日本を太平洋戦争に突入させたのは軍部。こういった認識が主流となって久しい。しかし、私の理解では非難されるべきは軍部だけではない。マスコミによる煽動も同じく日本を敗戦に陥れた元凶だと思う。同時に、その煽動に安易に乗せられた大衆にも責任の一端はあるだろう。開戦それ自体に追い込まれたのはアメリカによる謀略があったにせよ。

だが、それによって軍の責任が軽くなることはない。道行く人々に「太平洋戦争では陸軍と海軍どちらの責任が重いとお考えですか?」とインタビューしてみる。すると、陸軍と答える人が大半だと思う。満州事変から盧溝橋事件に至るまで陸軍に引き起こされた謀略の数々。それらきっかけが日本を戦争の泥沼に引きずり込んだ事は誰にも否定できないだろう。

しかし、陸軍だけにすべての責任を追っかぶせるのは酷だ。海軍にも敗戦の責任の一端はあると思う。例えば、五・十五事件で犬養首相を暗殺したのは海軍将校達だ。そして、太平洋戦争の開戦にあたってもそう。海軍は真珠湾攻撃の実行を担っただけではない。実際と違う保有軍事力の情報が海軍軍令部の一部軍人の策謀によって中央に流され、その誤った情報をもとに開戦が決断され敗戦へと至ったのだから。これは保阪正康氏の著作に書かれていたことだ。だが、陸軍の主戦派の多くがA級戦犯として刑場に消えたのに対し、絞首刑を宣告された海軍関係者はいない。海軍の中で戦争に日本を引きずり込んだ黒幕達は裁かれることなく戦後を生きた。

結果として海軍の名誉はほぼ無傷で保たれたといってもよい。それは日独伊三国同盟に強硬に反対した米内、山本、井上の三大将の功績もあるだろう。しかし、それだけではない。海軍の名誉は、海軍の負のイメージを一身に背負ったまま、多くを語らず自刃した人物のおかげで保たれたのかもしれない。その人物こそ、本書の主人公である大西瀧治郎中将である。

実際のところ、海軍はついていた。真珠湾攻撃は、開戦通告直後に攻撃開始されるように計画しており、騙し討ちと糾弾されてもおかしくないぎりぎりの作戦だった。ところが在ワシントンの日本大使館が開戦通告文書を渡すことに手間どり攻撃後に通告することになってしまった。その結果、真珠湾攻撃の道義的責任は外務省の失態として評価が定まりつつある。また、真珠湾攻撃を立案した山本五十六元帥は、戦死して国葬されたことで東京裁判での訴追を逃れた。そして海軍による特攻戦術は、特攻の父とされる大西中将が全ての悪名を背負ったまま何も語らず死んだ事で、特攻の全てをあたかも大西中将個人が発案したかのように思われている。結果として海軍の名誉は保たれたわけだ。

大西中将は、特攻の父としての悪名を一身に負わされたといってもよい。狂気の仮面をかぶせられ、スケープゴートに仕立てられ。映画「日本の一番長い日」の中でも、大西中将はエキセントリックな雰囲気をまとった徹底抗戦派としてほんの少しだけ登場する。

「日本の一番長い日」のクライマックスが阿南陸軍大臣の自刃である事は多くの方に理解してもらえると思う。阿南大臣の自刃は陸軍の暴走を鎮め、宮城事件程度の小規模な反乱だけで武装解除は進んだ。阿南大臣の身の処し方は見事であり、永く世に伝えられるべき潔さだと思う。しかし、阿南大臣の自死の翌日に大西中将が自刃したことは、「日本の一番長い日」では全く触れられていない。しかし、大西中将の自刃がなければ、海軍内でも暴走があったかもしれない。

本書は、著者による聞き書きをもとにして編まれている。そもそも特攻とは何か。大西中将の実像とはいかなるものだったのか。

特攻の発想が生まれた経緯。そもそも特攻戦術を発案したのは大西中将ではなかったこと。大西中将がフィリピンに着任して特攻戦術の責任者として任命される前から、特攻戦術はすでに幾度も提案され試作機も作られていたこと。大西中将のフィリピン着任が、太平洋戦争で最後に残された戦局挽回の好機だったレイテ沖海戦の前だったこと。栗田艦隊のレイテ湾突入に際し、敵空母の甲板を使用不能にするため、特攻戦術の発動が要請されたこと。

それらの事実を著者は掘り起こす。丹念に関係者から聞き取ることで特攻や大西中将の実像を浮き彫りにする。中でも戦時中、大西中将の副官として仕えた門司親徳氏と、特攻の戦果を見届けるのが役目の直掩機に長く搭乗し続けた角田和男氏からはかなりの時間をかけてお話を伺ったようだ。戦後60年以上の時間をへて、そこまでの聞き取りができたのはどうしてか。それは、お二方とも特攻について戦後ずっと考え続けていたから。その探求の成果は、お二方のそれぞれの著作として形になっている。角田氏は「修羅の翼」、門司氏は「空と海の涯で」。

自身の体験を追想するだけでなく、より深く特攻の意味を考え抜く。特攻戦術とは何か、大西中将の真意はどこにあったのか。著作を出してもなお、お二方の探求は終わらなかったようだ。そして時を経るにつれ、特攻の父と称される大西中将への誹謗は増し、エキセントリックなイメージが独り歩きする。お二方はそのことをとても残念に思っていたのだろう。そんな折の著者のインタビューは、彼らが考え続けた想いを吐露するまたとないタイミングだったのだろう。特攻戦術の責任者としての立場にありながらも人の情を備えて続けていたかに見える大西中将が、後世これほどの悪名を被らねばならなかったのは何故か。角田氏と門司氏の生涯の課題が、著者のインタビューによって引き出され、明らかになっていくさまはスリリングですらある。

大西中将の副官の立場から見た大西中将。特攻隊長の立場から見た大西中将。大西中将の実像とは、エキセントリックなイメージとは違い、戦地にあっても暖かみが感じられる人間的なものだったそうだ。逆に、中将配下の二人の現場司令官には明らかな精神の変調が見られたという。そういった指揮官たちの言動は、本書に詳しく書かれている。門司氏が大西中将から聞いた特攻作戦が「統率の外道」であることや、特攻を命じた中将自身の自責の念を目撃する様子など。そういった様子からは、大西中将の真意がわれわれの大西中将に対して持つイメージと大きく違うことが感じられる。ただ、大西中将がフィリピン着任後、特攻戦術の実施を司令官に命じた現場に門司氏は出席しなかったようだ。そのため、どういう口調で大西中将が作戦命令を発したかは門司氏も著者も想像で補うしかなかったようだ。

大西中将の悪名はどの言動で定まったのか。本書や他の戦史を読む限りでは、大西中将が敗戦が濃厚になってもなお徹底交戦を唱え続け、果てには「二千万の将兵が特攻すべき」と主張し続けたことに理由がありそうだ。確かにその言葉はエキセントリックだし、後の世から誤解されても仕方ないところはある。

だが本書を読む限りでは、大西中将がそのような言動に走ったのは内地に戻ってからのようだ。特攻の責任者であったフィリピンでの在任時は、お二方の記憶からは温厚で情のある中将でいた様子が伺える。

ではなぜ。

ここに、本書が到達した独自の結論がある。少なくとも私は本書でそのことを初めて知った。つまり、大西中将が考えていた意志とは、フィリピンの戦いで太平洋戦争に終止符を打つ、ということだ。「戦争はもはや、搭乗員自らが敵機に突入せねばならないところまできています。陛下、どうか戦争終結の御聖断を!」というのが大西中将の真意ではなかったかと著者はいう。

しかし、皮肉にも使える特攻機が出払ってしまい、刀折れ矢尽きたフィリピンからはこれ以上の特攻機が出せなくなる。大西中将の真意は中央に届かぬまま、終戦へのきっかけをつかめぬままにずるずると負け戦は続く。沖縄戦でも戦艦大和による特攻航海しか策のない戦局。しかしそれでも戦争終結への道は見えない。

そこで本土へと戻った大西中将は、昭和天皇が御聖断を下せないのは、まだ軍が戦争をやり尽くせていないからだ、とエキセントリックに「二千万を特攻へ」と叫び続けた。これが本書で著者の行き着いた大西中将の真意であり、角田氏と門司氏の見た大西中将の実像なのだろう。

とても興味深い観点であり、大西中将の温厚な実像とエキセントリックな言動の釣り合いを取りうる説得力のある説だと思う。

大西中将の遺書は靖国神社遊就館に展示されている。門司氏はこの覚悟が定まった遺書はいったいいつ書かれたのか、についての考察も重ねたという。

聖断が下る御前会議直前にいたってもなお、激烈に戦争継続を訴えては、温厚な米内大臣に大声で説教されていた大西中将。本書ではその説教すらも米内大臣と大西中将の間で演じられた腹芸ではないかとの説も紹介している。そして、遺書は最後の御前会議から閉め出された大西中将が、本来なら出席していた会議の時間を使って書いた、というのが門司氏の説だ。その遺書は、終戦への聖断が下ることが確実になり、ようやくエキセントリックな抗戦派の仮面を脱いだ大西中将の真意が表れている、と門司氏は解釈する。

ここまで書いて思い出すのは、冒頭にも書いた阿南陸軍大臣だ。陸軍の暴走を命掛けの腹芸と自らの死で抑えきった死にざまと大西中将のそれは、どこか通ずるところはないか。

ところが、先に述べた「日本の一番長い日」での大西中将の扱いは、阿南大臣とは正反対だ。「日本の一番長い日」の著者である半藤氏には責任はないが、本書をもって大西中将の実像がより理解されることを望まずにはいられない。今のまま誤解され、海軍の汚名を一身に被らせたままではあまりにも気の毒だから。

本書は、戦後の大西中将の奥さまが慰霊と謝罪に徹した余生の様子や、門司氏と角田氏が慰霊する日々、そして少しずつ世を去って行く特攻隊関係者の消息を描き続ける。

長命を全うし、大西中将の真意を考え続けた門司氏は、平成20年8月16日に逝去する。奇しくもその命日は平成と昭和で年号が違うだけで大西中将の命日だ。まさに出来すぎた物語のような最期である。が、大西中将の人柄や誤解されたままの真意を世に正しく知って欲しいと願った門司氏が、命を掛けてたどり着いた目標だったとすれば、見事である。

‘2016/01/26-2016/01/30


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