八雲シリーズが佳境に入り、著者も展開に苦慮していると思われる。

最新刊である「心霊探偵八雲9 救いの魂」は、八雲シリーズの終焉が間近であると思わされる。著者を世に出し、人気作家としたシリーズをこのまま終わらせてしまうのか。おそらくは著者も編集者も悩んでいることだろう。何とかして終わりの時期を先延ばしできないだろうか。本書はそういった葛藤の末に産まれたと思われる。八雲の本シリーズを終わらせる前に、スピンオフを出して時間を稼ぐ。本書を意地悪くみれば、そういう見方もできる。

だが、そういった見方は脇に置いておこう。

本書は八雲シリーズのスピンオフ作品ではなく、独立した小説として見るべきだ。赤眼で幽霊が見えるという八雲に通ずる設定もこの際眼をつぶろう。

そうして読むと実は本書の優れた面が見えてくる。著者が書き手として優れているのは読みやすさ。これに尽きる。文体や語り口が滑らかで突っかからず、実にするすると読める。本書においてもそれは健在である。もっともあえて言うとその長所が短所にもつながるのだが。つまり、会話文が流暢すぎるあまり、内容が頭に残りにくいのだ。赤川次郎氏や伊坂幸太郎氏にも通ずるのだが、会話文の達人に共通する欠点だといえる。

著者の会話文の旨さや場面転換の巧さは、映画学校卒という著者の経歴にも通ずるのだろうか。地の文をあまり使わず、段落を短か目にして出来るだけ会話文だけで話を進めるスタイルは、本書をあっと言う間に読ませてしまう。

本書は三編からなっている。いずれも町人の八十八が町で怪異に出会い、それを憑き物落としの達人に頼むという筋立てだ。当初は名のない憑き物落としの達人だが、八十八によって浮雲と名付けられ、以降それを通り名とする。幕末を舞台とし、主要な脇役には後年新撰組で名を売り五稜郭で戦死するあの方も登場する。

本書であえて欠点を探すとすれば、憑き物落としという浮雲の設定だ。憑き物落としと聞くと、あるキャラたちにどうしてもかぶってしまう。そう、京極堂シリーズの登場人物達に。浮雲の憑き物落としという職業は中禅寺秋彦こと京極堂のそれだ。幽霊が見えるという設定は榎木津礼二郎の専売特許と言ってもいい。キャラ立ちシリーズとして確固たる地位を築いている京極堂シリーズに真っ向勝負を挑むのだろうか。八雲シリーズでは能力こそ京極堂のそれを意識していたが、憑き物落としという職業まではかぶせていなかった。が、本書ではそれすらガチンコでぶつけ、京極堂シリーズにあえて勝負を挑んでいるように思える。その志やよし、といったところか。

だが、京極堂シリーズには本書にはない骨格がある。それは、妖怪や民俗学という世界観だ。八雲シリーズや本書にはまだそれに匹敵する柱がない。そもそも京極堂シリーズに登場するあの膨大なウンチクの嵐が紛れ込んだ途端、著者の武器である読み易さが大きく損なわれてしまうことは確実だ。さて、どうするか。

妻が著者のファンである。おそらくは今後も新刊が出るたび購入することだろう。私もそのたびに読むと思う。どういった方向性を打ちだしてゆくか、とても楽しみにしていきたいと思っている。

‘2015/04/21-2015/04/22


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