著者の『渋滞学』は名著だと思う。渋滞にいらつかない人はいないはず。渋滞こそが私たちの日常を不条理にし、イラつかせる元凶なのだ。その渋滞が生じる原因を明快に示したのが『渋滞学』だった。原因だけでなく、科学的な観点から渋滞をなくすための対処法を示していたのが新鮮だった。単なる渋滞だけにとどまらず、人生をよりよく過ごすヒントの詰まった一冊だったと思う。

本書はその著者が”無駄”に焦点を当てた一冊だ。「「なぜ」から「どうすれば」への飛躍」(16ページ)が科学者に求められる課題とする。その流れで「「なぜ」が理学で「どうすれば」が工学」(16ページ)へとつなげる指摘が鮮やかに決まる。ここでいう飛躍こそが、人類の発展に欠かせなかったことを著者はいう。そして、飛躍のために著者は「無駄」に着目し、「個人の価値観や感情が入ったこの言葉こそが本当に人を動かすものではないだろうか」(18ページ)と喝破する。無駄に着目したのは、渋滞を研究してきた著者ならではだろう。

本書を読むのは二回目だ。前回も本書を読んだ事で自分の生活の無駄な部分をあぶり出した。その時はスマホゲームを完全に断ち切った。そして、それからも私自身が費やしている無駄についていろいろと考えてきた。

今もなお、私自身の生活に無駄はたくさん残っているはずだ。その無駄は私自身がエキスパートではなくジェネラリスト志向が強いため産み出されている。それは自覚している。わたしの書斎に積み上がる大量の本やパンフレットがその証だ。多分私の本業と関わりのない本ブログも無駄なのかもしれない。

けれども本書で著者は、エキスパートだけを推奨するのではない。エキスパートとジェネラリストの両方を兼ね備えたものだけが世界を俯瞰し、直感から無駄を見つけ出すことができると主張する。なので、私はジェネラリストの自らを捨て去らないためにも本ブログの執筆や、読書習慣を捨てるつもりはない。

私自身の無駄よりも、他に根絶すべき無駄はあまた転がっていると思う。著者が『渋滞学』で採り上げた渋滞や通勤ラッシュなど、無駄のもっともたるものだろう。あらゆる無駄が我が国のあちこちにたまっているのだ。その無駄が我が国の勢いを削いでいることは、日本人の誰もが思っているはず。そして、高度成長期の日本は無駄を省くことで世界に覇を唱えた。その象徴こそがトヨタのカンバン方式だ。必要な時に必要な部品を供給することで、在庫の無駄を省き、作業滞留の無駄を省く。すべては無駄をとる事に通じる。つまり、ムダとりだ。本書に登場する山田日出男氏は、トヨタのカンバン方式を受け継いだ方で、コンサルタントとしてご活躍されている方だ。

本書には、山田氏によるコンサル現場での様子を紹介することで、同時にムダとりのエッセンスが理解できる。そこで指摘されたムダとりの内容はとても参考になる。

続けて本書には、家庭でのムダトリが採り上げられている。日常の雑事に紛れてなかなか手が掛けられないが、これも取り掛かるべきなのは明らかだ。わたしの場合は何はさておき、大量の本とパンフレットの処分が即効性のある処方箋なのはいうまでない。だが、頭ではわかっていてもなかなかできない。

今回、私が本書を読んでムダとりの対象に選んだこと。それはSNSに費やす時間だ。本書を読んで以来、私はSNSに費やす時間をかなり抑えている。その事によってつながりが希薄になるリスクは承知の上で。

私は時間を最優先に考えているので、SNSを対象にした。だが、他にも無駄は人によってたくさんあるはずだ。著者は一つ一つそれらを列挙する。たとえばお風呂や洗濯機、メール処理、冷暖房や机の上、過剰包装や過剰注意書き、過剰セキュリティなど。著者の気づいた無駄は多い。高度成長期の日本にはまだモッタイナイ精神が息づいていたが、日本が豊かになるに連れ、こういった無駄が見過ごされるようになってきたのだろう。私も今の無駄社会の申し子なので、著者の忠告は心して聞かねばならないと思っている。

本書で最後に触れられている無駄もとても興味深い。それは資本主義のシステム自体に内在される無駄だ。3R(reuse,recycle,reduce)の解説やゲーム理論の紹介などをしつつ、著者は資本主義の無駄を指摘する。それは、成長し続けることが前提の資本主義経済のあり方と持続可能な社会のあり方が両立しないことだ。

成長とはつまり生産の余剰があって成り立つ。そして余剰とはすなわち無駄の別名なのだ。今の資本主義経済それ自体に無駄が内包されてることは、誰もが前から気付きつつある。だが、誰もがわかってはいても、それは成長圧力を前にすると言いにくくなるものだ。資本主義経済に替わりうる効果的な経済システムがない以上、抜本的な改善案は出にくい。資本主義の無駄が改善されない理由だろう。最近は資本主義の無駄と限界を指摘する論説も増えてきたように思う。もちろん本書もそのうちの一冊だ。

富の偏在。これも資本主義の必要悪として無くせないものだ。そして著者は偏在自体も無駄であることを指摘する。そして利子までもが著者にいわせれば無駄となる。ただ、それはもはや資本主義社会の根幹に関わる部分だ。著者もその改善が難しいことは理解している。そしてそのかわりに著者が提示する処方箋が振動型経済だ。これはすでに40年以上前に複数の経済学者によって提唱された概念だそうだ。

振動型経済についての本書の説明を読んでいて思ったことがある。もともと、経済には短期中期長期の周期があったはず。キチン循環や、ジュグラー循環、クズネッツ循環、コンドラチェフ循環などだ。ところが、どうも最近の風潮として経済は右肩上がりであることが前提になっていないか。循環が経済システムにつきものであることを忘れて。バブル崩壊後の景気後退にもかかわらず。著者の提案を読んで私はあらためてそのことを思った。そもそも右肩上がりの経済自体が幻想だったのだ。イザナギ、神武、バブルときた日本は、裏ではバブルが弾けたりなべ底不況を経験したりと、振動しているのではないか。それが、戦後の荒廃からめると振動しつつも発展を続けてきたために、経済は右肩上がりになることが当たり前になっているのではないだろうか。そもそも長い目で見ると振動しつつ、長い目で見ると平らかで有り続けるのが定常なのではないか、と。

もう一つ私が思ったこと。それは人工知能の存在だ。本書には人工知能は出てこない。人が絡むと人情やしがらみが無駄の根絶を妨げる。しかし、全てをロジックと確率で処理する人工知能ならば無駄の根絶はできるのではないだろうか。おそらくは人工知能と人類が対立するとすれば、その原因とは人工知能が無駄を徹底的に排除することにあるのではないか。人間が温存したがる無駄を人工知能は論理ではねつける。そこに人類との軋轢が生じるのではないか。そう思った。となると、そのハードランディングの可能性、すなわち無駄を人類自身が事前に摘み取っておかねば、人類と人工知能の間には救い難い破滅がまっている。本書には、そのためのヒントも含まれているのだ。

本書で学んだ無駄トリは、ただ生活を改善するだけではない。無駄を取ることは、これから待ち受ける未来、人工知能が席巻する世の中を泳いでいくためにも必要なのだ。

‘2017/01/09-2017/01/12


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