本書は、友人に貸してもらった一冊である。貸してくれた友人によれば、本書は、伝奇小説の性格が強いのだという。

著者は時代小説の分野における巨匠として知られている。しかし実は私、著者の作品をほとんど読んだことがない。ひょっとしたら本書が初めてかもしれない。なので、著者がどういった作風を持っているのかも知らない。つまり、著者の作品群の中で本書がどのような位置付けなのか、うまく語ることができない。

そういった事前知識の中で臨んだ読後感。なるほど、本書が伝奇小説と云われるのも分かる気がした。しかしその一方で荒唐無稽な内容とは思えず、本書が正当な時代小説の衣鉢を継いでいる事を感じた。一見、太平に見える江戸。その裏側で繰り広げられる暗闘を活き活きと描いたすこぶる上質のエンターテイメントといえる。

本書では、幕府御家人の身を捨て筆耕稼業に己の本分を賭けた鶴見源次郎を主人公としている。対するは、太平の江戸に暗躍する八嶽党と、その背後にちらつく田沼意次の影。源次郎の背後は八嶽党の増長を望まない松平武元や松平定信の意を受けた隠密が支える。時代は田沼意次が権勢を誇った田沼時代から松平定信の寛政の改革へ移ろうとする頃。江戸幕府も吉宗による享保の改革を経て、いよいよ治世に伸び悩みがちらつき始める時期である。本書がそのような時代を背景としていることは、暗躍する八嶽党の存在にある種の現実性を与えている。

八嶽党は徳川忠長の遺恨を継ぐ形で、徳川家に対して策謀を仕掛けている徒党という設定である。徳川忠長は、二代将軍秀忠の子である。三代将軍家光による体制確立の過程で、戦国期に外様として徳川家としのぎを削った諸大名が続々とお家取り潰しにあったことは良く知られている。忠長はその渦中にあって島原の乱よりも前に改易され自刃の憂き目にあったとされている。その忠長の遺恨を八嶽党は受け継ぎ、以来、140年近くに亘って将軍継嗣の際に策謀を巡らしながら命脈を保ってきたという。この設定は決して荒唐無稽なものではなく、あり得なくもない設定として今の我々には素直に受け入れられる。

また、主人公の源次郎は、武士や忍びといった武闘派ではない。元は無眼流の免許皆伝を持ち、剣の道を極めんとした武士であるが、今は筆耕、つまりは文字の清書屋である。筆耕屋が悪の組織と闘う、という設定はなかなか悪くない。また、本書では源次郎の友人にも工夫を持たせている。友人の旗本細田民乃丞が玄人並の技術で女の裸婦画を描くという設定は、殺伐となりがちな物語にゆとりを持たせている。

その源次郎が筆耕仕事を斡旋してくれる版元に行った帰り、斬り合いを目撃する。そして切られた男は源次郎にある物を託し、事切れる。ある物とは、八嶽党がまた動き出したことを伝える文書。男は時の老中松平武元にその文書を言づけるように伝えて息を引き取った。武元のところに赴いた源次郎は、江戸の背後に蠢く八嶽党を知り、武元の許にいた白井半兵衛とともにその暗闘に巻き込まれていくことになる。

源次郎が御家人を辞め、筆耕仕事に入るにあたっては、訳があった。それは妻織江の離別である。織江が別の男に組み敷かれた姿を源次郎が目撃したことが離別へと繋がった。そして組み敷いた男は源次郎の叔父由之助であった。離別してしばらくし、八嶽党との暗闘に巻き込まれてすぐ、織江は自裁の最期を遂げた。そのことを告げに来たのは織江の妹津留。以来、津留はなにかれと源次郎の世話を焼きに来る。そのことを疎ましく思いつつも断れないでいる源次郎。男女の機微についても著者は細やかに筆を尽くす。

そして源次郎に松平武元宛の文書を託した男を倒した刺客の構は柳生流のそれであった。なぜここに柳生流が。源次郎は武芸を究める修行の中で知り合った記憶を頼りに隠田村(今の原宿)の老剣客の許を尋ねる。そこでは老剣客赤石とその孫娘奈美がつつましく暮らしていた。そこで刺客の素性が判明する。その刺客こそは、老剣客赤石の愛弟子であった伊能甚内。

甚内という新たな好敵手が登場し、八嶽党の闇討ちとそれを防ぐ松平一派の闘いは静かに、そして激しく続く。源次郎の仲間達は立て続けに凶刃に斃れてゆく。そのさなか、津留が何者かに拐かされる。いよいよ源次郎は、織江を死なせたこと、津留とのこと、そして甚内や八嶽党との決着を付けねばならぬ、と決意して上巻は幕を閉じる。

‘2015/02/05-2015/02/07


2 thoughts on “闇の傀儡師 上

  1. 水谷 学

    江戸時時代に向坂甚内、鳶沢甚内、庄司甚内という三甚内という人物がいました。向坂甚内は高坂昌信(春日虎綱)の隠し子だとも言われ、武田勝頼に仕えた忍者。時代は少々違うこそ作中の伊能甚内のモデルではないかと察せられます。鳶沢、庄司は北条に仕えた風魔党の忍者。鳶沢甚内は古着商で一旗揚げ、日本橋に広大な土地を幕府から払い下げ、それが後の富沢町になりました。庄司甚内は私娼を一本化し日本橋吉原の遊郭を作り上げました。

    1. 長井祥和 Post author

      水谷さん、こんばんは。

      三甚内三人とも知らなかったです。うーむまだまだ知らぬ人物知らぬことばかり今年も勉強勉強したいと思います。

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