もったいないなあ、と思っていた。本書のような傑作をものにしながらの作家引退宣言に。某ロッカーや某プロレスラーのように引退撤回を望みたいと思っていた。一連の右寄り発言や故やしきたかじんさんについて書いた「殉愛」の内容。これによって著者はマスコミに叩かれ、その結果著者が出した回答が作家引退。実にもったいないと思っていた。

結果として、引退宣言撤回発言があり、引き続き小説家としての著者の作品が読めることになった。歓迎したい。

私は「殉愛」は読んでいないし、おそらく今後も読む可能性は低い。なので「殉愛」の内容についてはどうこう言うつもりはない。が、一連の右寄り発言については、場の雰囲気やインタビュワーにうまく乗せられたように感じる。マスコミが望むがままにリップサービスを振る舞ううちに、口が滑ったというのが実際のところではないかと。

本音と建前の使い分けが、我が国の大人に求められるのは事実。本音を漏らすと叩かれるのも事実。なので、我が国では建前を評価する文化が根付いている。私の意見では、建前も捨てたものではないと思う。本音の欠点が他人を顧みず自己中心の意見にあるならば、建前の美点とは周囲や他人の事を慮った意見と云える。つまり建前とは上っ面の空々しい意見ではないという見方も出来るはずだ。

著者の本音はともかく、建前として著者が訴えかけたい点は、本書に余さずこめられているのではないか。つまり、本書とは翼の左右を超え、反戦も八絋一宇も包み込むような視野に立って書かれたのではないか。

実は本書を読む前、私には不安があった。私が本書を読んだのは、上に書いた引退宣言の後。さんざん著者の右寄り発言がマスコミをにぎわしていた頃だ。本書を読むまでは、著者が撒いた放言が頭の片隅にあり、どんな神掛かった内容が書かれているのか不安を覚えていた。

しかし、それは杞憂であった。本書の内容からは、零戦の搭乗員を神格化するような意図は感じられない。零戦の搭乗員は、一人の人間として描かれていた。私はそのことに安堵した。

靖国神社では、戊辰戦争以降の近代日本で戦死した方のほとんどが祭神として祀られている。国を近代化する過程で、戦の中で命を落とした方々の魂を祀る場所が靖国神社。戦の中で何を為したかは問わず、等しく祭神として祀られている。零戦の搭乗員ももちろん戦死者の一人として祭神となっている。一方で、靖国神社にはガダルカナルで餓えて亡くなられた方も、インパールの川でワニに喰われた方も、報復裁判でデスバイハンギングを宣告された方も、等しく神となっている。零戦の搭乗員だけが祭神となっている訳ではない。それでいいと思う。自ら敵に突っ込んだ勇気には心からの敬意を払わせて頂くが、靖国神社で零戦の搭乗員だけを特別視することには賛成できない。

だからといって特攻を犬死行為として、彼らを加害者にさえ見立てるような論調には断固反対だ。当時の人々を弾劾できるのは、当時の人々だけに許されるべきこと。ましてや、戦争という異常な状況の中で追い詰められ、または祭り上げられ、国や家族を思いつつ、または悔やみつつ散華した特攻隊員の方々を平和な時代の我々が一方的に非難することがフェアでないのはいうまでもない。

弾幕をかいくぐり、敵軍艦目掛けて突っ込むという行為には、それぞれの搭乗員の人生や人格の積み重ねがある。零戦の搭乗員たちは、色んな想いや思想を抱いた普通の青年だった。平凡な人間に過ぎないと言い切ってもいい。だが、産まれた時代や場所の巡り合わせで、極限状態に置かれてしまった。そういう一般の人こそが、零戦搭乗員だったと思う。

全ての搭乗員が天皇陛下万歳と叫びつつ飛散したわけではないだろう。全てのゼロファイターがおかあさーんと別れを告げたわけでもないだろう。中には号泣しながら、戦争を呪いながら未練と呪詛にまみれつつ、海面に突っ込んだ人もいたはずだ。

だが、平和な時代の我々は、彼らを決して非難できないし、断罪する資格もない。同情する余地すら与えられていない。自らが積み重ねてきた生き様、これから積み重ねられたはずの人生が一瞬で灰になると知りながら、それでもやらねばならない状況に追い込まれたのが特攻。だとすれば、その場に臨む方にしか、特攻を語り得ないのは当然だ。

しかし、誰かが彼らの声を伝えねば。それは誰が伝えるのか。または、誰ならば伝える資格を持つのか。戦中の異常ともいえる戦意高揚の、戦争に異を唱えれば非国民扱いされ村八分にされる空気感。本来ならばその空気感を知る人でないと、伝えたところで理解されることはないだろう。しかもその空気感は、私のような第二次ベビーブーマーズが決して知ることのない空気感だ。

それをいいことに、零戦の搭乗員を悪者扱いし、加害者呼ばわりする意見が一部ある。死人に口なし。著者は、そういった風潮に我慢がならず、本書を著したのではないだろうか。

本書では平成の青年健太郎が、フリーライターの姉の慶子の助手として祖父の足跡をたどることになる。二人が知る存命の祖父ではなく、祖母の前夫であり、二人にとって血のつながった祖父である宮部久蔵について。その祖父宮部久蔵の人生を調べる中、零戦の搭乗員たちの何人かにインタビューする必要が生じ、相対して聞き取りを行う。その渦中で、何が零戦の搭乗員たちを死地に追いやったのかを探るのが本書の粗筋だ。

健太郎が話を聞いた中には、軍隊の理不尽さを語るものもいれば、当時の開き直った透徹な心持ちを語るものもいた。昭和天皇に対し、今も複雑な思いを抱き続けるものもいた。真っ当に戦後を過ごした人もいれば、やさぐれた世界に身を置き、鎬を削って命を生きながらえさせた人もいた。零戦の搭乗員として一くくりにするのではなく、様々な人生の中、ある期間零銭の搭乗員として過ごした普通の人間として。

だが、健太郎と慶子は話を聞き続けていくうちに、彼らの追い求める祖父宮部久蔵が普通の人間でないことを知る。志願兵でありながら、戦闘を回避し続けた男。それでいて操縦技術や空戦の勘が抜群に優れていたこと。祖父は何故、そこまで戦闘を回避しようとしたのか。生きて虜囚の辱を受けず、という言葉が軍人だけでなく銃後の人々をも縛っていた当時、生きるという信念を戦場に於いても頑なに守ろうとした祖父は、何を守りたかったのか。

司法試験を何度も落第して自棄になりかかっていた健太郎と、ライターの仕事と引き換えに結婚の話が持ち上がっていた慶子。彼ら二人が調査に取り掛かった当初、特攻隊はテロリストとの認識しか持っていなかった。だが、本書の終末で祖父宮部久蔵が何を守りたかったのか、そして祖母と今の祖父に何があったのかを知るにあたり、健太郎と慶子は人として生きることの気高さを知る。それは決して戦争賛美でも神格化でもない。ただ与えられた時代の中、人が人として生きぬくという意思の気高さ。

本書の結末は私にとっては涙なしでは読めない。読んだ当時も泣いたし、本稿を書くにあたって最終章を読みなおしても泣いた。多分、私にとって今まで読んだすべての本で、最も泣かされたのが本書だろう。

エピローグもまた素晴らしい。敵は敵を知る、というのだろうか。宮部久蔵の見事な死に様と、死を扱うに見事なアメリカ軍人の態度は、本書を締めくくるに相応しい。

本稿冒頭に書いた著者の右寄り発言。それが本音か建前かはどちらでもいい。著者は本書、そしてエピローグで答えを示してくれたのだから。

‘2015/07/30-2015/08/01


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