本書の帯にはこう書かれている。「我が最高傑作にしておそらく最後の長編」

本書が著者の最高傑作かどうかは、書き手と読み手の主観の問題だ。私にとって著者の傑作短篇はいくつも脳裏に浮かぶ。が、長編の最高傑作と言われてもすぐには選べない。だが一つだけ確かにいえるのは、本書が著者の思索の到達点であることだ。

作品の舞台を全くの異世界に置き、異世界を訪れた人類が認識のギャップに右往左往する様を描いたSF的手法から始まった著者の作家生活。著者の文学的冒険は、読み手と書き手の世界を客観的に描写するメタ手法へと進む。さらに認識や現象の本質に迫る哲学的な作品まで。著者の扱うテーマはどんどんと進化を遂げてきた。

そして本書だ。

本書で著者は、あらゆる存在の創造主を登場させる。地球や地球の属する宇宙よりもさらに上のレベルの枠組みを創造した存在。人間が思い浮かべる神よりももっと先の超越した「それ」。「それ」が本書に出てくる創造者だ。

ある目的があって人間の体を借りた創造者は、人々の過去や正体をこともなげに当ててゆく。おりしも、街には片腕と片足だけが突如現れる事件が起こり、物騒な雰囲気が漂っている。創造者はあえて自分を公衆の目に晒す。創造主の目的は、本稿では書かない。だが、本書を掌る役目なのは創造者だ。そして創造者は著者の分身となって物語を自在に進行させる。

本書で圧巻なのは創造者と人々の対話シーンだろう。いや、対話とは言いすぎか。人々と創造者が対等なはずがないからだ。そのシーンでは人々が創造者に問い掛け、創造者がそれに答える。その様子は師と弟子の問答のよう。人々が創造者に問いたいことは様々だ。検事が、クリスチャンが、哲学者が、サラリーマンが、弁護士が、科学評論家が、経営者が、政治評論家が、それぞれの悩みを創造者に問う。

彼らの問いは、彼ら自身にとっては切実なものだ。創造者はそれらの問いを造作なくさばいてゆく。創造者にとっては取るに足りない問いといわんばかりに。多分、82歳の著者にとってもそれらの問いの多くは取るに足りないものなのだと思う。そして、本書に登場する問いからは、著者の関心分野も読み取れて興味深い。ちなみに問いの中には宗教間の争いも、科学技術の行く末や、環境問題の解決法についても登場する。ところが、国際政治、特に日中韓の関係について問いかけようとする人物はいるが、その質問者はすぐに退場させられる。本書で取り上げられる他の問題に比べれば、国と国の間の関係はあまり大したことではない、という著者の考えが垣間見える。国際政治に関する著者のスタンスがうかがえて興味深い。

さらに本書を読んで感じたのは集合知の未熟だ。本書を読んでいると、ITがもたらしたはずの集合知が人々の切実な問いに答えられない事実を痛感する。知恵袋やOK waveといったQAサイトはあるが、それらのサイト内で人々の悩みに答えるのは他の回答者。つまり人力だ。哲学的な問題や科学技術の問題もそう。ITがそれらの問題に回答できる日が来るのはいつの日だろうか。今のITに期待される知恵とは、ビッグデータの集積から導き出される人工知能による回答をさす。だが、今のITに蓄積されつつある集合知とは、人間の知恵の延長線上にある。つまり今の段階ではITは神にはなり得ていないのだ。

そして著者はSF的な設定手法を本書に持ち込みつつも、技術論や科学論の袋小路に入り込んむ過ちを犯さない。しかもそれでいて難解な人間存在のあり方について分かりやすく説く。SFにはこういうアプローチもあるのだと感心させられた。

思索の内容といい、アプローチの手法といい、本書は著者の思索の到達点だ。その思索の成果を創造者の口を借りて語ったのが本書だ。だからこそ、著者をして最高傑作と言わせたのだろう。私も本書を著者の代表作の一つに推したい。ただ著者のファンとしては、ここまでの高みに登ってからの作家活動が気になる。可能ならばあと一編は著者の長編を読みたいものだ。そんな願いを抱きつつ、著者のブログ「偽文士日録」をチェックしよう。

‘2017/03/17-2017/03/17


コメントを残して頂けると嬉しいです

読ん読くの全投稿一覧