本書は、著者の処女短編集だそうだ。

著者は私が好きな作家の一人だ。簡潔な文体でありながら、奇想天外な作品を紡ぎ出すところなど特に。

本書はまだ著者がデビュー前、アルゼンチンで教員をしていた頃に書かれた作品を主に編まれている。

後年に発表された作品ほどではないが、本書からはすでに著者の才気のきらめきが感じられる。

本書に収められた諸編。その誕生の背景は訳者が解説で詳しく記してくださっている。田舎の閉鎖的で垢抜けない環境に閉口した著者が、懸命に作家を目指して励んだ結果。それらが本書に収められた短編だ。

本書は大きく四部に分かれている。最初の三部は「剽窃と翻訳」「ガブリエル・メドラーノの物語」「天文学序説」と名付けられている。各部はそれぞれ四、五編の短編からなっている。そして最後の一部は「短編小説の諸相」と題した著者の講演録だ。著者は短編小説の名手として世界的な名声を得た。そして短編小説を題材に講演できるまでに大成した。この講演は、晩年の著者がとても肩入れしたキューバにおいてなされたという。

著者の習作時代の作品を並べた後で、最後に著者自身が短編小説を語るのが、本書をこのように編集した意図だと思われる。

まずは前半の三部に収められた各編について寸想を記してみたい。

まず最初の「剽窃と翻訳」から。

「吸血鬼の息子」
吸血鬼伝説に想をとっている本編。一般に吸血鬼が描かれる際は、食欲だけが取り上げられる。つまり血液だ。

だが、美女の生き血を欲する欲とは、美女の体を欲する性欲のメタファーではないか。そこに着目しているのが印象に残る。吸血鬼が永遠に近い命を持つからといって性欲を持たなくてよいとの理はないはず。

吸血鬼の子を身ごもったレディ・ヴァンダから、どのような子どもが生まれるのか。それは読者の興味をつなぎとめるにふさわしい。その後、予想もしない形で吸血鬼の息子は誕生する。その予想外の結末が鮮やかな一編。

「大きくなる手」
本編は、本書に収められた13編の中でもっとも分かりやすいと思う。そして、後年の著者が発表したいくつもの名短編を思わせる秀編だ。主人公プラックが自らの詩をけなしたカリーを殴った後、プラックの手が異常に腫れる。その腫れ具合は車に乗せるにも一苦労するほど。

主人公を襲うその超現実的な描写。それが、著者の後年の名編を思わせる。大きくなりすぎた手を持て余すプラックの狼狽はユーモラスで、読者は主人公に待ち受ける出来事に興味を引かれつつ結末へ誘われて行く。そして著者は最期の一文でさらに本編をひっくり返すのだ。その手腕はお見事だ。

「電話して、デリア」
電話というコミュニケーション媒体がまだ充分に機能していた時期に書かれた一編。本書に収められた短編のほとんどは1930年代に書かれているが、本編は1938年に書かれたと記されている。けんかして出て行った恋人から掛かってきた電話。それは要領を得ない内容だった。だが、彼から電話をかけてきたことに感激したデリアは、彼と懸命に会話する。電話を通じて短い応答の応酬がつながってゆく。

結末で、デリアは思いもよらぬ事実を知ることになる。正直言ってその結末は使い古されている。だが、編末でラジオから流れるアナウンサーの話すCM文句。これが、当時には電話がコミュニケーション手段の最先端であった事実を示唆していて時代を感じさせる。著者が今の時代に生きていて、本書を書き直すとすれば、電話のかわりに何を当てるのだろう。

「レミの深い午睡」
本編はなかなか難解だ。自分があらゆる場所あらゆる時代で死刑執行される夢を普段から見る癖のあるレミ。今日もまたその妄想に囚われたまま、レミは午睡から起きる。そしてモレッラのところに連絡するが、何か様子がおかしい。

モレッラのところにはドーソン中尉がいて、銃声と叫び声が響く。執行人は脈をとって死人の死を確認し、立会人は去って行く。果たしてレミは妄想どおり死刑執行されたのか。それともレミが死刑を執行したのか。主体と客体は混然とし、読者は物語の中に惑わされたまま本編を終えることになる。

「パズル」
これまた難解な一編だ。殺人現場において、見事に殺害をし遂げる人物。そして殺害されたラルフを待ち続けるレベッカと主人公「あなた」の兄妹。彼らを尋問して警察が帰った後、二人の間で何が起こったのか問答が続く。

果たしてラルフはどこで殺されたのか。謎が明かされて行く一瞬ごとの驚きと戸惑い。本書は注意深く読まねば誰が誰を殺したのかわからぬままになってしまう。読者の読解力を鍛えるには好都合の短編だ。

続いて第二部にあたる「ガブリエル・メドラーノの物語 」から。

「夜の帰還」
死後の幽体離脱を文学的に取り扱えば本編のようになるだろうか。死して後、自分の体を上から見下ろす体験の異常さ。それだけでなく、主人公は自分を世話してくれていた老婆が自分の死を目にして動転しないよう、死体に戻って自分の体を動かそうと焦る。主人公の焦りは死という現象の不条理さを表しているようで興味深い。

死を客観的に見るとはこういう経験なのかもしれない。

「魔女」
万能の魔女として生きること。それは人のうらやみやねたみを一身に受けることでもある。また。それは自分の欲望を我慢する必要もなく生きられるだけに不幸なのかもしれない。

本編の結末はありがちな結果だともいえる。だが、単に自分の欲望に忠実に生きること。その生き方の果てにはなにがあるのか、ということを寓話的に描いた一編とも言える。抑制を知って初めて、欲望とは充足される。そんな教訓すら読み取ることは可能だ。

「転居」
本編も著者が後年に発表したような短編の奇想に満ちた雰囲気を味わえる。仕事に没頭するライムンドは、ある日突然家が微妙に変化していることに気づく。家人も同じだし家の間取りにも変わりはない。だが、微妙に細部が違うのだ。その戸惑いは会計事務所につとめ、完結した会計の世界に安住するライムンドの心にねじれを産む。

周囲が違えば、人は自らの心を周辺に合わせて折り合いを付ける。そんな人の適応能力に潜む危うさを描いたのが本編だ。

「遠い鏡」
著者が教員をしていた街での出来事。それがメタフィクションの手法で描かれる。ドアの向こうには入れ子のようにもう一つの自分の世界が広がる。

街から逃げ出したくて逃避の機会を探しているはずが、いつの間にか迷い込むのは内面の入れ子の世界。それは鏡よりもたちがわるい。抜け出そうにも抜け出せない。そんな著者の習作時代の焦りのようなものすら感じられる。

続いて第三部にあたる「天文学序説」から。

「天体間対称」
「星の清掃部隊」
「海洋学短講」
この三編は著者が作家としての突破口をSFの分野に探していた時期に書かれたものだろう。そう言われてみれば、著者の奇想とはSFの分野でこそ生かせそうだ。だが、本書に収められた三編はまだ習作のレベルにとどまっている。おそらく著者の文才とは、現実世界の中に裂け目として生じる異質なものを描くことにあるのてばないか。つまり、世界そのものが虚構であれば、著者の作り出す虚構が埋もれてしまい効果を発揮しなくなってしまう。多分著者がSFの世界に進まなかったのはそのためではないかと思う。

「手の休憩所」
こちらは逆に、著者の奇想がうまく生かされた一編だ。体から離れ、自立して動き回る手。その手と共存する日々。手は細工や手遊びに才能を自在に発揮する。しかし私に訪れた妄想、つまり私の片手と動き回る手が手を取り合って逃げてしまうという妄想。それがこの膠着状況に終止符を打ってしまう。

続いては末尾を飾る「短編小説の諸相」
これは、冒頭に書いたとおり、著者の講演を採録したものだ。ここで著者は短編小説の極意を語る。

長編小説と違い、短編小説には緊張感が求められると著者はいう。じわじわと効果を高めていく長編とは違い、効果的かつ鋭利に読者の心に風穴を開けねばならない。それが短編小説なのだという。テーマそのものではなく、いかにして精神的・形式的に圧力をかけ、作品の圧力で時空間を圧縮するか。著者が強調するのは「暗示力」「凝縮性」「緊張感」の三つだ。

この講演の中では、著者が好む短編が挙げられている。それはとても興味深い。ここに収められた講演の内容は何度も読み返すべきなのだろう。含蓄に溢れている。そして、本講演の内容は、おそらく今まで著者のどの作品集にも収められなかったに違いない。私もいずれ、機会を見て本書は所持したいと思っている。

そして確固とした短編の名作を生み出してみたいと思っている。

‘2017/02/21-2017/02/24


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