乃木希典将軍の生きざまは令和に生きる私たちに教えてくれる。太平洋戦争で負ける前にはまだかろうじて残されていた、武士道のあり方を。
新渡戸稲造博士が西洋人向けに書いた「BUSHIDO」。明治の世に新興国日本の精神を世界に紹介したこの本の存在も今や忘れ去られてしまった。
BUSHIDOが世界に知られたのと反比例するように、西洋文明を急速に吸収しつつあったわが国においては、殉死という習慣は廃れていった。文明開化の名のもとに。
文明開化の旗印は、殉死を封建の時代の旧弊であると捨て去った。近代化を進める国において殉死など野蛮な習慣になった、はずだった。

ところが、明治の御代の象徴であった明治天皇が死に際し、乃木将軍はその死に殉じるかのように自らの人生に幕をひいた。
その際、奥さまもともに死を選んでいる。
乃木将軍の精神はいかなる環境のもとで育まれたのか。または養われたのか。
殉死を選んだ時の乃木将軍の心中はいかばかりか。

著者は明治のわが国の精神を『坂の上の雲』の中で描いた。
『坂の上の雲』においても、乃木将軍は日露戦争における最大の激戦としてしられる旅順攻略の中で重要な役割を果たしている。
旅順攻略までの苦戦に次ぐ苦戦。激甚な死者を出した二百三高地の占領。それらの全てを第三軍の大将である乃木希典は背負った。
沈痛な顔をして苦戦の責任を背負う乃木将軍を著者は糾弾せず、かわりに参謀の無能をののしっている。

その不器用な軍人らしからぬ振る舞いは、著者が『坂の上の雲』を書く上で強い印象を残したのだろう。
本書は二百三高地や旅順での乃木将軍の行動も描きながら、殉死を選ぶまでに至った乃木将軍の心中をあぶりだそうとしている。

そもそも『坂の上の雲』において乃木将軍の姿は複雑な陰影をもって描かれている。そこには、著者が乃木将軍に抱くさまざまな思いが反映されていると思われる。
著者は旅順の戦いや二百三高地の戦いにおいて、参謀の伊地知大佐にあらゆる無能を擦りつけるような描き方をしている。だが、乃木将軍に対しても礼賛するようには描いていない。どっしりとして不動の乃木大将の姿を沈着であると好意を含んだ解釈も可能であるにもかかわらず。
著者の書く乃木像には、決断力に欠け、軍人として不適格ではないか、と暗に書いているようにすら読める。
旅順攻略の苦戦の責任は司令官である乃木将軍に帰すべきなのは明確だ。それは分かっていながらも、著者はどこか乃木将軍を人間として愛すべき人物とみなしているように読める。

そもそも本書は、著者にとって小説として書かれなかったという。それどころか当初は作品としても考えていなかったらしい。
著者はただ、乃木将軍の人物を見定め、分析したかった。そのために書いた文章が本書の形になったという。
「著者はこの書きものを、小説として書くのではなく小説以前の、いわば自分自身の思考をたしかめてみるといったふうの、そういうつもりで書く。」(14ページ)

乃木将軍を取り上げて描いている以上、当然、本書は乃木将軍の生い立ちや軍人を志したいきさつについても触れる。
そもそも乃木将軍が残した遺書には、西南戦争時に熊本城で軍旗を賊軍に奪われたことへの深い反省と悔悟によるととれることが書かれていた。
本書は軍旗を奪われた戦いの展開や、終戦後に陸軍が乃木希典に対してとった措置などにも触れている。それによると陸軍に若き乃木希典を糾弾する意図はなく、むしろその忠節の鏡ともいうべき責任感をよしとしていたとも書いている。

ところが乃木将軍は、軍旗を奪われた屈辱の反動だったのか、西南戦争後に結婚したにもかかわらず、酒色に明け暮れる毎日を送っていた。
そんなところに命じられたドイツへの留学が乃木希典の態度を一変させる。プロイセン流の軍人としてのあり方に急激に感化され、謹厳かつ寡黙な軍人としての生き方に目ざめる。
帰国してからの将軍は、寝る時すら軍服を脱がなかったようだ。プロイセンで生じた変も著者は分析し、殉死に至るまでの乃木将軍の心中を慮ろうとする。

軍人の鏡ともいうべき普段の立ち居振る舞いが明治天皇に気に入られ、それが当初予定されていなかった日露戦争での第三軍司令官への抜擢につながった。
そして、その抜擢があまたの死者を生み、乃木将軍の軍人としての資質を疑わせたことは言うまでもない。

本書が私にとって勉強になったのは陽明学についての分析だ。
陽明学はもともと、中国の宋で王陽明が創始したという。
だが、日本の歴史にも何度か陽明学が影響を与えている。
陽明学の思想は封建思想を強化するが、それが極端な信奉者を生む傾向にあった。自分の身を犠牲にすることもをいとわない思想。
例えば山鹿素行。この人物も陽明学の徒だったが、後年赤穂藩に召し抱えられたという。その教えが赤穂浪士の忠烈なる振る舞いに影響を与えた。江戸末期の大塩平八郎もまた陽明学の学徒だったそうだ。庶民を守る理想に殉じるため、幕府の役人としての地位を捨てて幕府に反逆した行いは大塩平八郎の乱として知られている。
幕末には吉田松陰とその叔父である玉木文之進にも影響を与えた陽明学。吉田松陰が黒船に密航しようとまで思いつめた行動の背後にも陽明学の影が見える。そして、乃木将軍も玉木文之進の門下生であり、その影響を強く受けている。

乃木将軍の行動の原理には、玉木からの思想の強い影響があった。
その素地があったところに西南戦争で軍旗を奪われた。そして、旅順の戦いでは明治天皇の期待通りに応えられなかった。そうした出来事によって自責の念が高じ、さらにそこに忠義をささげる相手となる明治天皇が崩御したことが、乃木将軍をますます追い詰めていったこと。想像に難くない。

本書は、可能な限り明治天皇が亡くなってから乃木将軍が殉死に至るまでの行動が記されている。
乃木将軍が自死を選ぶまでの行動において、なぜ奥さまの静子さんが一緒に死ぬことになったのか。それについても、著者は想像も交えながら可能な限り再現しようと試みている。

私は今まで静子夫人は明治の女性らしく、夫の決めたことに従順に従ったため一緒に亡くなったのだと思っていた。
ところが、著者によれば、静子夫人には当初は殉死の意思がなかったという。
それが偶然やその場の空気によって、夫婦でともに死ぬことになったと推察している。いわば犠牲者なのだ。

本書を読み、乃木将軍に興味がわく。
もちろん私は、殉死という営みの全てを肯定するつもりはない。
だが、今から100年少し前まで、日本の戦国時代の精神をメラメラと伝え続けた人物がいた。その事実は、陸軍のその後の運命も含め、考えておくべきことだと思う。
これからのわが国を見据えていくためにも。

‘2019/10/1-2019/10/2


カテゴリ: 読ん読く.
最終更新日: 1月 22, 2021

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