本書は見つけるべくして見つけ、読むべくして読んだ本だ。
妻とともに家の断捨離の一環として訪れたブックオフ。そこの書棚で本書は手まねきしていた。

本書が扱うのは宝塚歌劇団が魅せる華やかな世界ではない。嫉妬に満ちた内幕の暗闘でもない。ましてや、ファンの憧れである舞台の上のキラキラを賛美する本でもない。
本書が取り上げるのは社会学だ。その対象は、宝塚を愛するファンの活動。
著者は、宝塚歌劇団のファンの活動を社会学的に観察し、分析を加える。

宝塚を愛するファンと社会学。意外な取り合わせかもしれない。
そもそも、宝塚ファンと社会学という言葉が並ぶこと自体、みたことがない。
歌劇団という単語から連想されるのは、華やかな芸術の分野だ。
それなのに社会学?
百歩譲って、劇団の興行を経営の観点から見る経営学ならともかく、社会学?

だが、知っている人は知っている。宝塚ファンの組織力を。
知らない人でも、ひょっとしたら宝塚大劇場前や有楽町の東京宝塚劇場前に集う異様な集団を見たことがないだろうか?
同じ服装に身を包んだ彼女たちの多くは、宝塚歌劇団の私設ファンクラブに属する方々なのだ。

彼女たちは劇場の前で何をしているのか。それは、出待ち入り待ちとされる営みだ。
ごひいきのタカラジェンヌが劇場に出入りするたびに出迎え、見送る。
それは私設ファンクラブの皆さんにとっては日常の行動である。

当然ながらその行動に金銭的な報酬はない。
報酬はジェンヌさんを見送り、華やかな世界に参加できる満足感のみ。
舞台と観客席に区切られた劇場の距離よりも、さらにジェンヌさんに近い距離で顔を見て、声をかけ、手紙を渡せる喜び。
観劇をしないのに、わざわざ遠方から出待ち入り待ちのためだけにやってくる熱心なファンも多いという。

それぞれのファンの行動は自ら発している。
だからこそ、ファンの行動に統制がとれていないと劇場周辺は混乱するのだ。
そのため、ファンに対して統制をとることが求められる。それを担うのが、私設ファンクラブと呼ばれる組織だ。

それぞれの私設ファンクラブは、お互いできちんとしたルールを定め、宝塚歌劇団やその周囲に迷惑をかけぬよう、全体でも統制をとっている。
その統制が及ぶ範囲は、出待ち入り待ちだけではない。客席でも統制の効力は発揮されている。
たとえば、劇中の盛り上がる場面で拍手する。それの口火を切っているのはファン歴の長い人だ。

ファンクラブの活動とは、そうした目に見える行動だけではない。
ファンクラブの活動の裏側にはもっと大変な任務や作業がまだまだある。
例えばファンクラブのスタッフはチケットの割り当てや配席まで行っている。他にもお茶会と呼ぶ、ジェンヌさんとファンクラブの交流イベントの企画も行っている。グッズの作成も手配し、イベントでプレミアム感を盛り上げるのだ。さらに、ファンの行動がジェンヌさんや劇団に迷惑を及ぼさないよう統制する。エトセトラ、エトセトラ。

一ファンでいるうちならまだいい。ファンクラブのイベントに出て、楽しむだけでよいから。だが、ファンクラブの運営側に携わった途端、ファンとしての立場で楽しむだけでは済まなくなる。ましてや、ファンクラブの代表ともなると、あれこれと代表ならではの雑務が押し寄せてくる。

私はそうした一連の作業を内から見ている。
なぜなら、妻がファンクラブの代表を務めているからだ。
確か2017年の春先からなので、そろそろ3年になる。

私はそうしたファンクラブの行事について、表の部分はよく知らない。せいぜい何度か観劇した程度だから。だが、華やかな表に見せる面ではなく、裏方として代表が担う雑務や事務の作業についてはある程度わかるつもりだ。

そうした作業には、どれもがパソコンを使った作業が付き物だ。
ところが、妻はそうした作業が大の苦手。だから私にそうした作業の手助けが回ってくる。
もちろん、それらの代表の作業に報酬が払われることはない。
当然、手伝っている私にも。
だから途中から突き放し、妻が自分で文書を作れるように促した。
その甲斐があって三年目にして妻はようやくWordやExcelで自分で文書を作れるようになってきた。

さらに代表ともなると、華やかな世界では済まない裏の事情も見えてくる。もちろんそれらは合法だ。とはいえ、そうした作業をファンが無償で行っていることに、私はどうしても納得出来ない。

妻はまだ、宝塚のファンであるからいい。それらを公演がつつがなく行われるための必要な作業と受け入れられるのだろう。
そうした雑務や裏方の作業が無償で行われる。何の見返りもなく。
それらはファンとして劇団に関わっていられる喜びがなければ、とてもやっていられないはずだ。スタッフや代表は普通のファンよりもジェンヌさんとの距離が近い。だから無償であっても見返りがある。ということなのだろう。

だが、私は違う。私はそうした裏側を見てあ然とした。
見返りどころか家庭すら犠牲を払わねばならないことに絶望した。ファンの熱意を巧妙に利用するその運営のあり方に怒った。
だから私は、当分宝塚歌劇は観ない、と妻に言い渡した。もちろん、代表の仕事も手伝わない、と。

私は、関西、それも阪神間で育った。阪神間モダニズムを語る上で宝塚歌劇団は絶対に外せない。だから、私にとって宝塚歌劇とはかげがえのない郷土の誇りだった。
ところが運営の裏側を知ってしまったことで、私にとっての郷土の誇りが一転して忌避すべき存在に堕ちてしまった。
私は、それが悲しい。残念でならない。だからいずれ、何かしらの問題提起をしなければ、と思っていた。
妻は悪くない。そしてファンも悪くない。おそらくタカラジェンヌさんも運営の指示に従っているだけで、責めるべきではないはず。

私が怒りに満ちた告発を行うことで、純粋にタカラヅカを愛する人たちに迷惑をかけることは避けたい。私はその一念で我慢してきた。
我慢する一方で私は、いずれなんらかの形で世に問おうと思い、ネットに散らばるヅカ関連の情報や出版されている書籍をつまみ読みしている。本書もその一冊だ。

本書を先に読んだのは妻の方だ。
数日後、妻は私に本書を差し出しながらこういった。「書いてあることがそのままだから」と。
つまり代表をやっている妻にとって本書の内容は先刻承知だったのだ。それはつまり、本書の内容が正確ということでもある。

ただし、著者は宝塚のファンクラブ活動から離れてすでに10年ほどになるそうだ。序章で「一九九〇年代初めから二〇〇八年くらいまで」(11P)と書いている。
そのため、ひょっとしたら今の代表の活動とは、ずれがあるのかもしれない。
そもそも、花月星雪宙の五組にもそれぞれのやり方があるだろうから、正確な意味では少しずつ違っているのだろう。
だが、妻には本書で描かれるファンの活動に違和感はなかったようだ。

序章で著者が断っているように、本書は宝塚の魅了を語る書籍ではない。演劇論を語ることもないし、劇団経営を語ることもない。ファンクラブの行動から、社会学的分析を加えるのが趣旨だ。
著者は社会学の研究者でもあり、博士号も持っているとか。だから本書の内容は相当に学術的だ。
それでいて実際のファンクラブの活動についても事細かに紹介している。

「序章 宝塚歌劇団の転換―一九九〇年代から二〇〇〇年代へ」
「第1章 宝塚スターシステムとファンクラブ」
「第2章 ファンクラブの活動内容ーファンクラブ側から見て」
「第3章 ファンクラブ会員の役割―ファン側の視点」
「第4章 舞台と客席をつなぐファンクラブ」
「第5章 ファンクラブの意味」

これらの章では、詳細にファンクラブの行動や組織、代表の仕事が書かれている。たぶん、宝塚に興味のない人にとっては、意味の分からない情報が多いと思う。
それでも、随所に挟まる社会学的な視点と、なぜファンクラブが組織として成り立っているのか、という事情については十分に参考になるはずだ。
本書から組織論として学ぶべき点は多い。特に、私のようにファンクラブや代表の活動を知らねばならない者には、ファンクラブ活動が詳しく紹介されていることはありがたい。

こうしたファンクラブの組織や運営は、宝塚歌劇団が立ち上げたものではない。それぞれのファンが自発的に作り上げていった。それは特筆すべきことだ。
ファンクラブの発生を著者は一九八〇年代からと書いている。だが、私は別の宝塚を取り上げた本で、一九七〇年代にはファンの活動は始まっていたとの記述を読んだことがある。その本ではベルばらブームが過熱する様子が紹介されていた。そして、チケットを並ぶ列やトップスターをガードするファンたちが自然に集いつつあると書かれていた。
おそらくその頃から、今のようなファンクラブが産声をあげ、ファンが独自の工夫を重ね、今の姿に育ってきたのだろう。そうした組織の成り立ちを考える上で、本書は興味深い。

本書を読んでいると、ファンクラブとはあくまでもそのスターを応援したいファン心理から生まれたもの、と思いたくなる。
だが、実際はそうでもないらしい。私の妻は頼まれて代表になったぐらいだし。代表になる前はトップスターとして退団した別のジェンヌさんのファンだった。
ファンクラブによっては代表さんのなり手がいなかったり、そもそもファンクラブが結成されていなかったりと、事情はまちまちのようだ。
ファンクラブとは、清く正しく無垢な存在であるだけではなく、さまざまな思惑を抱いたファンが集う生々しい場でもある。内情は決して麗しきファン心理だけでなる一枚岩ではないようだ。

本書にはそうした事情は載っていない。
著者が関わったファンクラブは順風満帆だったのか、それともあえて書いていないのか。それはわからない。
ただ、著者はそうした個別の事情は考慮せず、一般的なファンクラブの組織論として本書を描いていると思われる。

今も表向きはファンクラブは私設であり、宝塚歌劇団による公認ファンクラブは「宝塚友の会」だけということになっている。宝塚歌劇団は、ファンクラブ活動を公認していないのだ。そして、支援も助成もしていない。
ところが、宝塚歌劇団から私設ファンクラブに対して通知や告知や指示や認可が流れてくるという。
それも公式な文書ではなく、非公式な伝達というからタチが悪い。裏で干渉し、利用すべき部分は利用するということなのだろう。

ファンクラブがあることで、ジェンヌさんの負担は減る。つまり、ファンクラブとは劇団に替わり、ジェンヌさんにとっての福利厚生の担当を兼ねている。また、本来は劇団が行うべきマネジメントもファンクラブが一部を担っている。
そうした奉仕によって劇団の運営が回っていることは、劇団もわかっているはず。
かつて、宝塚歌劇の公演回数は今よりも少なかったという。だが、いまやファンクラブのおかげで公演回数も増やせる。ジェンヌさんの負担がファンクラブによって軽減されているからだ。

私は、宝塚歌劇団からジェンヌさんの一人一人にファンクラブ手当を支給すべきだと思う。常々、妻にはそう提案している。
百余年にわたるジェンヌさんや演出家やスタッフたちの努力によって、無償で奉仕してくれるファンが集う。それはそれで素晴らしいことだ。
だが、劇団がファンの奉仕に甘え、それを黙認し、ファンに寄り掛かった運営に慣れ、依存しているのならば問題だ。
そうした運営体制は、何かのきっかけでファンが離れると全体が崩れるのも早い。
今のうちにきちんと劇団運営の上で贖われている見えない労力を、きちんと費用として支出の対象にしなければ、経営的にもまずいと思う。

ファンクラブのような、金銭に頼らない報酬体系で成り立つ組織。そのような研究対象は、確かに社会学の題材としては貴重だと思う。
そこに着目し、本書に著した著者も素晴らしい。
だからこそ、宝塚歌劇団は、著者のようなファンに感謝こそすれ、それに甘えてはならないと思う。
本書を参考に、ファンと家族に優しい劇団運営を行ってくれれば、私も納得できるのだが。
なんといっても私の郷土の誇りなのだから。

‘2019/02/05-2019/02/08


カテゴリ: 読ん読く.
最終更新日: 4月 16, 2020

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