著者の作品を読むのは『テンペスト』以来久しぶりとなる。
テンペスト 上 レビュー
テンペスト 下 レビュー

なぜ4年も遠ざかっていた著者の作品を読もうと思ったか。それは、著者の作品に魔術的リアリズムがあるとの評を見掛けたためだ。先日、寺尾氏の『魔術的リアリズム』を読み、深い感銘を受けた (レビュー)。それを契機に改めて魔術的リアリズムの系譜に連なる我が国の作品を探してみた。すると、著者の作品が引っかかって来た。

そう言われて初めて『テンペスト』にも魔術的リアリズムを思わせる描写があった事を思い出した。 ただ、初めて触れた著者作品 『テンペスト』 の全てに好印象を抱いた訳ではない。沖縄の歴史を細かく、そして大胆に描く構成は良かった。だが、地の文と遊離したせりふのわざとらしいポップさはいささか鼻に付いた。『テンペスト』には今から思うと魔術的リアリズムの魅力が詰まっていたように思う。だが、不自然さを感じさせる文体を欠点として目をやってしまい、そういった作品の魅力的な側面を見逃していた。それもあって、著者の他の作品に食指が動かなかった。

本書は4年ぶりに読む著者作品となる。本書を読むにあたっては、魔術的リアリズムの描写に注目しながら読み進めた。

本書は琉球舞踊の組踊を取り上げている。玉城朝薫によって創始された琉球舞踊。芸術としての琉球舞踊が真に成立したのは、玉城朝薫の才能によるところが多いという。そして朝薫が活躍した時期、琉球王朝には蔡温という名宰相が、琉球国の基盤を作ろうとしていた。18世紀の頃だ。

清の朝貢国でありながら薩摩藩に侵略された琉球国。それによって清と徳川幕府の二重属国の立場に甘んじていた。そんな祖国を真に独立した国として、さらには世界の中心として輝かせたい。蔡温の野望は大きい。蔡温、朝薫の二人とも、目指すのは琉球の存在意義を周辺国に向け打ち立てることだ。それには清にも大和にも負けない琉球国の威厳を豊饒な文化によって示す。豊饒な文化とは、歌舞音曲によって評価されることが多い。つまり、琉球に独自の歌舞音曲である、組踊を創始すればよい。玉城朝薫は、組踊を創始した偉大な才能である。だが、いくら歌と踊りが創作されても、それらは演者がいてこそ。その踊りの体現者こそが、本書の主人公である蘇了泉であり、そのライバル雲胡である。本書では了泉と雲胡が切磋琢磨しながら踊りの粋を極めていく姿が描かれる。

本書にも『テンペスト』で鼻に付いた誇張されたせりふ回しは健在だった。このせりふ回しによって、主人公が発するせりふが地の文の流れから浮いてしまう。その浮き加減をコミカルで漫画的な読みやすさとして評価する方もいるだろう。が、やはり私にとっては気になった。

とはいえ、本書からは『テンペスト』で感じたようなセリフと血の文の浮き沈みが感じられなかった。本書において、蘇了泉の心は静から動へ幾度も浮き沈みを繰り返す。それは躁鬱とすら思わせるほどの起伏だ。確かに、躁状態の蘇了泉が発するせりふは地の文から浮いて走り回っていた。だが、低いテンションの時のせりふ回しは地の文に足が着いていたといえる。その時、物語のテンポと主人公の心の動きは見事に一致していた。テンションが高い時は、主人公の高揚や躁的な気分を表していると思えば納得して読み進められた。

一方、本書にちりばめられた魔術的リアリズムの手法も確かめた。まだ幾分、躁状態のせりふ回しには 落ち着かなさを感じた。とはいえ、 全体的にはとても効果的に魔術的リアリズムの手法が使われていたと思う。了泉の跳躍が少しずつ空へと飛翔するかのような描写。江戸への琉球使節団団長の御歳130歳の妖怪のような姿。彼の部屋はカビが覆い、床は腐って抜け落ち、少年を歪んだ性の欲望として漁る。そして全く気配を悟らせぬ江戸の瓦版屋の銀次。彼はどこでも神出鬼没に現れる特技の持ち主。彼らの描かれ方は、誇張が与える劇的な効果を確実に本書にもたらしていたと思う。そして本書でもっとも魔術的リアリズムが感じられた描写といえば、了泉と雲胡の踊りだ。二人が舞台で演ずる舞踊は人々を観客席から違う世界へといざなってゆく。 彼らの踊りが人に与える様の描写は、魔術的リアリズムの本分を発揮していたといえるだろう。

寺尾隆吉氏の著書によれば、魔術的リアリズムの定義とは「 非日常的視点を基盤に一つの共同体を作り上げ、そこから現実世界を新たな目で捉え直す」ことだという。ここでいう共同体を本書に移し替えれば琉球の人々が該当するはずだ。また、リアリズムとは、江戸幕府と清の間で二重朝貢を余儀なくされる琉球の現実のこととらえてよいだろう。琉球の存在意義を、独自の文化、特に独自の舞踊に託そうとする思い。琉球が背負う地政の宿命と、そこから次の世界へと琉球を導こうとする朝薫や蔡温の生き方は、リアリズムと呼ぶに値する。そんなリアリズムをしっかりと描きながら、真摯な舞踊が与える感動を、現実から逸脱した描写で描き出す手法は、確かに本書に効果を与えていた。

本書の中には人々のつづる漢文詩や、ウチナーンチュ(琉球語)による美しい歌詞が随所に登場する。それらは、大陸文化と大和文化が交わり、独自の進化を遂げた琉球文化の豊かさを存分に意識させる。そんな文化的土壌をしっかりと描きつつ、その成果として、組踊の持つ果てしない可能性をしっかりと語っているのが本書の魅力なのだ。

本書を読み終えて一年後、私は沖縄の地を22年ぶりに訪れた。その際、沖縄第一の聖地として知る人ぞ知る斎場御嶽にも訪れた。なぜ私が斎場御嶽を訪れようと思ったか。その答えの一端は本書の中にある。

踊りの魅力を文章で現す。それは実際のところ、至難の業ではないだろうか。音楽と動きの融合芸術である舞踊は、単に文章に落とし込むだけではその魅力は伝わらない。しかし、本書はそんな難問の答えに限りなく近づいているように思える。本書で描かれた組踊の奥深さや魅力は、私のような踊りの門外漢にもしっかりと伝わった。そればかりか、踊りを描くには魔術的リアリズムの描写こそ最適であることも知った。芸術や芸能を描いた作品として、本書の名前は忘れないだろう。私の中でしっかりと刻み付けられたのだから。

琉球の地理的な位置。華やかな宮廷生活とさげすまれるニンブチャーという身分の人々の現実。そういった琉球の光と影を描き出し、そこに踊りのあでやかな描写で彩った本書は、沖縄を描いた傑作といえる。私は著者が『テンペスト』に描いた沖縄よりも、本書で描かれた沖縄にこそ惹かれる。22年ぶりの沖縄訪問にあたっては、本書で知った組踊にも少しは触れたかった。だが、時間がそれを許さなかった。次回の訪問時にはぜひ組踊を鑑賞してみようと思う。

‘2016/07/11-2016/07/15


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