鉄道ファンを称して「鉄ちゃん」という。その中にはさらに細分化されたカテゴリーがあり、乗り鉄、撮り鉄、線路鉄、音鉄などのさまざまなジャンルに分かれるらしい。私の場合、駅が好きなので駅鉄と名乗ることにしている。なぜなら私はさまざまな地域を旅し、その地の駅を訪れるのが好きだからだ。

駅はその土地の玄関口だ。訪問客にその地の文化や風土をアピールする役目を担っている。設置されてからの年月を駅はその土地の音を聞き、匂いを嗅ぎ、景色を見、温度や湿度を感じることに費やしてきた。駅が存在した年月は土地が培って来た歴史の一部でもある。土地の時空の一部となる事で駅は風土の雰囲気を身にまとう。そして土地になじんでゆく。

駅とは人々が通り過ぎ、待ち合わせるための場所だ。駅に求められる機能の本質はそこに尽きる。馬から列車へ人々の移動手段が変わっても駅の本質はブレない。行き交う人々を見守る本質をおろそかにしなかったことで、駅はその土地の栄枯盛衰を今に伝える語り手となった。

駅が本質を保ち続けたことは、車を相手とした道の駅と対照的な方向へ駅を歩ませることになった。物販や産地紹介に資源を割かず、あくまでも玄関口としての駅を全うする。その姿勢こそが私を駅に立ち寄らせる。駅とは本来、旅人の玄関口でよい。駅本屋をその土地のシンボルでかたどったデザイン駅も良いが、見た目は二の次三の次で十分。外見はシンプルでも駅の本質を揺るがせにせず、その地の歴史や文化を芯から体現する。そんな駅がいい。そうした駅に私は惹かれる。

ただし、駅にはいろいろある。ローカル駅から大ターミナルまで。大ターミナルは、その利用客の多さから何度も改修を重ねなければ立ちいかない。そしてその都度、過去の重みをどこかへ脱ぎ捨ててきた。それは大ターミナルの宿命であり、だからこそ私を惹きつけない。何度も改修を重ねてきた駅は、いくら見た目が立派でもどこか軽々しさを感じさせる。とくに、常に工事中でせわしさを感じる駅に対してはまったく興味がもてない。本書の主人公である横浜駅などは特にそう。私は何度となく横浜駅を利用するがいまだに好きになれない。

横浜駅はあまりにも広い。まるで利用客に全容を把握されることを厭うかのように。地下を縦横に侵食するPORTAやザ・ダイヤモンド。空を覆う高島屋やそごうやルミネやJOINUS。駅前を首都高が囲み、コンコースにはゆとりが感じられない。横浜駅のどこにも「横浜」を感じさせる場所はなく、旅人が憩いを感じる遊びの空間もない。ビジネスと日常が利用客の動きとなって奔流をなし、その流れを埋めるように工事中の覆いが点在する。いくら崎陽軒の売店があろうと、赤い靴はいてた女の子像があろうと、横浜駅で「横浜」を探すことは容易ではない。私が二十数年前、初めて関西から鈍行列車で降り立ち、友人と合流したのがまさに横浜駅。その日は港の見える丘公園や中華街やベイブリッジに連れて行ってもらったが、横浜駅に対してはなんの感慨も湧かなかった。そして、今、仕事や待ち合わせなどで日常的に使っていても感慨が湧き出たことはない。

私が横浜駅に魅力を感じないのは、戦後、急激に開発された駅だからなのか。駅前が高速道路とビルとデパートに囲まれている様子は急ごしらえの印象を一層強める。今もなお、せわしなく改造と改良と改修に明け暮れ、落ち着きをどこかに忘れてしまった駅。横浜駅の悪口を書くのはそれぐらいにするが、なぜか私は横浜駅に対して昔から居心地の悪さを感じ続けている。多分、私は横浜駅に不安を覚えているのだろう。私の把握を許さず、漠然と広がる横浜駅に。

そんな私の目にららぽーと横浜の紀伊国屋書店で平積みになっている本書が飛び込んできた。そしてつい、手にとって購入した。横浜駅が好きになれないからこそ本書のタイトルは目に刺さる。しかもタイトルにSFと付け加えられている。SFとはなんだろう。科学で味付けされたウソ。つまりそのウソで横浜駅を根底から覆してくれるのでは、と思わせる。さらには私が横浜駅に対して抱く負の感情を本書が取り除いてくれるのでは、との期待すら抱かせる。

本書で描かれる横浜駅は自立し、さらに自我を持つ。そのアイデアは面白い。本書が取り上げるのが新宿駅でも渋谷駅でもなく横浜駅なのだからなおさら興味深い。なぜ横浜駅が主人公に選ばれたのか。それを考えるだけで脳が刺激される。

知ってのとおり、横浜駅はいつ終わるともしれないリニューアル工事の真っ最中だ。新宿駅や渋谷駅でも同様の光景がみられる。ところが渋谷駅は谷あいにあるため膨張には限度がある。新宿駅も駅の周囲に散らばる都庁や中央公園や御苑や歌舞伎町が駅に侵食されることを許すまい。東京駅も大阪駅も同じ。ところが横浜駅には海がある。みなとみらい地区や駅の浜側に広がる広大な空間。その空間の広がりはそごうやタカシマヤや首都高に囲まれているにもかかわらず、横浜駅に膨張の余地を与えている。横浜駅の周囲に広がる空間は他の大ターミナルには見られない。強いて言うなら品川駅や神戸駅が近いだろうか。だが、この両駅の工事は一段落している。だからこそ本書の主役は横浜駅であるべきなのだ。

ただでさえつかみどころがない横浜駅。それなのに横浜駅の自我は満ち足りることなく増殖し膨張する。そんな横浜駅の不気味な本質を著者は小説の設定に仕立て上げた。不条理であり不気味な駅。それを誰もが知る横浜駅になぞらえたことが本書の肝だ。

自我を持つ構造体=駅。それは今の人工知能の考えそのままだ。自立を突き詰めたあまり人間の制御の及ばなくなった知性の脅威。それは人工知能に警鐘を鳴らす識者の論ではおなじみのテーマだ。本書に登場する横浜駅もそう。人の統制の網から自立し、自己防衛と自己複製と自己膨張に腐心する。人工知能に自己の膨張を制御する機構を組み込まなければ際限なくロジックに沿って膨張し、ついには宇宙を埋め尽くすだろう。人工知能の危険に警鐘を鳴らす文脈の中でよくいわれることだ。本書の横浜駅もまさにそう。横浜市や神奈川県や関東どころか、日本を蹂躙しようと領域を増やし続ける。

本書は駅の膨張性の他にもう一つ駅の属性を取り上げている。それは排他性だ。駅には外界と駅を遮断するシンボルとなるものがある。言うまでもなく自動改札だ。自動改札はよくよく考えるとユニークな存在だ。家やビルの扉はいったん閉ざされると外界と内を隔てる壁と一体化する。一度閉まった扉は侵入者を排除する攻撃的な印象が薄れるのだ。ところが自動改札は違う。改札の向こう側が見えていながら、不正な入場者を警告音とフラップドアによってこれ見よがしに締め出す。そこには排除の意図があからさまに表れている。自動改札は駅だけでなく一部のオフィスビルにも設けられている。だが、普通に生活を送っていれば自動改札に出くわすのは駅のほかはない。自動改札とは駅が内部を統制し、外界を排除する象徴なのだ。そして、自動改札はローカル駅にはない。大規模駅だけがこれ見よがしの排他性を持つ。それこそが、私が大規模駅を好きになれない理由の一つだと思う。

駅の膨張性と排他性に着目し、同時に描いた著者。その着眼の鋭さは素晴らしい。本書で惜しいのは、後半に物語の舞台が横浜駅を飛び出した後の展開だ。物語は日本を数カ所に割拠する駅構造体同士の争いにフォーカスをあわせる。その設定は今の分割されたJRを思わせる。ところが、横浜駅に対立する存在を外界の複数のJRにしてしまったことで、横浜駅に敵対する対象がぼやけてしまったように思うのだ。横浜駅に対立するのは外界だけでよかったはず。その対立物を複数のJRに設定したことで、駅の本質が何かという本書の焦点がずれてしまった。それは駅の特異さ、不条理さという本書の着眼点のユニークさすら危うくしたと思う。

駅が構造を増殖するのは人工物を通してであり、自然物ではその増殖に歯止めがかかるとの設定も良い。横浜駅の中を結ぶ情報ネットをスイカネットと名付けたのも面白い。日本を割拠するJRとの設定もよい。本書のいたるところに駅の本質に切り込んだネタがちりばめられており、駅が好きな私には面白い。鉄ちゃんではなく、本書はSFファンにとってお勧めできる内容だ。ところがSF的な展開に移った後半、駅に関する考察が顧みられなくなってしまったのだ。それは本書の虚構の面白さを少し損ねた。それが私には惜しい。

むしろ、本書は駅の本質を突き詰めたほうがより面白くなったと思う。まだまだ駅の本質には探るべき対象が眠っているはずだ。本書に登場する改札ロボットの存在がどことなくユーモラスであるだけに、その不条理さを追うだけで本書は一つの世界観として成り立ったと思う。だからこそ、条件が合致する横浜駅に特化し、駅の閉鎖性や不条理性を突き詰めていった方が良かった。多分、読者にも読みごたえがぐっと増したはず。その上で続編として各地のJR間の抗争を描いてもよかったと思う。短編でも中編でもよい。ところが少し急ぎすぎて一冊にすべての物語を詰め込んでしまい、焦点がぼやけた。それが惜しまれる。

ともあれ、本書をきっかけに私が横浜駅に抱く感情のありかが明確になった。それは本書から得た収穫だ。私は引き続き、各地の駅をめぐる旅を続けるつもりだ。そして駅の本質が何かを探し求めて行こうと思う。今まではあまり興味を持っていなかった大ターミナルの構造も含めて。

‘2017/05/12-2017/05/13


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