著者の作品はほとんど読んでいる。どれも壮大なスケールの大きさと、細部まで行き届いた描写がない交ぜになった傑作である。

愛読者にはよく知られていることだが、著者の作品には特定のモチーフが様々に登場する。熊、軽業、レスリング、飛行機、母への思い等々。それらモチーフを小出しにしつつ、壮大な旅路を突飛な挿話の数々と共に歩むのが著者の作品に共通する構成となる。

著者の一連の優れた作品もここ数作は、幼少期より老境に至るまでの人生を大河のように下るような内容となっている。まるで老境に入った著者自身の生を総括するかのように。それらは、遺された作家生活の全てを振り絞り、あらゆる生の有り様を純化して、文章の中に彫り込んだかのように想わされる力作揃いである。

細かいエピソードを集めて一本の筋を作り上げる描写をお手の物とする著者だけに、それら作品では、些細な挿話が主人公の人生を様々に彩る。それら些細なエピソードは、著者が自分自身を事細かに語るかのような細やかさに充ちている。余りのリアルさに、読者によっては、これらの作品は著者自身の自叙伝であると思う向きもあるかもしれない。そう錯覚してもおかしくない。もちろん、全ては著者の創作である。だが、読む人によって作中の想像力に基づいたエピソードと著者個人のエピソードを混同して受け止めることもあり得る。その可能性は避けられないだろう。性的な嗜好や描写満載の本書などは、まさにそのリスクが溢れるばかりに詰まっていると思う。

これは私の推測だが、著者の長い作家生活の中で、そのことを恐れていたのではないだろうか。つまり、作風のエピソードからそのように私生活が勘違いされるリスクを。元々、著者の作品には性的な描写が頻繁に随所に現れていた。が、本書のようにテーマとして前面に出した作品はなかったと思う。だが、本書は性という、ある意味では人間存在の根源へと迫っている。しかも性を生殖の手段として取り上げていない。つまり男と女の関係だけではなく、男と男、性転換、フェティシズムなど、人間のある限り避けては通れない文化の一つとして様々な性の姿を取り上げている。本書は、老境に入った著者が、私生活と本書の内容を混同されるリスクを省みず、畢生の大作のつもりで性を世に問うた一作ではないか。そう思った。

著者の作品にとって筋を追うことはあまり重要でない。というより、本書のように無数に入り組んだ筋を紹介するには、私の文章では心もとない。むしろ筋よりも、章ごとの主人公を取り巻く境遇を説明する方が相応しい。

主人公は発音障害を患う十三才の少年として読者の前に登場する。一緒に暮らすのは、母と母方の祖父母との四人。実父は母によれば「ほかの人とキスしてるのを見ちゃった」ことで別れたことになっている。母は地元劇団のプロンプターをやっており、その劇団には祖父母も俳優として所属しており、祖父は専ら女形を得意とした役者として女装に磨きをかけている。

主人公は町の図書館でミス・フロストに恋をする。それは少年が漠然と抱く憧れにも似た恋心ではない。セックスしたいという、直接的な欲望を伴ったものだ。

本書の語り手は作家として名を成した、七十代にならんとする老境の語り手である。語り手が自分の少年時代から自分の人生を振り返るというのが本書の構成となる。

語り手である主人公は、自らの作家人生の出だしが、ミス・フロストの手解きにあることを述壊する。図書館の司書であるミス・フロストは、少年に読むべき本を指南する。「トム・ジョーンズ」や「嵐が丘」、「ジェーン・エア」などの自分と不適切な相手と恋する話を。ミス・フロストの薦める本は周到になっていて、まずは不適切な相手への恋物語から、そののち、主人公の成長につれて薦める本に工夫を加えてゆく。異性に恋する話だけではなく、同性もその対象に含まれるような話も。上巻は少年が作家となるまでの成長の話でもあるが、自分の性的嗜好を育ててゆく内容にもなっている。そして、主人公がミス・フロストに対する思いを遂げ、クライマックスを見せる。

その間、主人公は地元の寮のある学校(フェイヴォリット・リヴァー)に入り、多感な青春期をすごす。母はその学校の教師であるリチャード・アボットと再婚し、主人公の父役のバトンは祖父から継父へと受け継がれる。ただし主人公は寮生であり、家にいない。そのため、継父が父として主人公に接するのは専ら教師の立場としての教育面に限られる。つまり、情操教育を担うべき父不在のまま、主人公は成長していく。姿を消した実父は第二次大戦の英雄でありながら、「ほかの人とキスしてるのを見ちゃった」ことで母と主人公の前から姿を消し、祖父は劇団で女装姿の似合う祖父として主人公の情操に影響を与える。

上巻では合間を縫って、バイセクシャルとして生きる青年時代の主人公の挿話が挟まれる。時代はまだ1950年代から1960年代に移ろうとする時期。ヒッピー文化の開花にはまだ早い時期である。フラワーチルドレンもまだ時代の先におり、フリーセックスもまだ時代に抑圧されている。古き良きフィフティーズ末期である。そこで主人公はウィーンでの日々を送る。ウィーンもまた、著者お得意のモチーフの一つである。ゲイが市民権を得る前のウィーンの社会状況も豊富に描かれる。ガールフレンドであるエズメラルダとのセックスも経験するが、一方でトップかボトムか、といったゲイ文化にも造詣を深めてゆく。本書においてウィーンという場所設定は、著者が好むモチーフである以前に、主人公の性的成長を遂げる舞台としては、真に相応しく思えた。

著者の作品は、空間と時間を行き来して語るのが特徴的だ。しかし、本書では基本的な時間の流れは、過去から未来への時間として流れている。時間軸を行き来するのは、いくつかの合間に挟まるエピソード紹介のほかは、ウィーンでの挿話だけである。理由は語り手である主人公自身が作中で独白している。バイセクシャルとしての主人公を語る上では、女性との普通のセックスは通っておかねばならないからであろう。本書はいずれの性的嗜好にも属さず、しかもそれで疎外感を覚えることなく老境まで生き延びた男の話なのだから。

ウィーンの挿話は終わり、1963年のウィーンから、再び50年代終盤のヴァーモントへ。

寮生活を送る中、劇団で娘役を祖父から受け継ぐ主人公は、全寮制の学校で閉鎖的な寮の中でエレインというガールフレンドを得る。さらには、年下の少年トムから熱烈な崇拝を浴びる。しかし主人公の恋心は、同じ寮のキトリッジという餓鬼大将的な少年に向く。キトリッジは主人公に色々とちょっかいを掛けてくる。女性的な面を目ざとく発見し、ニンフというあだ名をつけて。エレインとの仲も詮索しては大声でからかいの声を投げつける。それなのに主人公はキトリッジが気になってしまう。そのあたりの同性への思慕の情が、ぎりぎりの曖昧さで描かれる。

性的に早熟な振りをするキトリッジは、結果として主人公とエレインが結ばれ「かける」のに手を貸す。そのくせキトリッジ自身は主人公にとってミステリアスな存在のまま学校生活を送る。エレインはその一夜のことが原因で、主人公との仲を疑われ、離れた学校へと遠ざけられる。しかしエレインとのドタバタの中、エレインのブラジャーは主人公の手元に残り、主人公にフェティシズムの何たるかを間接的に教えることとなる。

主人公は自分がはっきりと恋する対象がエレインではなく、キトリッジであることに気付く。そしてその告白をミス・フロストに告げる中、とうとうミス・フロストと結ばれることになる。ミス・フロストが本当は男であることに気付かぬまま。そしてその場を祖父に見つかってしまい、一方で、母によってエレインのブラジャーは切り刻まれてしまう。このあたりの流れは、ややこしいが、様々なメタファーや布石があちこちに置かれていて、実に興味深い。それらは全て主人公の性的嗜好の成長にとって欠けることのできないピースとなり、下巻で効果を発揮する。

上巻の終わりまでに、主人公を巡る性的冒険の布石はほぼ撒かれ尽した。読者はすでに主人公がバイセクシャルの作家であることを知っている。このあと、下巻では上巻で撒かれた多数の布石が著者の手によって拾い集められてゆく。いかにしてバイセクシャルの作家は、人生を生き延びたか、について。

‘2014/11/28-2014/12/6


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