私が2015年に読んだ95冊の本。その中で著者の『血脈』を外す訳にはいかない。佐藤一族の放蕩の血を鎮めるために書かれたような『血脈』。佐藤一族の生き残りである著者にとって畢生の大作と呼んでいいのではないだろうか。佐藤一族を描いた大河小説として圧巻の読み応えだった。私が『血脈』を読もうと思ったのは、私の実家の甲子園が主要な舞台の一つになっているからだ。懐かしのわがふるさとを知りたいと思って読んだ『血脈』。ところが、読み始めると甲子園のことよりも佐藤一族に流れる闇の濃さに完全に魅入られてしまった。膨大なページ数の『血脈』を一気に読んでしまうくらいに。

『血脈』には膨大な人物が登場する。とくに主役と言えるのは、佐藤紅録、シナの夫妻。それにサトウハチロー、そして著者。それ以外にも、佐藤一族の人々や佐藤一族と血は繋がっていない登場人物が多数登場する。それにしても面白いのは、佐藤一族の血が流れていないにもかかわらず、佐藤一族と縁ができるとその放蕩の血に感化されてしまったかのように軌道から外れていく人物の多いこと。類は友を呼ぶとでもいえばよいか。そんな個性的な人物が多数登場するのが『血脈』の魅力の一つだ。

だが、かつて著者の夫であった二人は、他の人物たちに比べると『血脈』の中では控えめに描かれている。とくに一人目の夫については最低限にしか触れていない。そもそも実名の多い『血脈』の中では珍しく仮名になっている。私の推測だが、書いてくれるなという遺族の拒否があったのかもしれない。

不思議なのが、二人目の夫もあっさりと書かれていることだ。なぜ不思議かというと、二人目の夫についてはすでに著者が何度も小説やエッセイに登場させているからだ。なにせ、著者の直木賞受賞作『戦いすんで日が暮れて』からして、二番目の夫の会社倒産と、その負債を背負わされた著者の奮闘がテーマになっているというのだから。二人目の夫の事を何度も書いておいて、今さら『血脈』で遠慮することはないはずなのに。ちなみに私は『戦いすんで日が暮れて』は未読だ。

本書は、あらためて二番目の夫「田畑麦彦」と著者「佐藤愛子」をモデルとし、『血脈』で書き切れなかった鬱憤を晴らすかのように二人の関係が書かれている。

本書の二人はモデルがはっきりしているのに仮名だ。著者の名は本書では「藤田杉」、田畑氏の名は「畑中辰彦」となっている。『血脈』ではあれほどまで実名で身内の恥をさらしまくったのに、どうして本書では仮名なのだろう。私の推測では、本書で実名にしなかったのは、田畑氏でなくその周辺に理由がありそうだ。周辺とは、二人が出会った文芸サークル「文藝首都」(本書内では文芸キャピタル)の関係者に迷惑をかけないためではないか。

というのも「文藝首都」には名だたる作家が参加していたからだ。どくとるマンボウでお馴染みの北杜夫氏や、精神科医の傍ら幾多の著作を発表したなだいなだ氏、あと、官能小説家として稼ぎまくった川上宗薫氏など。

本書には同人仲間が多数登場する。文学への思い叶わず市民の生活に戻るもの。あくまでも筆で身をたてようとあがくもの。本書に出てくる人物の中で川上宗薫氏をモデルとした人物は見当がついたが、あとはさっぱりわからなかった。さらに、本書の各章はどれも「梅津玄へ藤田杉の手紙」となっているが、この梅津玄という人物も誰をモデルとした人物なのかよくわからない。文藝首都の主宰だった保高徳蔵氏のことなのだろうか。こちらのリンクによると、全ての章を手紙形式にしたのは、小説を必要以上に重くしないためらしいのだが。

文芸キャピタルの名だたる同人の中で資産家の息子として何不自由ない生活を送っていたのが畑中辰彦だ。彼は超然とした態度と生活に困らぬゆとりでサークル内の地位を築いていた。

文学仲間とつるむことに熱中する杉に苦言を呈した母にちゃぶ台を返しで啖呵を切り出て行くエピソード。そして、伊那の某所にある旅館にこもるエピソード。そこにふらりと訪れたのが畑中辰彦で、それをきっかけに結婚という流れ。それらは『血脈』にも書かれていた通りだ。『血脈』ではこの辺りのなれそめはあまり深く書かれていなかった。が、本書ではその内幕をより深く語っていく。

そして、畑中辰彦が徐々に壊れた本性を表わしてゆく過程は、『血脈』には書かれていない本書の真骨頂だ。生活力の無い田畑氏、いや畑中のもとから金が湯水のように流れ出てゆく様が本書には生々しい。本書の杉もモデルとなった著者と同じく文豪を父としている。だから、金にはどちらかといえば鷹揚だ。しかし鷹揚な杉も追いつけないほどの、畑中の人の良さが畑中本人だけでなく杉の人生をも蝕んでゆく様子。そこには当事者にしか書きえない迫真さがある。先に書いたとおり、私は著者の『戦い済んで日が暮れて』を読んでいない。そちらにはこういった田畑氏の行いがどこまで書かれていたのだろう。是非とも読んでみたいと思う。

そもそも、なぜ著者は何度も田畑氏を題材にするのか。474ページのあとがきで著者は語っている。
「今までに私は何度も何度もかつての夫であった男(この小説では畑中辰彦)を小説に書いてきました。「また同じことを・・・」と苦々しく思われるであろうことを承知の上でです。しかしそれは私にとっての必然で、くり返し同じようなことを書きながら、私の中にはその都度、違う根っ子がありました。ある時は容認(愛)であり歎きであり、ある時は愚痴、ある時は憤怒、そしてある時は面白がるという、変化がありました。それは私にしかわからない推移です。今思うと彼を語ることは、そのときどきの私の吐物のようなものだったと思います。」

実際その通りなのだろうな、と思う。それが著者の実感であり、だからこそ書かねばならないのだろう。続けて475ページで著者はこうも語っている。
「畑中辰彦というこの非現実的な不可解な男は、書いても書いても、いや、書けば書くほどわからない男なのでした。刀折れ矢尽きた思いの中で、漸く「わからなくてもいい」「不可能だ」という思いに到達しました。」

ここまで不可解な存在であり著者を振り回し続けた田畑氏に著者がこだわる理由も455ページに書かれている。
「心配するな、大丈夫。
 いつもそういった。どん底をどん底と思わなかった。彼の思うことは常に「可能性の追求」だったから。彼は「30パーセントの成功」というその可能性に賭けた。」
答えはこの前向きなエネルギーにあるのだろう。そこに著者は佐藤家の血につながるものを感じたのではないだろうか。

著者は『血脈』で描いたとおり、自らに流れる佐藤家の荒ぶる血を持て余しつつ、なぜ佐藤家に群がる人々は血脈を共有していないのに不可解きわまりないのか、という疑問を持ち続けていたのだろう。思うに著者にとっては小説を書く作業とは、その疑問を解き明かすために不可欠な営みだったのではないだろうか。そんな著者にとって、血のつながらない不可解の人間の代表がすなわち田畑麦彦氏であったに違いない。『血脈』を書き上げてもなお、容易に解き明かすことを許さない田畑氏の人生の不可解。本書でついに著者がたどり着いた結論が「わからなくてもいい」「不可能だ」というのも面白い。 人はしょせん人からの理解を拒む生き物なのだろうか。頭ではわかったつもりでも、実は人が人を理解することなど、どだい無理なのだ。

著者は90年を超える人生を生き、作家として佐藤家の血を飼いならすことに血道を上げてきた。それでもなお、人を理解しきれなかった。だからこそ、90を超えても作家としてやっていけるのかもしれない。もっとはやく人生を達観していれば、ここまで長きに渡って第一線で活躍できたのかどうか。2017年に著者が発表したベストセラー『九十歳。何がめでたい』も、著者のこの達観が書かせたのではないかと思う。これらのエッセイも、『血脈』『戦いすんで日が暮れて』そして本作を読んで初めて背景を含めて味わえるのではないかと思っている。

‘2016/12/24-2016/12/25


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