滝が好きな長井氏は竹林は好きじゃない。けれども、竹林の幽玄な感じには惹かれる。竹それ自体にはそれほど惹かれないのに。でも、滝を好む長井氏は「たけ」と「たき」という一文字の違いに親近感を感じる。気がつけばいつの間にやら滝から竹の愛好家に宗旨替えし、何食わぬ顔で竹林の魅力を語り始めるかもしれない。

きっと長井氏は本書の中で登美彦氏が幾度も訪れる洛西、桂の竹林には行ったことがないはずだ。でも、嵯峨野々宮神社の竹の小径などには惹かれるらしい。同じ京都だから、野々宮神社の竹も本書に登場する鍵屋家の竹も似たようなものだろう。で、行ったら行ったでコロっとその魅力にとり付かれるのだ。そして竹林に分け入っては本書の登美彦氏や明石氏のようにあり余る余暇をのこぎりを振り回すことで費やすに違いない。なんといっても長井氏の良いところは常にアンテナ全開、他人からの感化も辞さないことにあるのだから。

長井氏はいわゆる雇われ人ではない。零細ながらも会社を持っているし、法人化する前は個人で事業を9年の長きにわたり営んでいる。仕事をよそ様から恵んでいただく立場だ。そしていったん仕事を請けるとそちらを優先するしかない。そんなところも登美彦氏のなりわいに相通ずるものがある。なので、長井氏には登美彦氏が竹に惹かれる気持ちがとてもよくわかる。そして登美彦氏が竹伐採をしたくてもできない多忙の理由も理解できるのだ。要するに長井氏は、本書に書かれた登美彦氏の竹をめぐる日々を読み、とても共感してしまったのだ。

登美彦氏は作家としての己に限界を予感し、作家も多角化経営すべし、と竹林経営に舵を切る。多角化経営。それは、若者を惑わす危険なまたたび。

登美彦氏がその誘惑にふらふらと揺られたように、長井氏も若かりしころ、その陥穽に落ちた。だが違うのは職種だ。登美彦氏は竹林経営を文章に起こせばそれが日々の糧として報われる。長井氏の場合、いくら滝で己を清冽に磨きたてようが何もない。成果をブログを書いたところで登美彦氏のように報われない。登美彦氏がモリミ・バンブー・カンパニーを立ち上げたように、竹をネタに商いを営めないのが情報屋の宿命だ。長井氏の営みの中で滝や竹のビッグデータを集めてみても、誰も見向きもしないだろう。せいぜいがオ「タク」的な感性と「タカ」望みの欲望と満たすため、指にキーボード「タコ」を作るくらいが関の山。無理やり結びつけてみても「タキ」にも「タケ」にも無縁なのがつらい。

長井氏は悟る。そしてうらやむ。登美彦氏の作家としての宇宙の広がりを。竹への探究心を竹林経営に結びつけられるだけのことはある、農学部で竹を研究したその素養を。何よりも無理やり文章を紡ぎだせる文才を。日々の営みを客観的に登美彦氏の営みとして書きかえられる視野の広さを。それらは長井氏にとってとうてい及ばぬ高みだ。

長井氏も本稿のようなレビューをあれこれ書いている。が、まだまだだ。でも長井氏は思うのだ。己が登美彦氏にたどり着けるとすれば、己の好奇心と無鉄砲さではないか。それを突破口とすれば、なんとかなるのではないか、と。竹林で薮蚊と戦い、竹をぶった切り、たけのこを掘る行いに楽しみを見いだせる心のありよう。それは長井氏だって似たり寄ったりなのでは。そんなかすかな望みを頼りに、長井氏は今日も仕事と文章を書くことに精を出す。いつの日か桂の竹林を訪れんと決意しつつ。

‘2017/04/03-2017/04/03


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