイツを舞台にした日本の舞台でドイツ語は登場するのだろうか。エリザベートは同じドイツ語圏のウィーンが舞台だが、あまりドイツ語のセリフは登場しなかった気がするのだが。

なぜここまで私が本作を推すのか。それは権力に抑圧された映画人の矜持を描いているからだ。 ナチスという権力に抗する映画人。この視点はすなわち、大政翼賛の圧力に苦しんだ宝塚歌劇団自身の歴史を思い起こさせる。戦時中に演じられた軍事色の強い舞台の数々。それらは、宝塚自身の歴史にも苦みをもって刻印されているはず。であれば、そろそろ宝塚歌劇団自身が戦時中の自らの苦難を舞台化してもよいはずだ。なんといっても100年以上の歴史を経た日本屈指の歴史を持つ劇団なのだから。 本作で脚本を担当した原田氏は、いずれその頃の宝塚歌劇の苦難を舞台化することを考えているのではないか。少なくとも本作のシナリオを描くにあたって、戦時中の宝塚を考えていたと思う。私も将来、戦時中の宝塚が舞台化されることを楽しみにしたいと思う。

それにしても舞台全体のシナリオについて多くを語ってしまったが、主演の紅ゆづるさんはよかったと思う。彼女のコミカルな路線は宝塚の歴史に新たな色を加えるのではないか、と以前にみたスカーレット・ピンパーネルのレビューで書いた。ところが、本作はそういったコミカルさをなるべく抑え、シリアスな演技に徹していたように思う。歌も踊りも。本作には俳優さん全体にセリフの噛みもなかったし。あと、サイレントのベテラン俳優で、当初テオには冷たいが、のちに助言を与えるヴィクトール・ライマンの名脇役ぶりにも強い印象を受けた。

先に舞台上に演出された映画的なセットや演出について書いた。ところが、本作には舞台としての演出にも光るシーンがあったのだ。そこは触れておかないと。テオがジルにこんな映画を撮り続けたいと胸の内を述べるシーン。テオの回想を視覚化するように映写機を手入れする若き日のテオが薄暗い舞台奥に登場する。銀橋で語る二人をピンスポットが照らし、舞台にあるのは背後の映写機と二人だけ。このシーンはとてもよかった。私が座った席の位置が良かったのだろうけど、私から見る二人の背後に映写機が重なり一直線に並んだのだ。私が今まで見た舞台の数多いシーンでも印象的な瞬間として挙げてもよいと思う。

あと、宝塚といえば、男役と娘役による疑似キスシーンが定番だ。ところが本作にそういうシーンはほとんど出てこない。上に書いたシーンでもテオはジルに愛を語らない。それどころか本作を通して二人が恋仲であることを思わせるシーンもほとんど出てこない。唯一出てくるとすれば、パリ行きの客車に乗り込もうとするジルの肩をテオの手が包むシーンくらい。でも、それがいいのだ。

宝塚観劇の演目の一つに本作のような恋の気配の薄い硬派な作品があったっていい。ホレタハレタだけが演劇ではない。そんな作品だけでは宝塚歌劇にもいつかはマンネリがくる。また、本作には宝塚の特長であるスターシステムの色も薄い。トップのコンビだけをフィーチャーするのではなく、登場人物それぞれにスポットを当てている。私のように特定の俳優に興味のない観客にとってみると、このような宝塚の演目は逆に新鮮でよいと思う。そういう意味でも本作はこれからの宝塚歌劇の行く先を占う一作ではないだろうか。私は本作を二幕もので観てみたい、と思う。

ちなみに、この後のレビュー「Bouquet de TAKARAZUKA」は、あまり新鮮味が感じられず、眠気が。いや、このレビューというよりは、もともと私がレビューにあまり興味のないこともあるのだが。でも、それではいかんと、途中からはレビューの面白さとはなんなのかを懸命に考えながらみていた。それでもまだ、私にはレビューの魅力がわからないのだが。でも「ベルリン、わが愛」はよかったと思う。本当に。

‘2017/12/20 東京宝塚劇場 開演 13:30~

https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2017/berlinwagaai/index.html


継母礼讚


先日、「官能の夢ードン・リゴベルトの手帖」についてのレビューを書いた。本書は、その前編にあたる。続編を先に読んでしまったため、なるべく早く本書を読みたいと思っていた。

本書を読んで思ったこと。それは「官能の夢〜」が本書の続編ではなく、逆に本書が「官能の夢〜」のプロローグなのでは、という気づきだ。「官能の夢〜」に比べると本書のページ数はかなり少ない。本書で著者が挑んだエロスや性愛への探求。それは本書としていったん結実した。しかし、著者にとって本書は探求へのきっかけでしかなかった。本書で取り掛かったエロスや性愛への探求を、続編である「官能の夢〜」でより深く掘り下げた。そうではなかろうか。だからこそ本書は「官能の夢〜」のプロローグだという印象を受けた。

継子の少年フォンチートの小悪魔のごとき誘惑におぼれ、ルクレシアは一線を越えてしまう。「継母礼讚」とは、無邪気なフォンチートが父に読ませた、あまりに罪深い手記のタイトルだ。本書には、義理の母子の間におきた過ちの一部始終が描かれている。エロスや性愛を描くという著者の狙いは、ストレートだ。

「官能の夢〜」は、フェティシズムの観念的な思索に費やしていた。ドン・リゴベルトの手帖に記された手記の形をとって。本作は、エロスや性愛の身体感覚の描写が主となっている。その描写は執拗だが、エロスや性愛の表面的な描写にとどまっている。エロスの観念的なところまでは降りていないのだ。だが、性愛とはつまるところ身体感覚の共有であり、その一体感にある。

エロスが身体感覚である主張を補強するかのように、フォンチートとルクレシア、ドン・リゴベルトの危うい関係の合間に、本書ではリゴベルトやルクレシアやフォンチートや侍女のフスチニアーナが登場する異世界、異時代の挿話を挟んでいる。そこでの彼らは世俗と超越している。そして俗世のしがらみなど微塵も感じられない高尚で清らかな存在として登場する。異世界の彼らからは精神的なつながりは一切感じられない。思考の絡みはなく、肉体的な関係として彼らをつないでいる。といってもそこには性欲や性愛を思わせるような描写は注意深く除かれている。あくまでそこにあるのは肉体の持つ美しさだけだ。だから本書には性交をあからさまに描写して、読者の欲情を催させる箇所はない。本書が描く性愛やエロスとは、性欲の対象ではないのだ。

そのイメージを補強するかのように、本書の表紙や冒頭に数枚の絵が掲げられている。いずれも裸体の女性と子供が描かれており、その姿はどこまでも妖艶だ。しかしそこにみだらさは感じられない。美的であり芸術的。それは本書の語る性愛やエロスにも通じる。

義理の母子に起きてしまった過ちは道徳の見地からみると罪なのだろう。しかし性愛そのものに罪はない。フォンチートとルクレシアの行いは、リゴベルトとルクレシアがそれぞれの身体感覚に忠実に営む行いと根源では等しいのだから。少なくともしがらみから解き放たれた本書の挿話や冒頭の絵画から感じられるメッセージとは、性愛自身に罪はないことを示している。

著者は、本書と「官能の夢〜」の二冊で、性愛とエロスから社会的通念や、ジェンダーの役割を取り除き、性愛それ自身を描くことに腐心しているようだ。その証拠に「官能の夢〜」では、リゴベルトに道化的な役割まで担わせ、男性としての権威まで剥奪しようとしている。

性愛とは極言すれば生物の本能でしかない。脳内の身体感覚や、脳内の嗜好-ちまりフェティシズムに還元されるものにすぎない。だが、著者の訴えたいエロティシズムとはそこまで還元し、立ち返らなければ掴めないのかも。

だからこそ、本書と続編である「官能の夢-ドン・リゴベルトの手帖」は対で読まなければならないのだ。

‘2016/10/27-2016/10/28


画狂人 北斎


ここ一年、私にとって両国界隈はぐっと身近な場所となった。個人的に訪れるのは、江戸東京博物館や国技館、回向院、横網町公園やクラフトビールパブのpopeyeなど。そしてこの一年で、両国でお仕事のご縁も結ばせていただくことになった。今、私にとって両国は公私ともに熱い場所だ。

本作を観る機会も両国でのお仕事のご縁からいただいた。観劇の一週間前のこと。おかげで素晴らしい舞台経験ができた。きっかけをくださった方にはとても感謝している。

昨年秋にすみだ北斎美術館が開館したことは記憶に新しい。だが、わたしはまだ訪れていないし、積極的に観に行こうとも思っていなかった。両国界隈を歩くと嫌でも葛飾北斎の痕跡が目につくのに。例えば生家跡だったり寓居跡だったり。江戸時代の風情が残されているとはいえない両国界隈だが、北斎が遺した足跡は両国のあちこちに点在している。それなのに、私は両国を何度も訪れながら、ついに北斎自身に興味を持つことがなかった。

でも今は違う。今の私は北斎にとても興味をもっている。なぜなら本作を観たから。本作こそは、私に葛飾北斎の世界を教えてくれた。科学者並みに計算され尽くした構図。枠にはまらず、破天荒な人生観。画に打ち込んだ壮絶な執念の力。北斎の娘お栄との奇妙な生活。齢90を控え、なお長命を欲した活発な意思。北斎を知れば知るほど、北斎は私の生き方の範となるべき人物に思えてくる。中途半端な私の生き方を、よりアグレッシブにしたのが北斎ではなかったか。生涯に93回引っ越し、三万点の作品をのこし、画号を幾度も変え、貪欲に自らの生き方を追求した人物。そう伝えられているのが葛飾北斎。知れば知るほど魅力的に思えてくる。

本作は、葛飾北斎についての朗読劇だ。朗読劇、という芸術形式は私にとっては初めて。朗読会のような感じだろうか。あるいは直立不動、または座像のように動かぬ朗読者たちが、単調に台本を読んでいくような光景。レコーディングスタジオでアテレコする声優さんのような感じ?本作をみるまで、私はそんな想像を抱いていた。

ところがそうではなかった。本作は私の貧困な演劇知識で創造の及ぶような朗読劇ではない。そもそもそんなありきたりな演出を宮本亜門氏がよしとするはずはないのだ。本作は宮本亜門氏が演出と脚本を担当している。朗読劇と銘打たれているとはいえ、舞台のダイナミズムを損なうような演出をするはずがない。

朗読劇であるため、朗読者にはそれぞれのもち場が用意されている。その前には譜面台のような台本置きが設けられている。そこには台本が載せられている。朗読者たちはそれを読み、そしてめくっていた。しかし朗読者は、そこでただ台本を読んでいたのではない。読むのではなく、確かに演じていたのだ。朗読者たちは舞台を動きまわり、それぞれの役を演じる。そもそも、演じているのは名の知れた有名な役者さんであるから、台本など要らないはずなのだ。実際、舞台を動き回る時、役者さんの手元に台本はない。動と静。そこには確かな演劇のダイナミズムが息づいていた。

なぜ、このような形態を宮本亜門氏は採ったのだろう。わたしにはその真意がわからない。ただ、想像はしてみたい。私の想像だが、場面が頻繁に切り替えられるため、それを整理する進行役が必要だったからではないか。本作の舞台は平成29年の東京、そして化政文化華やかなりし江戸の二つだ。二つの時代を本作は幾度も行き来する。そのため、場面の進行役を置くことで場面展開を観客にわかりやすくした。そのため、朗読劇の形態を採ったという考えが一つ。

もう一つは、観客に北斎の魅力をわかりやすく伝えるためではないか。本作の狙いは、観客に北斎の魅力をわかりやすく紹介することにある。それは本作がすみだ北斎美術館のオープニングで上演され、大英博物館の北斎展で上演されたことからも明らかだ。本作は北斎研究家による講演の様子が登場する。背景にプロジェクションマッピングで北斎の絵がふんだんに表示される。朗読劇であれば、このように舞台から北斎研究家が講演する、という演出が観客に受け入れられやすい。また、講演という形態を採ることで、わかりやすく観客に北斎の紹介を済ませてしまえる。実に合理的な演出ではないか。だからこそ、朗読劇という体裁をとったのではないかと思う。

また、本作で工夫があるのが、現代側の場面にもドラマ性を持たせていることだ。現代東京に登場するのは北斎研究家の長谷川南斗とその助手峰岸凜。長谷川南斗は北斎の計算され尽くした構図を称賛し、現代に通じる北斎の先駆性を紹介する。彼の視野には北斎の娘であり、画家としても後世に名を遺すお栄の貢献は入らない。単なる北斎の娘、そして身の回りの世話をする女中としてしか。そんな師の説に助手の凛は違和感を感じる。ことあるごとに論を戦わせる二人。二人にはそれぞれの過去のしがらみがあった。南斗は双子の兄が画壇で天才画家として持てはやされた一方、自分には絵の才能がなかったことを劣等感として持ち続けている。それなのに兄は才能を持ったまま自殺してしまい、自分だけが遺されたことで劣等感を鬱屈している。美術評論家として糧を得ている現状も飽き足りていない。凛は画家としての将来を嘱望された天与のセンスの持ち主。だが、東日本大震災ですべてを失い、以来絵筆を折ったままの状態が続いている。

そういった背景を持たせることで、現代の二人に単なる北斎のキュレーター以上の役割を与えているのだ。それが本作により深みを与えていることは言うまでもない。演出の醍醐味とはこういうことなんだろうと思う。南斗を演じていた菊地創さんと凛を演じていた秋月三佳さんは、本作のポスターには写真付きで登場していなかったが、本作には欠かせない演者だったと思う。

そんな現代から一転して江戸。江戸では北斎と娘のお栄が喧々諤々としながら画業に専念している。白状すると、私は本作を観るまでお栄の存在を知らなかった。長谷川南斗には、単なるお手伝いとしてしか扱われなかったお栄だが、宮本亜門氏の演出ではお栄は単なるお手伝いや娘ではなく共作者として描かれている。

なぜお栄は北斎の陰に隠れ、共作者に甘んじているのか。そこには父北斎に対するお栄の尊敬がある。生活をともにすると絵以外には無頓着でうんざりさせられる父。「親でなければ、絵師でなければとっくに飛びだしていた」」とは、作中のお栄のセリフだ。ところが悪態をつき、伝法な口調で罵倒しながら、お栄は北斎から離れない。なぜならそこには尊敬があるから。あまりに巨大すぎる才能と絵に対する向上心。それがお栄を捕まえて離さない。

そんなお栄の複雑な感情を、演じる中嶋朋子さんは巧みに演じていた。本作の主題は、お栄とは北斎にとってなんだったか、だといっていい。つまり見方を変えれば本作の主役はお栄なのだ。お栄が父北斎に向ける複雑な心境をいかにして観客に伝えるか。ここに本作の肝があるように思う。そんな北斎を演じていたのが志賀廣太郎さん。気性の荒いお栄と同じぐらい奇天烈な北斎。ところが、本作の北斎は少しおとなしい。それもそのはず。本作で描かれる北斎は老境の北斎なのだから。達観しつつ、生には執着。悟りつつ、画業には貪欲。そんな老境の北斎を、志賀さんは見事に演じていた。

画狂人、鬼才、偏屈者。とかく天才画家にはそういうエキセントリックな人間像を当てはめやすい。だが実は、葛飾北斎とは志賀さんが演じた人ではなかったか。飄々とした、絵だけ描いていれば幸せな、その代わりに他のことは何もしないだけの人ではなかっただろうか。

本編が終わった後、宮本亜門氏と隅田北斎美術館館長の菊田氏によるアフタートークがあった。お二人のトークから感じられたのは、世界中で今なお研究され、賞賛される北斎の姿だ。そしてお二人が北斎を敬愛する様子も伺えた。それは、演劇の世界で活躍する宮本亜門氏の生き方にも反映するのだろう。開演前と開演後のロビーで談笑する宮本亜門氏からは、名声に興味をもたず、ただ演出が好きで北斎が好きな思いが伝わってきた。

北斎にしてもそう。他からの視点など気にすることはない。ただ自分の好きな道を一心不乱に生きればいい。人生を悔いなく生きるとは、まさにそういうことなんだなあ、と。

‘2017/09/17 曳舟文化センター 開演 17:30~

https://www.city.sumida.lg.jp/bunka_kanko/katusika_hokusai/hokusai_info/gakyojinhokusai.html


犯罪小説家


本書はタイトルの通り、小説家が主人公だ。

小説家、待居涼司は「凍て鶴」によって作家として日の目を浴びたばかり。「凍て鶴」は評価され、映画化の話も持ちこまれる。受賞作家のもとには、さまざまな人物があいさつに訪れるが、映画化で監督・脚本・主演に名乗りを挙げた小野川充もその一人。

小野川の軽さに自分と相いれない性格を感じた待居。さらに小野川の脚本案は、独自の解釈が施されている。その解釈は、原作者待居の思惑を超えている。小野川に反りの合わなさを感じる待居はその脚本案を素直に受け入れられない。原作では憎悪をこめた殺害で終わるラストを心中と読み替えた小野川の案は、小野川の個人的な思いに影響されすぎていやしないか。しかも、小野川は「凍て鶴」の舞台を勝手に待居の住む多摩沢だと決めつける。多摩沢公園に脚本のインスピレーションを求めるため、あろうことか多摩沢に住居まで移してしまう。

小野川のペースに翻弄されいらだつ待居。そんな待居の気持ちをさらに逆なでするように、小野川は脚本に現実に起こった事件をモチーフとして持ち込もうとする。その事件とは、木ノ瀬蓮美が主催する落花の会によって引き起こされた。落花の会とは、自殺サークルのことだ。周到に準備を重ね、会員の自殺を成就させるのが目的の会は、多摩沢公園で主催の木ノ瀬蓮美が水死体で浮かぶことで終息を迎える。

小野川は、「凍て鶴」脚本のラストを心中で終わらせるのが最善と確信する。そしてそのためには落花の会について詳しく調べなければならないと待居や編集担当の三宅に力説する。小野川の想いは口だけにとどまらず、ライターの今泉知里に落花の会を調べさせるまでに至る。

そして本書は、今泉知里の調査によって自殺ほう助サイトの実態に入り込む。落花の会は木ノ瀬蓮美の死によって活動を停止した。だが、当時を知る幹部が何人か詳しい事情を知っているはず。ネット上に残されたログを追いながら、今泉知里は少しずつ落花の会の暗部に迫ってゆく。

本書は、犯人側の視点で語りを進める倒叙型でもなく、捜査側から語りを進める叙述型でもない。それが本書全体にどことなく曖昧さを与えている。そのあいまいさは一読すると本書の抱える欠点と思ってしまう。だが、そうではない。実際、本書の犯人像は早い時点で読者には見当がついてしまうだろう。しかし、ある程度読み進めても最後まで著者はそのあいまいさを崩さない。そしてそのあいまいさとは、犯人側ではなく捜査側にも当てはまるのだ。終わり近くになって明かされる捜査側の意図の意外さにきっと驚くことだろう。

そしてそこに、芸術という表現形式がはらむ狂気が顔を見せるのだ。小説と映画。二つの表現形式のはざまにあるものの違いといってもよいかもしれない。多分、それは本書は一度読んだだけでは気付かないと思う。二度読まないと。

‘2016/08/25-2016/08/29


写実絵画の魅力


本書を読む前の年、2015年の秋に妻とホキ美術館を訪問した。ホキ美術館とは千葉の土気にある写実絵画専門の美術館だ。

もともと私は写実絵画に関心を持っていた。そんなところに誘われたのが日向寺監督による映画「魂のリアリズム 画家 野田弘志」。私の友人が日向寺監督の友人と言うこともあってご招待頂いた。この映画からは期待を遥かに上回る感銘を受けた。(レビュー

2014年の夏に観たこの映画をきっかけに写実絵画にますます興味を持った私は、ホキ美術館の存在を知る。ホキ美術館は日本で唯一といってよい写実絵画専門の美術館だそうだ。それ以来、行きたいと願っていた。

そんなところに、妻がホキ美術館に行きたいと言い出した。テレビ番組でホキ美術館が取り上げられているのを観て行きたくなったらしい。これ幸いと、妻とともにホキ美術館に訪れた。本書は美術館の売店で図録代わりに購入した一冊だ。

ホキ美術館には、ホキ美術館創設者と館長のお眼鏡にかなった写実絵画が数百点飾られている。そのほとんどが我が国の写実画家による選りすぐりの作品だ。海外作家の作品はほとんどない。それでいてこれだけレベルの絵画が集められたこと。それは我が国の写実画家の裾野の広さとレベルの高さを表している。

実際、ホキ美術館に陳列されている作品にはただただ圧倒される。少し離れると写真と見まごうばかりの作品も、間近にみると筆跡が認められ、写真とは違う手仕事であることがわかる。「魂のリアリズム 画家 野田弘志」は、野生の鳥の巣とその中に産み落とされていた卵を写実的に再現した大作「聖なるものⅣ」の製作過程を中心に話が進む。スクリーンの中で映し出された製作過程からは、凄まじい根気と集中力が伝わってくる。野田氏による「聖なるものⅣ」はスクリーンで克明に観られる。とはいうものの、あくまで作品はスクリーン越しにしか観られない。そしてそれは撮影監督が向けるカメラの角度とタイミングによって切り取られる。観客が望む角度と時間で観られないのだ。ホキ美術館にはこの「聖なるものⅣ」が飾られている。もちろん好きなだけ観賞できる。しかもホキ美術館に陳列されている他の作品も「聖なるものⅣ」に匹敵するレベルの作品だ。が他にも多く陳列されている。そのレベルは、我が国の写実絵画の到達点を示しており、ひたすら圧倒されるばかりだ。

「聖なるものⅣ」が飾られているのはホキ美術館のギャラリー8。ここには、我が国の著名な写実画家十五人の代表作が一点ずつ飾られている。

本書には、ギャラリー8に代表作を展示する十五人のうち十四人による写実絵画についての考えや哲学、技法について語ったインタビューを軸に構成されている。

始めて写実絵画に触れた方が思うのは、このような事ではないだろうか。
「で、写真とどう違うの?」
白状すると、「魂のリアリズム 画家 野田弘志」を観る前の私の心にもそんな疑問があった。写実絵画の技術的な素晴らしさは理解できても、その芸術性についてはよくわかっていなかったのだ。しかしその疑問は、「魂のリアリズム 画家 野田弘志」で製作の現場を見聞きし、ホキ美術館で現物を目にし、そして本書で他の写実画家たちの肉声を通じて払拭される。

実際のところ、作家によっては現物をみてキャンバスに写し取る方だけではなく、写真をモチーフとして写実絵画を書く方もいらっしゃるようだ。「魂のリアリズム 画家 野田弘志」でもそう。野田弘志氏からして、写真を補助素材として使用しているのだから。「魂のリアリズム 画家 野田弘志」では鳥の巣の卵の写真を基に「聖なるものⅣ」を描き進める野田氏の姿が映っている。

そうなると、写実絵画と写真の違いはますます不明確になってゆくばかりだ。

その疑問を払拭する考えを本書の中で幾人もの画家が述べている。彼らによると、写真に現れた風景を素材としても、写真にはないマチエール(素材感)を出せるのが写実絵画の魅力だという。確かに質感や遠近感、陰影など、平板な写真には出すことのできない画家としての味わいが写実絵画にはある。

それは、ホキ美術館で写実絵画を間近で観ると良く分かる。写実絵画をごく近くで観ると、そこには明らかに画家の作為の跡がある。筆遣いや塗りムラ、筆圧や絵具の盛りなど。こういった細部で見ると明らかに絵であるのに、少し離れるとそれは写真と遜色のない風景が再現されているのだ。しかも写真に写し取られた平板な現実ではなく、画家の目を通した立体的な現実がある。カメラのレンズと画家の目の立体感の違いについては、本書でも幾人の画家が言及していた。

結局のところ、鑑賞者にとってもっとも安心できる写実とは、自分の目に映る現実に近い像なのだ。そして、どれだけ写真の解像度が上がろうとも、写真とは所詮は細かいドットの集合に過ぎない。つまり、自分の目に映る現実の代替としては、写真は究極のところで成り得ないのだ。写真の技術がどれだけ精細を究めようとも越えられない一線がそこにはある。

写実画家とは、越えられない一線には最初から挑まない。それよりも他のアプローチで現実に迫ろうとする。人間の目と脳の認識に忠実であろうとした写実絵画は、技術主体ではなく人間主体の芸術を目指していると思う。本書に載っている写実画家の方々の言葉から、そのような哲学を感じ取った。

私はダリの絵には感銘を受けたが、一方でピカソの抽象画にはゲルニカを除けばあまり感銘を受けない。抽象画とは、目に映らない意識の世界だ。あえてデッサンを狂わせた抽象画は、目に映る景色をスキップして脳の混沌とした無意識に直接訴えかける。一方の写実絵画は目に映る景色をそのまま受け止める。だが、目から意識への伝達や技法も含めた部分で勝負する。一見すると目に映る景色を題材としているがために、視覚と質感に画家の技術や感性が映し出された作品は、鑑賞者を安心させる。だが、安心を与えながらも技術とセンスによってフィルタされた作品は、目に映る景色の中の質感を確かに伝えてくれる。つまり、逆の意味で脳内の視覚を司る部分に訴えかけるのが写実絵画なのだと思う。

「魂のリアリズム 画家 野田弘志」とホキ美術館と本書は、3セットで観て頂きたいと思う。どれもが写実絵画を理解するためのよい教材だ。

‘2016/04/07-2016/04/08


こころの王国―菊池寛と文藝春秋の誕生


著者はよく作家を題材とした評伝を書く。例えば太宰治や三島由紀夫、川端康成といった大正から昭和にかけての文豪について。上にあげた三名は、自ら人生に結末をつけたことでも知られている。著者が題材として選ぶにあたり、どういった基準を設けているのかは知らない。が、三名とも波乱万丈で個性的な一生であったのは確かだ。死すらも自らの意思でコントロールしようとする自我の強さは、著者にとって取り上げやすい対象だったのだろう。

本書では、菊池寛を取り上げている。菊池寛もまた、大正から昭和にかけての文豪である。が、上にあげた三氏とは違い、最後は病で命を落としている。さらに菊池寛は、文藝春秋の創設者という作家以外の顔をもっている。つまり三氏に比べて少しだけ俗世に近い位置で活躍していたのが菊池寛といえる。それが災いしたのか、十数年前に「真珠夫人」がテレビドラマ化された以外はほとんどの作品が顧みられることなく埋もれてしまっている。

そんな菊池寛を書くにあたり、著者の採ったアプローチは女性秘書の視点、しかも女言葉の文体で菊池寛を描ききることだ。かなり思いきった挑戦だと思う。そして、著者は本書を見事な成果物として形にしている。

私自身、この様な体裁の評伝は初めて読む。そして、菊池寛の著作自体、今まで一冊くらいしか読んだことがない。そんな私からみても、女性秘書の視点から描いた菊池寛は、実像の一端を伝えていると思わせるものがある。

私はかつて、高松市にある菊池寛資料館を訪問したことがある。二十年近く前なので、苦労して小説家として名を成した経歴は印象に残っているが、展示内容は大方忘れてしまった。菊池寛資料館は、少し硬めの展示スタイルだったように覚えている。本署のような女言葉による思い切ったスタイルで展示を書き直したら今の読者に興味を持ってもらえるかもしれないし、もう少し展示内容にも印象を持って覚えてもらえるかもしれないと思った。

本書は語り手である秘書の「わたし」が、近くで先生の一挙手一投足を見る視点で描かれている。先生こと菊池寛の日常を描写することで、菊池寛の人となりをあぶり出そうとする。「わたし」は、先生の執筆活動の調べものをすることになり、夜毎先生の夕食のお供に方々連れ回される。そのうち、「僕は五十で死ぬ。五十になるまで僕のそばにいてください」の言葉にほだされ、愛人として過ごすことになる。その一方では、雑誌モダン日本の編集長として実在したマーさんこと馬海松の恋人としての日々を送ることになる。そのような日々を送る中、先生の調べものをするうちに、先生の発表した「半自叙伝」に巡り合うことになる。それをきっかけとして、マーさんの助けを借りながら先生の挫折の前半生を調べることになる。かくして、読者は「わたし」の視点で菊池寛の人柄に触れ、「半自叙伝」を通して菊池寛の作家となるまでの挫折のエピソードを知ることになる。

香川から上京するも、濡れ衣から落第を余儀なくされ、京大の学生となる青年期。京大で詩人の上田敏に師事するも、文筆家としては無視され続けた京都時代。上田敏からの示唆を受けて図書館でアイルランド戯曲を読み耽り、物語の紡ぎかたを体得し再び東京へ戻った転換期。夏目漱石の漱石山房に入り浸って知遇を得るも、先に知遇を得ていた芥川龍之介のみが激賞され、自らの作品は酷評される挫折期。

本書はここで「葬式に行かぬ訳」という菊池寛の書いた文章を例に挙げて夏目漱石への辛辣な感情を披露する。本書のタイトルは「こころの王国」と付けられている。これは菊池寛の出した短編集「心の王国」を踏まえて付けたのだろう。そして「心の王国」自体、夏目漱石の「こころ」を念頭に置いて付けられたのではないかと著者は推測する。当時の文壇の大御所であった夏目漱石に対する菊池寛の複雑な想いは、本書の中盤133ページから215ページまでの全体の三分の一を使って念入りに描かれている。

菊池寛は「生活第一、芸術第二」というモットーでも知られる。それを打ち出したのは余裕主義として括られる夏目漱石への対抗心があったのではないか。著者は本書の中で、菊池寛の哲学を随所で紹介する。時代をまるごとつかんでやる、との強い意志の持ち主である一方、身なりや権威にはさほど注意を払わなかった人物。菊池寛のふところの深さを描いた本書からは、急速に近代化を果たす明治のエネルギー、芸術も生活も併せ呑んだ器の広さが、菊池寛という人物に体現されたかのようにも思える。夏目漱石とは反対の立場から、芸術と人生の問題を体現していったのが菊池寛という人物だったと思う。夏目漱石が現在でも文豪の中の文豪として確固たる地位を占めているにも関わらず、菊池寛がその方向性の違いをもって評価されていないのは残念といえる。

本書は後半、軍靴の音響く中文学者としての心と大出版社の経営者の立場の狭間に苦しむ菊池寛の、それにも関わらず戦後公職追放される菊池寛の苦しみを描く。冒頭に挙げた文豪三氏と異なり、著者は病死ではあったが、時代に殺されたと言えるかもしれない。

本書の主人公「わたし」は秘書を辞め、マーさんとも別れて結婚し家族を築く。「わたし」のモデルは佐藤碧子さんであることがあとがきで明かされる。実際にそういう人生を歩まれたのだろうか。著者は病床の佐藤碧子さんを訪ね、佐藤さんの著書である「人間・菊池寛」を参考として本書を書き上げたらしい。が、本書が雑誌に連載されている間、若干佐藤さん御自身や遺族からは内容について抗議の声も上がったと聞く。私がどうこう言う話ではないが、本書は佐藤さんの生涯や著作、菊池寛の生涯や思想から著者が作り上げた創作と見ればよいと思う。本書は評伝ではなく小説の体裁を採っているのだし。

また、本書は巻末に二つの対談も収められている。井上ひさし氏と著者。久世光彦氏と著者。どちらの対談も本書の内容や菊池寛その人とともに、その時代を鋭く分析した素晴らしい対談である。文庫版のみの付録だそうなのだが、この対談だけでも菊池寛という人物のスケールが垣間見える。お勧めしたい。

それにしても、相変わらず菊池寛の著作は図書館の全集棚に埋もれたままである。私もまた、菊池寛の著書に目を通し、時間が許せば高松市の菊池寛記念館に再訪してみたいと思う。前回の訪問時には作家としての菊池寛しか見なかったが、今の私は同じ経営者として文藝春秋社を起こした菊池寛にも興味がある。

‘2015/7/13-2015/7/17


Dance Act ニジンスキー


バレエについては門外漢であり、本作が銘打つDance Actなる演劇形態についても、全く予備知識のないまま、劇場に臨んだ。しかしその演劇の粋を集めたような演出の素晴らしさとDanceの不思議な魅力には酔わされた。ゾクゾクする感覚、それを味わえる機会は、芸術鑑賞でもそうそうない。しかし本作ではその感覚に襲われた。

幕が開くと同時に、舞台上には彫像のように静止した4人の男女がそれぞれのポーズを取っている。と、一人一人が順にバレエの踊りを踊りだす。一斉にではなく、間合いをとって順に。その間合いは、4人の踊りの振りのリズムと同期している。流れが融け合っていく。そうして時間軸がつむぎ出され、舞台上の時間が動き出す。本作は時間の流れを意識している。観客も時間の流れに身を委ねることが求められる。しかも複数の時間を。本作の世界観に没入するには、時間を意識することが欠かせない。4人の男女は本作では時の流れを象徴するかのように作中を通じてダンスを幾度も披露する。或る時はゆるやかに。あるときは舞台の上で風を起すかのように。ある時は場面転換の先触れとして。冒頭から、本作における4人のダンサーの位置づけが分かりやすく示される。舞城のどかさん、穴井豪さん、長澤風海さん、加賀谷真聡さん。パンフレットを拝見するとバレエの振りは苦手という方もいらっしゃったのだが、それを感じさせないほど、緩やかに、かつダイナミックに躍動する姿は、実に美しい。

DANCER 舞城 のどか/穴井 豪/長澤 風海/加賀谷 真聡

踊り続ける4人の後ろから、安寿ミラさんが登場する。主人公ニジンスキーの妹ニジンスカという役どころで、本作を通してナレーションを務め上げる。登場早々、その立ち居振る舞いから、舞台上で流れる時間とは別の場所にいるかのごとく振る舞う。反復話法を駆使し、観客に対して本作の背景と登場人物間の関係を説明する。主人公の妹という役柄に加え、元宝塚男役スターの安寿さんの発声が舞台に効果を与えていることは間違いない。彼女の良く通る声を通じ、観客は徐々に本作の世界を理解する。このナレーションなくして、幾重にも重なりあう本作の世界観は理解しえない。

B.NIJINSKA 安寿 ミラ

ナレーションが始まってすぐ、精神を病んだニジンスキーが車いすで舞台上に登場。そして他の人物たちが舞台を去った後、彼の心中を具現したかのごとく、舞踊表現の粋を凝縮したような踊りが舞台上で展開される。バレエの振りについて詳しい訳ではないが、実に独創的である。これはニジンスキーの病んだ精神に閉じ込められた、舞踊家としての本能の迸りなのであろうか。主演の東山義久さんの狂気と快活さをともに表現した演技は鬼気迫るものがあった。

V.NIJINSKY 東山 義久

さらにはもう一人の役回しである、岡幸二郎さん演ずるディアギレフも登場。舞台の裏と表を行き来するその歩みは悠揚迫らぬもので、舞台に別の時間軸を持ち込む。そしてある時はニジンスカのナレーションと重ね、ある時は独白で、ニジンスキーとの愛憎を語り、ニジンスキーという人物の歴史を、その才能を語りつける。合間には見事な歌唱を披露し、芸術と男性の愛好家としてのディアギレフの複雑な内面を存分に示す。岡さんの歌声と声量は、本作の重要なアクセントの一つである。

DIAGHILEV 岡 幸二郎

本作の登場人物は全編を通して10人。それぞれがそれぞれの個性でもって、本作を構成する。その絶妙なバランスは素晴らしいものがある。ダンサーの4人も舞台上で時間軸を示すためには一人ではだめで、4人が4人の独自のステップを全うすることで、場面が場としても時間としても彩られる。

さきほどニジンスキーが車椅子で登場した際、車椅子を押していたのが、ニジンスキーの妻ロモラ。そして担当医師であるフレンケル医師。当初は舞台上の存在感はあえて抑えているが、徐々にこの二人が存在感を増す。ロモラは夫であるニジンスキーの才能や栄光という過去にしがみつく人物として。そしてフレンケル医師はロモラとの越えられない一線を耐えつつ、本作で唯一の常識人として舞台に静の側面をもたらす。つい先年まで宝塚娘役トップを務めていた遠野さんは、さすがというべき歌唱力もさることながら、その立ち居振る舞いが没落貴族でプライドだけに生きているロモラの危うさを見事に表現していた。そしてフレンケル医師に扮した佐野さんの落ち着いた常識人としての抑制の効いた演技は、本作にとって無くてはならないものである。

ROMOLA 遠野 あすか
DR.FRENKEL 佐野 大樹

舞台は、絶妙な演出効果と安寿ミラさんのナレーションにより、時間を一気に遡らずに、徐々に徐々に遡り、ニジンスキー一家の生い立ちを示す。そしてバレエ・リュス入団へと至る。ニジンスキーには兄がいて、先にバレエダンサーとして頭角を現すのだが、精神も先に病む。その兄が精神病院で亡くなったことをきっかけに、ニジンスキー自身も精神に異常を来す。その兄に追いつこうとするニジンスキー自身の狂った心を象徴するかのように、ニジンスキーの兄スタニスラフが登場する。30歳前半でなくなったという兄スタニスラフは、本作では少年のような出で立ちで舞台を所狭しと出現する。おそらくはニジンスキーの心の中に住む兄は少年の姿なのであろう。その姿は観客にしか分からず、ニジンスキー以外の登場人物には見えない存在として、本作の重層性にさらに複雑な層を加える。和田泰右さん演ずるスタニスラフは、本作のニジンスキーの心の闇を映し出す上で、外せない役どころである。その無垢なようでいて狂気を孕んだ登場の度に、観客の心に慄然とした感覚が走る。舞台後に楽屋で和田さんに挨拶させていただいたのだが、実にすばらしい好青年で、舞台とのギャップに改めて舞台人としての凄味を感じさせた。

STANISLAV 和田 泰右

安寿ミラさんのナレーションと岡幸二郎さんによるリードにより、ニジンスキーの栄光は頂点を極める。東山さんによるニジンスキー絶頂期の踊りは実に独創的と思わせるものがある。ニジンスキー本人の踊りも、後継者による踊りも知らない私だが、独創的と思わせる身のこなし、そして跳躍。Dance Actの本領発揮である。ある時は4人のダンサーを従えて。それぞれが素晴らしい舞踊を舞台狭しと表現する。その空間の中を、重厚なディアギレフの存在感を回避し、ロモラのプライドを翻弄し、フレンケル医師の常識をかき乱す。そして、ニジンスカのナレーションの効果はますます冴えわたる。

代表的なニジンスキーの舞踊である『牧神の午後』では全面に幕を張ることで影絵を通して自慰シーンを表現する。『ペトルーシュカ』では、人形を演ずるのが得意という、ニジンスキーの生涯とその狂気を解く鍵となる「操られる」ということについての解釈がなされている。

栄光の中、ロモラとの出会い、ロマンス。そして南米での結婚やつわり故の出演放棄に至り、ディアギレフの怒りが爆発する。栄光からの転落、そして忍従の日々。精神病院でのニジンスキーの追憶と、過去の現実の時間軸はますます錯綜する。この時、観客は何重にも進行する本作の時間軸の中に身を置くことになる。ニジンスカの兄ニジンスキーへの嫉妬を含んだナレーションの時間軸。ニジンスキーの追憶の時間軸。ディアギレフの愛憎交じった時間軸。そしてニジンスキーの兄スタニスラフへの敬慕と兄自身の狂気の時間軸。さらにロモラとフレンケル医師の惹かれあい、拒みあう感情の時間軸。最後に観客自身の時間軸。

幾重にも交錯する時間軸でも、観客は本作の世界観から取り残されることがない。それは冒頭のニジンスカの反復話法によって本作の世界観を叩き込まれているからである。また、10人の登場人物の本作での位置づけがしっかりと説明され、演技されているからでもある。このあたり、見事な演出と、役者の皆さんの卓越した演技による効果のたまものであろう。

ついに狂気の世界に堕ちていくニジンスキー。と、正気であるはずの絶頂期の舞踊においてすら、狂気を孕んだ演技を見せていたニジンスキーが急に快活となる。そしてディアギレフやニジンスカと本作を通して初めてまともな会話を交わす。そこには屈託や確執など微塵も感じさせない。ニジンスカのナレーションにはニジンスキーやディアギレフ没後の歴史が登場する。ここにきて、どうやら観客はニジンスキーは死に、死後の世界に来ていることを理解する。そして、ようやく彼の病んだ心が解放されたかのような錯覚を覚える。このあたりの東山さんの演技たるや素晴らしいものがある。

だが、快活なまま、ニジンスキーは本性をさらけ出す。操られるのが得意とさんざん言っておきながら、俺は神だ!と絶叫するニジンスキー。この時、舞台後方からのスポットライトに向かい、十字架を擬する。観客はニジンスキーの神を騙るかのような十字の影に彼の本心と狂気を観る。もはやナレーターではなく、兄に憧れ嫉妬する女性としてのニジンスカが、この時発する「あなた・・・狂ってる」。

私はこの時、全身にゾクゾクする戦慄を味わった。ニジンスキーの狂気と舞台人としての役者たちの演技に。

一度見ただけでは本作の時間軸を理解し尽せたとは思えない。ニジンスキーの手記もまだ販売されているそうなので、本作のDVDと合わせてもう一度見てみたいと思わされた。

2014/4/27 開演 14:00~
https://gingeki.jp/special/nijinsky.html