東京ドームに併設されている野球体育博物館。私が毎日通っても飽きないと断言できる博物館の一つだ。だが、忙しさのあまり、なかなか訪れる暇がない。本書を読み終えた時点では、最後に訪れてから10年以上経っており、生涯でも二三度しか訪問できていなかった。

数年前、当時後楽園に本社のあったサイボウズ社でのイベントで後楽園を訪れたことがあった。その帰り、野球体育博物館を訪問したのだが、閉館時刻に間に合わず涙を呑んだ。その時、館内に入れないのならせめて一目見ようと探し回ったのが鎮魂の碑。その時点で私はまだ一度も鎮魂の碑を観たことがなかった。にもかかわらず、その時は鎮魂の碑を見つけられず退散した。

小学校三、四年生の頃から野球史を読むのが好きで、大人向けの野球史の書物を読んでいた私。戦前の野球人についての記事を読むと必ず出てくるのが戦没の文字だ。子供心にも、その言葉には志半ばで奪われた命の無念のようなものを感じていた。沢村栄治、景浦将、吉原正喜、嶋清一、楠本保。子供の私にとって、それら戦没野球人は特別な存在だった。子供の頃の私が意識した初めての戦争犠牲者とは、戦没野球人のことだったように思う。それもあって、一度は鎮魂の碑は見たいと思っていた。

本書は、それら戦没野球人を列伝式に取り上げている。

「新富卯三郎」「景浦将」「沢村栄治」「吉原正喜」「嶋清一」「林安夫」「石丸進一」
本書で取り上げられているのはこちらの七名。いずれも戦前のプロ野球選手であり、戦没して靖国神社の祭神となっている。

それぞれの章では、中等野球や大学、プロ野球と故人の関わりに筆を費やしている。そして、戦中の消息と分かっている限りの最期の瞬間を描き出している。これは各章に共通する構成だ。

本書で取り上げられた戦没野球人のうち、「新富卯三郎」はかろうじて名前を記憶していた程度。球歴やその死に様など詳細な事実を知ったのは本書を読んでの事だ。また「林安夫」は凄まじいまでのシーズン登板回数で名前を知っていた。だが、最期の様子は本書を読むまで知らなかった。

「景浦将」「沢村栄治」「吉原正喜」「嶋清一」については私が子どもの頃からすでに伝説の人々。その無念さは子供の私にもつたわっていた。後年、書かれた記事や書籍のいくつかは読んだことがある。でも、本書を通して初めて知ったこともある。「沢村栄治」の師匠が巨人の往年のエースだった中村稔氏の師匠と同じであるエピソードは聞いたことがあった。が、巨人・中日で活躍した西本聖投手のフォームが「沢村栄治」の師匠を通して中村稔氏から伝授された事は本書を読んで初めて知った。テレビや野球カードでも西本氏の豪快な足をあげるフォームはおなじみだったが、それが沢村氏のあのフォームに由来を持っているとは知らなかった。

「石丸進一」については、実は伝記本を持っている。なので、最期のキャッチボールなどの逸話についても知っていた。

知っていた方も知らなかった事も含め、なぜ戦没野球人の逸話は人を惹きつけるものを持っているのだろう。それは多分、好きなものを戦争にうばわれた、という真っ直ぐな悲しみが伝わって来るからではないだろうか。戦争に命を奪われた人は、当たり前だが戦没野球人以外にもたくさんいる。出征して異国の地に眠り、靖国神社の祭神と祀られている人。核分裂の熱線に一瞬で妬かれた人。機銃掃射や焼夷弾に貫かれ焼かれた人。いずれも不条理な死を余儀なくされた。それらの犠牲者と戦没野球人を差別化するのが愚かな事はもちろんだ。それらの戦没者の方々にも好きな人やスポーツ、物事はあったはずだ。でも、戦没野球人を描いた文章からは好きな野球を奪われた無念がストレートに迫ってきたのだ。多分、子供の頃の私にはより一層強烈に焼き付けられた。

殺される、という悲劇にはさまざまな想いがついてまわる。妻や子や親にとってみれば親しい人が喪われた悲しみがあるはずだ。では、殺された当人にとってみればどうだろう。多分、殺される瞬間の恐怖もあるだろう。だが、それよりも自らが殺されることで、自分の一切の可能性が閉ざされる事、そして、したいと思っていた事が未来永劫できなくなる。その理不尽さへの無念ではないだろうか。

彼ら戦没野球人達が打ち込んだ野球。それは、今の我々が野球に対してもつ重みとは明らかに違う。彼らが打ち込んだ野球とは、野球害毒論として新聞紙上で公然と非難される野球であり、卑しい職業として風当たりの強かった職業野球の野球であり、敵性スポーツとして軍部から睨まれた野球なのだ。そんな野球への風潮をモノともせずに野球に打ち込んだ彼らがだからこそ、好きな野球を戦争に奪われたとの無念さが我々にも迫って来るのではないだろうか。

著者もおそらくは同じ思いを持っているのではないか。著者は私と同じ年でもあり、興味の向きも似ていることから、密かに注目しているノンフィクションライターである。以前にも『昭和十七年の夏 幻の甲子園―戦時下の球児たち』を読み、レビューを書いた。

本作もまた、私の心にビシッとハマる一作だ。著者のノンフィクションは私の心に訴える何かがある。

本書を読んで一ヶ月後、私は衝動を抑えられず、野球体育博物館を訪れた。もちろん、鎮魂の碑にも。その前でしばしたたずみ、好きな事を戦争で諦めざるをえなかった彼らに思いを馳せた。彼らは、物言わぬまま名前だけを私の前にさらしている。おそらく、戦没野球人達の名前は鎮魂の碑によって永らく残されることだろう。だが、彼らの事績は名前だけではない。本書で書かれたような、それぞれの青春や希望や人生、そして草創期の野球に捧げたという事実も忘れずにいたいものだ。

‘2016/01/12-2016/01/14


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