「血脈」を読んで以来、著者に注目している。そんな中、著者の本「九十歳。何がめでたい」がベストセラーになった。93歳にしてすごいことだと思う。

「血脈」は波乱に満ちた佐藤一族を描いており、その舞台の一つは昭和初期の甲子園だ。私が「血脈」を読み始めたのも、私の実家から歩いてすぐの場所に著者の実家があったからだ。ところがまだ著者のエッセイは読んだことがなかった。初めて著者のエッセイを手に取るにあたり、タイトルで選んだのが本書。それは、著者がその頃の甲子園の風俗を知っているはず、というもくろみもあった。私が生まれ育った地の昔が、本書から少しでも感じられたら、と思って本書を読み始めた。

本書は今の時代から消え去った当時の文物を章ごとに取り上げている。そのどれもが私にとって博物館でしかみたことのない品であり、小説の中でしか出会ったことのない言葉だ。本書に登場する風物や風俗は、現代では日々の生活に登場することはまずない。これほど多くの品々が時代の流れに抗えず消えてしまった。そのことに今更ながらに感慨を受ける。

著者はそうした物たちが当時どのように使われていたかを紹介する。そして、著者の記憶に残るそれらが、今どうなったかをエッセイ風に書く。そこには著者の持つユーモアがあふれている。かつての物が失われたことを諦めつつ、それは時の流れゆえ、仕方がないと達観する潔さ。孫娘に過去を説いても無駄だとあきらめながらもつい昔語りをしたくなる性。そうしたユーモアが感じられるのが本書を読ませる内容にしている。

本書で取り上げられる習俗には、いわゆる下ネタに属するものもある。夜這いとか腎虚とか花柳病とか。そうしたネタを扱うことも著者にとってはお手の物。そうした感傷からは突き抜けた境地に達しているのだろう。佐藤一族の無頼と放蕩を見聞きしてきた著者には。

むしろ、そういう営みこそ人間の生を如実に表していると考えている節がある。多分、著者にとって現代の世の営みとは、不愛想で血が通っていない。そのように考えているのではないだろうか。昔への愛着と今の世にあふれる品々への物足りなさ。そうした愛憎も込めて、著者は昔のモノを取り上げたのだと思う。

あらゆるものが一新され、時の流れに消えていく今。「モッタイナイ」という美徳が言われる一方で、ダイソーやセリアやキャン・ドゥには安価で便利でカラフルで清潔そうな製品が並ぶ。だが、一つ一つの品の耐用年数は少なく、愛着をおぼえる暇もない。

本書に登場する言葉。それらの言葉を取り巻く時間の歩みは遅い。それとは逆に、今の時代は急流のように時間が過ぎ去ってゆく。流れる時間は皆に等しいはずなのに、主観だけで考えると時間の進み方が違うような錯覚を抱いてしまう。それは時代のせいではなく、読者の私が年をとっただけなのは確実なのだが。

私もあと30年ほどすれば、ダイヤル式の電話や、テレホンカード、竹馬やコマを題材にエッセイを書くかもしれない。多分、その時に感ずる懐かしさは著者の比ではないだろう。なぜなら、遠からず私たちはアナログからデジタルへの移行よりもっと凄まじい変革を潜り抜けているはずだからだ。

その時、情報量の増加率は今とは比べ物にならないだろう。本書で取り上げられる文物が現役だった昭和初期に比べると、今の情報量はレベルが違う。だが、近い将来に見込まれる情報量の爆発は、今をはるかに凌駕するに違いない。その時、私たちの世界はもっと顕著に変わっていることが予想される。その時、今の風俗の多くは情報の海の底に埋もれてしまっている。だからこそ私たちの世代、インターネットが勃興した時期と社会人になったのが同じ世代の私たちが、未来に向けて風俗や事物を書き残さなければならないのだろう。著者のように。

だが、私には記憶力がない。著者は作家を父に持つだけに、エピソードや使われ方の大まかをつかみ、それを記憶している。さらにはそれを文筆に表す力を持っている。実にうらやましい。

私は常々、エッセイとブログの違いは微妙にあると考えている。その違いは物の本質を把握し、印象的な言葉で読者に提示できる力の差だと思っている。エッセイとは、その微妙な差によって今の世相を映し出す記録として残されるべきだと思っている。たとえ、後世の研究者にしか読まれないとしても。その微妙な時代の空気を文章に残すからこそ、プロの作家たるゆえんがあるのだろう。

‘2018/03/14-2018/03/14


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