真田幸村を書いた「華、散りゆけど 真田幸村 連戦紀」を読んだのは一年前。その時に著者を知ってからまだ一年経っていない。九度山蟄居の日々から大阪夏の陣での真田幸村の見事な散り様が描かれた傑作であった。だが、構成のバランスに少々ムラがあったように見えたのが残念だった。

上記の本を読んだ際、家族でしなの鉄道の「ろくもん」に乗車したタイミングだったことはレビューに書いた。長野から軽井沢までを走るろくもん。その沿線には数々の風趣に溢れた観光地が点在している。中でも川中島の合戦場は屈指のスポットと言えるだろう。だが、私はまだ川中島古戦場を訪れたことがない。

そこにきて本書を見かけ、図書館で借りてみた。するとどうだろう。上記の本で見られたバランスの欠如が、本書では見事に拭い去られているではないか。拭い去られているどころか、一部の隙もないといってよい。本書は私が読んだ時代小説の中で十指に数えられる一冊だといえる。

私の知識によると、川中島の戦いは五度にわたって戦われた。中でも第四次のそれは、山本勘助によるきつつきの献策や、信玄公と謙信公が刀と軍配で相見えた挿話でも知られている。

本書はその第四次の戦いにのみ焦点を当てている。

本書の語り手は天海和尚。江戸幕府初期の頃、大僧正として数々の施策に関わったことで名高い。長命な天海和尚はまた、十代の頃、第四次の川中島の戦いを山の上から見届けたという伝説を持っている。本書は、天海和尚の晩年、江戸城において徳川二代将軍秀忠、三代家光の両者より江戸幕府が採るべき軍学が甲州流、越後流のどちらであるかを下問される場面で始まる。それに応じ、両方の軍学を引き合いに出す上で、天海和尚が見聞した川中島の戦いを昔語りに語るという構成となっている。

若き天海和尚が、謎の白面の青年とともに戦を山の上から見届けるという設定。その白面の青年は偵察で相模から直々にやってきた風魔小太郎。という設定は突飛なものに見えるが、さもありなんと思わされるだけの説得力を持っている。

また、信玄公と謙信公の書き込みも入念だ。信玄公については、幼少期から父信虎に遠ざけられた忍従の日々、そして父信虎追放に至る背景がきっちりと精緻に描かれている。その結果、信虎の暴政に危機感を募らせた武田家宿将達によって持ち上げられ、国境に戻ってきた父信虎を駿河へと追い返すことになる。武田家について書かれた小説は何冊か読んできたが、本書ほどこの父子相克の場面を描き切った小説はないのではないか。それは謙信公も同じ。長尾家にあって天室光育を師とした修行の日々が描かれている。後年、謙信女説が生まれたほどの女犯を遠ざけたストイックさ、毘沙門天を背負っての軍神とまで言われるその背景に、天室光育の薫陶があったことがきっちりと描かれている。そして著者は、民を養うために国を富ませ、他国を奪うことに正義を見出す信玄公と、己の信義に従い、道理を友とし、攻められれば受けて立つ謙信公の戦に対する違いをも鮮やかに描き出す。

著者はそれゆえに両者の対立が、単に信濃の領有をめぐってではなく、天佑の争いであると定義する。これは序章で天海和尚が語る言葉にすでに表れている。

「では、信玄公と謙信公は、いったい何を競うために鎬を削ったのでござりましょうや」三代家光の下問に対し、天海和尚はこう答える。「天佑の貫目、ではないかと」。またこうもいう。「天運は生まれながらにして人の生に宿る決まり事で、寿命などをはじめとするものにござりまするが、天佑はその人の才や努力の上に積み上げられていくものにござりまする」と。

第四次の戦いは、香坂昌信の籠る海津城の目の前を横切るように、上杉軍が妻女山へと布陣することで幕を開ける。戦の定石を外した意表を突く布陣に、狐に摘まれた様な武田軍。おっとり刀で甲斐から進軍した信玄は茶臼山に登り、盆地を挟んで上杉軍と対峙する。碁の用語である真似碁のように睨み合う両者。その膠着状態に耐えかね、武田家謀将山本勘助が軍議である策を提案する。それは、背後から妻女山を衝く、キツツキ戦法。軍議の末、その案は容れられ、武田軍は動き出す。そしてそれは謙信公にとって思う壺であった。

戦は動き、軍勢を二手に分けた武田軍は、険しい山を背後を衝くために移動する。そして、それを予期した上杉軍は、半分となった敵勢力を渦を描きつつトグロを巻く龍蜷の陣で待ち受ける。上杉軍の半分に満たない武田軍が、上杉軍の本隊に襲い掛かられる。その危機を察した信玄公の弟信繁は、圧倒的不利な状況に戦慄しながらも武田軍を身を挺して守るため、上杉軍の名将柿崎景家との一騎打ちにまで持ち込む。

この柿崎景家と武田信繁の一騎打ちの場面は、本書のクライマックスといってもよい。そのぐらい素晴らしい。闘いの気の流れ、体術の冴え、戦地の駆け引き、そして真に相手を強敵と認めた男たちにだけに通い合う闘気。これらが凛として文に満ちわたる様は、私を恍惚とさせた。私にとってこの場面は、今まで読んだすべての小説の一騎打ち場面で筆頭と推したい。それほど魅了された。闘いも見事ならば、破れた信繁と勝った景家が互いに名乗りを挙げる様、景家が止めを刺す場面もまた見事。

戦局は、もぬけの殻となった妻女山へ向かった武田軍の半隊が戦場に遅れて合流し、武田家がぎりぎりのところで巻き返す。ここまでの戦いで十中八九負けを覚悟した信玄公が、ぎりぎり胆を据わらせ、腰を構えたことで運気を武田家に引き寄せる。その場面の心の動きも、戦国時代きっての戦上手と言われた信玄公の凄味を良く著している。

謙信公は、武田家の別働隊が合流するまでの間に武田軍を殲滅できなかったことで、勝機が自らの手から逃れ去りつつあることを悟る。そして、その期に及んで、乾坤一擲の策を打つ。そのためにも、謙信公は戦いの序盤から、自らの特徴的な装束を着せた武者多数を戦の中に放つ布石を打っていた。すなわち攪乱策。そして最後の一手は武田軍本陣への謙信公自らの単騎討ち入り。信玄公に肉薄した謙信公の刃は、紙一重で信玄公の喉をかすめる。

「-されど、余は生き残っている。天が、・・・天が余命を与えてくれたのか!?」

余りに一瞬の交錯。両雄の日本史に残る一騎打ちは、本書では2ページでまとめられている。が、上に描いた信玄公の独白が全て。優れた描写の多い本書において、この場面も繰り返し読むに耐える場面である。それでも尚、私としては、柿崎景家と武田信繁の一騎打ちの場面に軍配を上げたい。

終章、天海和尚は三代家光に問われる。本当に一騎打ちはあったのか、と。信玄公と旧知の天海和尚は、戦の後、養生中の信玄公を訪ねて一騎打ちの真相を問うた、と伝承にある。そして信玄公の答えはなかった、と。しかし天海和尚は云う。あの戦い全体が両雄の一騎打ちのようなものではなかったか、と。そしてその戦いののち、両雄の間には義縁が生まれたのではないかと。川中島の戦い後、戦場で勝鬨を挙げたのは武田軍で、両軍問わずに死者を弔っている。それを意気に感じた謙信公は、有名な敵に塩を送るの故事を実行し、塩の欠乏に困る武田軍に塩を送っている。また、信玄公は死の直前、後継ぎの勝頼公に、何かあったら越後を頼れとの遺言を残している。

結果、天海和尚は徳川将軍に、軍学として甲州流を採用することを進言する。越後流は、天才の孤高の戦術であり、多数の民を収める江戸幕府にはふさわしくない、と。ここで、我々読者は悟るのである。江戸時代と戦国時代の本質的な違いに。そして、この裁定をもって両雄の優劣を問うこともまた、無意味なことに。

初めからしまいまで、一部の隙もない刃に追い立てられるように、一気に読み終えられるのが本書である。

‘2015/10/12-2015/10/17


2 thoughts on “天佑、我にあり

  1. 水谷 学

    八幡原の古戦場は訪れたことがありますが、見るべきものはお決まりのシーンの銅像、土塁、合戦の布陣図です。それよりもおすすめなのは、信繁が葬られた典厩寺です。川中島合戦300記念の閻魔大王で有名ですが、境内にある川中島合戦記念館には信繁所縁の物もあり感慨に耽ることが出来ました。新田次郎氏の「武田信玄」、井上靖氏の「風林火山」等をはじめ戦国武将に関する本を一武将として武田信玄は最も読破していますが、信繁の献身的な第四次川中島合戦での戦闘シーンに一騎打ちという記述はお目にかかったことは確かにありませんでした。私個人としては、守護霊様である天海を主人公にした内田康夫氏の「地の日天の海」を読破しようと思っています。、本能寺の変の際に采配を振るった斉藤利三とお福の関係には、実は長宗我部氏も一枚かんでいるということを天野純希氏の「南海の翼 長宗我部元親正伝」で知りました。お福や家光には天海も裏で関わっているのでネタとしては興味が尽きない人物なのでライフワークになりそうな予感があります。

    1. 長井祥和 Post author

      水谷さん、おはようございます。
      天海は、実に興味深い人物ですよね。

      明智氏の誰かではないかという説も根強かったりしますし。日光で明智平の展望台に行くたびに、そのことを思い出します。

      多分、戦国時代でもっとも長生きした人物ではないでしょうか。戦国の世のあらゆることを、人間の業を見据えてきた人にしかない凄みをもっている気がします。内田康夫さんが天海を取り上げたのは知りませんでした。浅見光彦シリーズですか? 私も今度見てみようと思います。

      でも、まず八幡原には行きたいですね。

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