意欲的な内容である。その前衛的な内容に眩惑され、引き込まれる。

本書は作中作が幾重にも続く構成になっている。とても把握できないくらいに。その階層の数たるや、十層は下らないのではないか。しかも、それぞれの一章一章があるホテルの中庭で起こった事件を取り上げている。同じような情景が、少し視点や視覚、語り手の意識を替えて執拗に反復される。読者が今の立ち位置を把握しながら読み進めるのは至難の業といえる。油断するとすぐに物語の中で迷子になってしまう。

その構成からは、折り紙の入れ子箱が連想される。あるいはロシアの民俗人形として知られるマトリョーシカを。それらは、ある形の立体の内部に同じ形の立体が、その中にはまた同じ形の立体・・・と幾重にも連なっている。それぞれの箱や人形が紙や木でできている場合、内部は、外に対しては閉じた形になっている。持ち上げられて初めて底が開き、その中に抱えていた別の箱や人形が現れる。持ち上げられるまでは閉じた作りになっていて、その中から外を見ることはできない。

しかし、本書の場合、同じ入れ子であってもさらに複雑な構成となっている。入れ子の内壁から、外を見透かすことが出来る作りになっているのだ。自らを覆っていた箱の、さらにその外側の箱のそのまた外側の箱まで、延々と内側から見ることができる。これを本書の構造に当てはめてみると、入れ子になった一章の中から、自らを覆っていた別の章が透けてみえる。さらに別の章は、それを覆う別の章の内容をわずかに透過する。それぞれの章がレストランの中庭で起こった事件を描く。中庭の情景が似た様な視点と角度で描かれ、それが幾重にも透過して重なりあう。重なるだけではなく、そこには本を読み進めた読者の移ろいやすい記憶に歪まされたそれぞれの章の中庭の光景が被さる。その章を覆っていた別の章の情景が素直に映らず、複層のそれぞれの章が歪み、透かされ、凝縮され読者の眼前に迫る仕掛けとなっている。読者の記憶の歪みが増幅され、次第に読者は自分の立ち位置を見失う。

加えて、本書の各章は自分を覆っていたのがどの章か分からないように注意深く書かれている。つまり本の一つ前の章が上の層の章とは限らない。章と章の関係が一対一なのか、一対複なのかすら明かされず、読者はますます立ち位置を見失うばかりである。

救いは、それぞれの章の中は、人称や時制、視点など一貫していることである。つまり、章と章の繋がりを把握できれば、本書の構造は把握できる。

とはいえ、それは簡単ではない。十層以上に積み重なった構造を解きほぐすのは。

そして、このようなこんがらがった物語であっても、著者の筆は中庭の物語を終わらせにかかる。立体図形を解体するための展開図は用意せずに。それどころか、章と章の関係すら示さずに。読者は置き去りにされたように感ずるだろう。割りきれない思いを引きずるだろう。

本書に答えはない。

最後に拡げた風呂敷がきれいに畳まれたり、すべての謎が快刀乱麻を断つがごとく解決されたり、主人公の人生に確固たる指針が示されたり。そんな大団円とは無縁の位置に本書はいる。

著者にとって覚悟のいる書き方である。しかし著者は本書に世に問うた。その意欲と覚悟、そして破綻させずに物語を紡ぎきった手腕には敬服の念すら覚える。

かつて、ラテンアメリカ文学が脚光を浴びた。ガルシア・マルケス、フリオ・コルタサル、マリオ・バルガス・リョサを初めとした各氏。ホセ・ドノソによる「夜のみだらな鳥」という複雑極まりない一冊もある。我が国にも筒井康隆という巨匠や、円城塔といった書き手がいる。いずれも私の敬愛する作家たちである。本書もまた、そういった前衛的な諸作の中で論ぜられてもよいのではないか。そんなことを思った。

‘2014/9/27-2014/10/3


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