本書は著者の「継母礼賛」の続編にあたる。不覚にも私がそのことを知ったのは本編を読み終えてから。訳者によるあと書き解説で知ることになった。本編でも読者承前を踏まえたような書き方がしてあり、私はそれを著者一流の自在に読者を迷わせる迷宮的な手法と早合点しながら読み終えていた。読み終えてから本書に前編があった事を知り、肩透かしを食らった思いだ。

著者の作品は見かける度に図書館で借りて読んでいる。とはいえ、図書館で巡り会えなければ古本屋での出逢いを待つしかない。大手書店のラテンアメリカ文学コーナーにはよく立ち寄るのだが、価格が高くなかなか手が出ない。そんな訳で、「継母礼賛」を未読のまま、先に本書を読み終えてしまった次第だ。

とはいえ、「継母礼賛」を読まずに本書を読んだからといって、本書を楽しめなかったわけではない。先に、読者承前を前提とした本編の記述を著者一流の手法と早合点したと書いた。私の場合は、本書の前段を知らぬままに本書を読んだことで、スリルと想像が増す効果があった。

本来、読み手にとって無限の解釈を許すのが優れた文学作品ともいえる。その伝で言えば、前段がなくても本編だけで読者に解釈を許す本書はまさに手本とも云える。仮に「継母礼賛」を読んだ後に本書を読んだとすれば、また別の感想を抱いたかも知れないが。

本書には、ドン・リゴベルトの手帖というサブタイトルがついている。リゴベルトとは、ルクレシアの夫である。前作「継母礼賛」で義理の息子である美少年フォンチートと過ちをおかしたのがルクレシアだ。本書では、前作の結末で引き離された(と思われる)ルクレシアとフォンチートとリゴベルトが、愛と官能を通じて再び交わる。

義理の母と犯した罪の意識をどこかに置いてきたようなフォンチートが、突然ルクレシアの元を訪れることから本書は始まる。天使と悪魔の両方の資質を備えたフォンチートの天真爛漫な振る舞いに、ルクレシアは翻弄される。しかしながらも、夫リゴベルトへの貞淑を貫く。この辺りは前作での駆け引きがどうだったか分からないのだが、想像するに駆け引きの結果過ちを犯したルクレシアが、一点して貞淑な自らを貫くといった対比が想像できる。是非前作を読んでみたいと思う。

本書の合間に挿入されるリゴベルトの妄想では、美しき妻ルクレシアは、様々な性の冒険を楽しむ。そのあたり、虚実がない交ぜとなった描写は著者の真骨頂といえる。前作において妻に裏切られた形となったリゴベルトは、倒錯的な感情に身を任せるまま、妻を背徳の極みに置き、それでいてなお美しい妻を崇拝し、手帖の中で性の冒険を続けさせる。

果たして、妻と夫、義理の息子は再び分かり会えるのだろうか。読者の興味は尽きない。そして読者は興味の赴くままに本書のめくるめく官能の世界の味わうことになる。加えて前作を読んでいない私にとっては、ルクレシアとフォンチートがどのような過ちを犯し、何故三人が離れ離れになったのかという興味が尽きず、著者のマジックに浸り続けたまま本書を読了出来た。

本書には様々な性の冒険が描かれている。しかし、決して下世話なポルノ紛いの内容ではない。むしろ、女性の神秘を解き明かすためには性は不可欠と考える著者の思想すら感じられる。

本書の随所には、ドン・リゴベルトの妄想だけでなく、衒学的な芸術論が挿入されている。例えばある箇所ではスポーツ礼賛の風潮を攻撃し、争いの結果に一喜一憂することの愚かさに苦言を呈する。別の場所では、ポルノ的なあらゆるものを人間の官能の可能性を貶める害あるものとして熾烈に攻撃する。

著者は本書で、官能とは肉体の運動や姿勢でなく、精神のあり方であることを語っている。例えドン・リゴベルトが妄想の中で妻を乱交やレズや不貞やフェティシズムやスワッピングに耽らせようとも、実際のルクレシアは、一時の過ちを悔いる貞淑な妻であり続ける。

仮にルクレシアがその様な不倫行為に身を堕としたら、本書はドン・リゴベルトの唾棄するポルノに堕ちてしまう。官能の神秘とはあくまでも精神世界の中で高められなければならない。それが著者の主張だ。本書においてはドン・リゴベルトの手帖の中での独白として、他の衒学的な芸術と同一のものとして官能が置かれる。つまり、官能の神秘を欲望に塗れさせてはならない、という著者の思想が垣間見えるのが本書だ。そういった著者の思想に依った形でのルクレシアとリゴベルトの間を通る官能と貞淑の綱引きが本書を文学作品としての高みに押し上げている。

本書のカバーにはエゴン・シーレの絵画が配されている。フォンチートが性的に魅せられているのは、エゴン・シーレの生き方そのものである。本書に登場するフォンチートは、その二面性をもってルクレシアを誘惑する。性的な締め付けが今とは格段に厳しいハプスブルグ王朝支配下のウィーン。その地その時代にあってなお、放埓な性と放縱な人生をしか生きられなかったエゴン・シーレの人生にルクレシアは官能の精神性を見る。そしてエゴン・シーレの化身ともいえるフォンチートに対するに貞淑という鎧をまとい、俗な過ちに溺れず精神的な官能の高みに居続けるルクレシア。官能というものを俗に落とさず精神的な高みに持ちあげ続ける緊張関係こそが、著者にとって重要であることは、ここでも明らかになっている。一時は過ちをおかしたとはいえ、ルクレシアはフォンチートが天性に持つ女たらしの魅力に耐え、再び夫ドン・リゴベルトとの愛に戻る。

その再会のシーンで、ドン・リゴベルトがみっともなく頼りない一面を晒す。しかし、本書に込めた著者の主張から推し量るに、官能を現し導く主体は男性ではなく、女性であるはず。ポルノ的=男性視点の快楽が貶められる本書では、ドン・リゴベルトの抱く妄想は妄想で終わらねばならない。それ故にドン・リゴベルトはヒーローであってはならない。ドン・リゴベルトの演じる醜態を、著者はそのような暗喩を込めて描いたのだと思う。そこに女性に媚びるフェミニズムを見るのはおそらく正しくない。フェミニズムとは男性視点の裏返しに過ぎない。真の官能とは、表層の観念的なところにあるのではなく、もっと根元的な精神の奥深くに横たわっている。著者が本書の中で主張したい思想を、私はそう受け取った。

もっとも、この感想は「継母礼賛」を読むと変わるかも知れない。「継母礼賛」という題からは、私が上に書いたような著者の意図が伺える。とはいえ、そこにはもう一段深い仕掛けが隠されているかもしれない。「継母礼賛」を読んでみないことには、私の本書から読み取った考えもまた、著者の仕掛けた周到な罠に陥り、穿った妄想でしかない可能性もある。

かつての私は、図書館にない本はすぐに取り寄せ依頼をしていた。今はなき西宮中央図書館で。私の考えが思い違いでないことを確かめるためにも、あの頃のように取り寄せをお願いし、なるべく早く読んでみようと思う。「継母礼賛」を。

‘2015/5/22-2015/5/30


One thought on “官能の夢―ドン・リゴベルトの手帖

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