本作を見たのは、3月29日に公開されてから5日後だった。私にしてはとても早い。

本作はそれほどまでに観たかった。クリストファー・ノーラン監督が原爆をテーマにした映画を手がけると言うニュースを聞いた時から、必ず見に行こうと決めていた。

ところが本作は、原爆を投下されたわが国の国民感情に配慮したからだろうか、日本公開が遅れに遅れた。

まず、その点から取り上げてみる。
結論を言うと、本作から日本人を貶めるような描写はほとんど感じられなかった。

敢えて私の心をざわつかせたシーンを挙げるとすれば、それは巨大な核爆発の様子が描かれるトリニティ実験のシーンではない。
広島と長崎に原爆が投下された後、ロスアラモスの職員たちに対してオッペンハイマーが壇上から挨拶するシーンと、トルーマン大統領に謁見するシーンは、人によっては心穏やかでいられないだろうと感じた。

後者のシーンでは、落とした本人が広島に言及するが、長崎を忘れ、オッペンハイマーから補足される。
トルーマン大統領は自分の手は血塗られていると言ったオッペンハイマーのセリフに不快感を示し、泣き虫を二度と呼ぶなと言う捨て台詞を吐く。
このように、オッペンハイマーは、彼なりに被害者の痛みを想像し、その痛みに精一杯共感しようとしている。

その感受性は、壇上から挨拶するシーンでも遺憾なく発揮される。
足元に炭化した遺体の幻影を見いだし、自分に歓声を送る人々が最大輝度まで白くなり、顔の皮膚がめくれるイメージが眼前にちらつく。観客の発する地響きはオッペンハイマーの視野を揺らし、精神も合わせて揺れ動く。
オッペンハイマーが感じた強烈な罪の意識が描写される。

広島に投下されて33日後の記録映像をみんなで見るシーンでは、オッペンハイマーはそこから画面から目を背ける。

無邪気に喜ぶ人々の心情は、戦勝国の国民の態度としては、至極真っ当だろう。だが日本人としては心穏やかに見られない人がいるのは分かる。
日本で公開が遅れた理由は、これらのシーンが日本人の国民感情を逆なでするとの懸念があったのだろう。

ただ、喜ぶアメリカの人々の描写に比べ、オッペンハイマーの態度は日本人にとっては被害者感情に共感してもらえたように感じた。
本作を見ていると、アメリカ人向けの映画と言うよりも、日本人向けに描かれたのではないかとすら思える。
なぜ日本向けに公開が遅れたのか、判断に苦しむところである。

私が自分のこととして本作から興味深く受け取ったメッセージとは、冷静であることと人々を導くリーダーシップの両立についてだ。
オッペンハイマーがマンハッタン計画の実現にあたり、類まれなる能力を発揮した事は誰もが認めることだろう。
そのリーダーシップの源がどこから来ているのかに深く興味を持った。オッペンハイマーが頭脳明晰である事は確かだが、頭脳が明晰であることとリーダーシップの間には直接の関係は無いはずだ。

むしろ本作では、その冷静な仮面の裏にあるオッペンハイマーの人間としての部分をあえてさらけだそうとしたかに思える。

例えば、本作はR15に指定されている。
最初の恋人であるジーン・タトロックとセックスに及ぶシーンが何度か描かれる。上半身裸で抱き合う2人。ジーンの胸もさらされる。ベッドの上で、そして聴聞会の面々の中で二人が裸で抱き合うイメージも挿入される。
理論で武装する科学者としての性分。明晰であることが求められるとともに、多くの技術者を束ねて目標にまい進させるリーダーシップを兼ね備えたオッペンハイマー。それだけを打ち出せば、オッペンハイマーを描いたことにはならない。人間としてのオッペンハイマーをさらけだすには、スーツ姿のオッペンハイマーから服を脱がせるしかない。さらには性交にふけるオッペンハイマーを描くべき。そう判断したのだろう。
聴聞会に呼ばれた妻のキティが、人間として汚されていくと吐き捨てるようにオッペンハイマーに言ったのは、まさにこの点だろう。

そうした人間的な面を引きずりながら、それでも類まれなリーダーシップを発揮したことは、私個人が精進すべき課題として、とても強く印象に残った。

本作を見るにあたり、私は予備知識なしで劇場に臨んだ。
もちろん、水爆の父として知られるエドワード・テラーとマンハッタン計画の中から既に対立が生じ、オッペンハイマーが実際の水爆開発に反対することで、さらにテラーとの対立を深めたことも知っていた。共産主義との関係を疑われ、晩年は死の直前に名誉回復されるまで、不遇の生涯を送ったことも知っていた。もちろん、「我は死なり、世界の破壊者なり」というバガヴァッド・ギータ―の一説を唱えたことも。

しかし、私は本作で見るまで知らなかったことがいくつもあった。ジーン・タトロックの事も知らなかったし、妻のキティについてもあまり知らなかった。さらに本作で重要な人物として描かれるルイス・ストローズとの対立についてはほとんど知らなかった。もちろん。ストローズについても初めて知った。

本作は、オッペンハイマーの視点で書かれたシーンはすべてカラー。そして、ストローズの視点から描かれたシーンは全てモノクロで描かれている。
分かりやすい例でいうと、陽の当たるところにいたのがオッペンハイマーで、日陰にいたのがストローズという構図である。
核を知らない人類の歴史を鮮やかに描き、禁断の兵器を知ってしまった人類の罪をモノクロで描いたという解釈もできる。また、オッペンハイマー自身の個人史で栄光に満ちた時代をカラーで、汚辱にまみれた時代をモノクロにしたという解釈も可能だ。
だが、私としては以下の解釈を採りたい。
それは、ストローズが何度かセリフで言っているように、真理を理解した明晰な技術者の見える世界と、庶民が見る世界の解像度の差、という解釈だ。

本作で描かれるストローズとは、庶民としての劣等感に苛まれる存在だ。
ストローズの被害妄想が対立のきっかけであるような描写が冒頭に提示される。プリンストン高等研究所におけるオッペンハイマーとアインシュタインとの会話にストローズが全く排除されたように思えたこと。そこで二人の間に交わされた会話については最後の方で明かされる。
そのような些細な出来事が対立の種となったこと。さらにオッペンハイマーが名声を得ていながら、ストローズが推し進める水爆開発に反対するオッペンハイマーに対する劣等感が亢進する。
そこから私たちが受け止めるべきメッセージは、技術者としての職務や理論を突き詰めていけばいくほど、孤高になり、孤独になっていき、そして誤解される宿命だ。

それは技術者として、経営者として私自身が自らの振る舞いを顧みるきっかけにもなった。
もちろん、私はお客様に対しては可能な限り、技術の内容をわかりやすく伝えるようにしている。
だが提案側の仲間に対して、どこまで私の考えや理論を分かりやすく伝えているのだろうか。私の考えや技術面のノウハウがどこかで浮いていないだろうか。きちんと説明を尽くしているのだろうか。
そこが手抜かりがあると、オッペンハイマーのように孤独な晩年になってしまいかねない。
私もその辺は気をつけなければと肝に銘じた。

本作は、音響や視覚効果に関してはとても良い。映画館で見るべき映画として製作されている。
私が見たのは通常のスクリーンだが、本作はIMAXで見た方が良いはずだ。家のテレビやスマホでは本作の良さは十分に伝わらないと断言できる。
特に音響だ。爆発シーンの音響もそうだが、全体的に本作は音響が観客に映像を抜きにした原爆の恐怖感を与える効果を生んでいる。
本作は三つまたは四つの異なる時代のシーンが並行で切り替わる。素早く切り替わるシーンの背後に、観客を追い立てるような音響が流れることにより、原爆の恐ろしさを観客に想像させる効果を狙っているのだろう。
上にも書いた通り、本作には原爆による被災映像は断片的なイメージしか投影されない。だが、被災状況の映像など、いくらでもウェブで見られるし、その映像を超えた何かを出すことに意味はない。
むしろ監督が企図したのは、この音響とシーンの断片的な繰り返しが観客を追い立て、観客自らがそれぞれの恐怖を創造するようにしているのだろう。

もう一つ、監督が企図した観客に伝えたかった恐怖がある。
それは人工知能、AIだ。
そもそも、なぜ今、オッペンハイマーを描いたのだろうか。それは、神に近づいた人物を描く必要に迫られたからだ。
今、世界中で神に近づこうとする人物が無数にいる。AIという神を。

この当時、原爆開発は国にしかできなかった巨大プロジェクトだ。
組織が構築され、予算が承認され、責任者も設けられていた。責任の所在がはっきりしたプロジェクトだった。そのシンボルこそがオッペンハイマーだった。
だが、今のAI開発競争においてオッペンハイマーはいない。国ですらない。複数の企業がそれぞれ独自にAIを開発し、日々目覚ましい成果を挙げているはずだ。もはやその流れを押しとどめる事は不可能だろう。
押しとどめることが不可能である以前に、そもそもAIが何ができるかの臨界点すら誰にも制御できない状況になっている。
神に近づく人々が無数に現れ、さらには全く技術に詳しくない一般人ですら、AIを使って神の域に近づくことができる。
そんな時代になっている。

オッペンハイマーのように神に近づいた人物は、人間に貶められ、苦汁をなめさせられた。羽ばたこうとして墜落死したイカロスのように。
しかし、AIを使って神に近づきつつある多くの人物は、スケープゴートにもされることもなく、晒し者にされることもない。

本作が私たちにとって重要なのは、技術の限界を抑える者がもはやいないと言う恐怖を示しているからではないだろうか。
本作の映像の切り替わるスピードと追い立てられるかのような音響は、今の人類を取り巻く変化の速さであり、人類がトリニティ実験の成功によって得た進歩という名の地獄とは違った、さらにおそるべき未来を暗示しているように思えた。

今、どこかの国を壊滅させるには、原爆など不要である。テクノロジーとデータの力で十分なのだから。

‘2024/4/2 TOHOシネマズ日本橋


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