厨二病という言葉がある。生真面目に直訳すれば、中学二年生病となろうか。その年代に特有の情動が不安定な様子を指す言葉だ。いわゆるネットスラング。野暮を承知で由来を書くと、中学生を馬鹿にして中坊と呼び、それを一括で漢字変換すると厨房。「厨」房の「二」年生と言った意味だ。

大人向けの知識を聞きかじり始めた、大人と子供の間に挟まった時期。今はネットの発展により大人向け情報がたやすく入手できるので、厨二病患者にとっては過ごしやすい時代かもしれない。

私が中学二~三年だったのは、1987年から1988年にかけてだった。バブルが弾ける前の浮かれた日本の中で多感な時期を過ごした世代。それが私の世代である。私自身が中二の頃は何をして何を考えていただろう。その頃はまだネットが無かった。時代がちがうため現代っ子とは比較できない、と言いたいところだが、多分今の中学二年生と似たり寄ったりだったのだろうな。

本書に登場するのはまさに同じ世代、同じ年代の中学生たちだ。本書の発端となる事件が起こったのは1990年のクリスマスの早朝。私が14歳のクリスマスを過ごした三年後のことだ。

三年とは世代の差として大きく、同じ年代の枠に含めるのは無理があるのかもしれない。それでもなお、本書内の彼らと私は同時代を生きたといえる。何故なら、バブルが弾ける前の時代に多感な時期を過ごし、インターネットを知らずに中学生活を送った世代だから。「バブルが弾ける前」と「インターネットを知らない」。この二つのキーワードは、同じ時代を生きた証として今も有効だと思う。私が本書に思い入れを持ったのは、同じ時代に同じ年代として生きた親近感にあるといってよいだろう。

とはいえ、本書を読む間、登場人物に感情移入できたかというとそうでもない。なぜかというと、当時の私は本書に登場する中学生達の様には個性が確立していなかったから。正直いって私の中学時代は無個性だったといえる。私の中学時代を知る妻の友人は、私と付き合っていると聞くと、あんなショボいやつといったそうだ。そして私と結婚したら全く連絡を断ってしまった。中学時代の私とは、それくらいパッとしないやつだったのだろう。本書には名前が付いている主要なキャラ以外にも、名前も出てこないその他大勢がいる。多分、当時の私が本書の登場人物であったとしても、名も無きクラスメートの一員に甘んじていたことだろう。

そこが、私が本書の登場人物達に感情移入できない理由の一つだ。柏木卓也の墜死体の犯人を探すために学校内で模擬裁判を行い、検事や弁護士、判事や陪審員に扮し、弁論をこなす。そんな派手な活躍など当時の私にはとてもとても。

本書の主要キャラの中で当時の私に近い存在といえるのは、野田健一だろうか。病弱な母と仕事に不満をもらす父のもとで育った彼は、目立つことを極力避け、自己を隠すことに腐心している。しかし、野田健一のその目論みは、柏木卓也の墜死体の第一発見者となったことで破綻を来す。

中学二、三年といえば、いじめや校内暴力がつきものの年代だ。墜死体が発見されてすぐに犯罪を疑われた大出俊次は学校の番長。番長というより札付きの不良と言った方がよいか。本書を通して大出俊次は柏木卓也を殺したという疑いの目で見られ続け、そのことに人知れず傷つく。その疑いをさらに煽ったのは、三宅樹理。ひどいニキビのため皆に嫌われている彼女は、大出俊次にも手酷くいじめられていた。彼女はこの機会を利用し復讐のために友人浅井松子とともに、大出俊次と腰巾着二人による殺人の現場をみたとのチクリ手紙を学校と担任、さらには学級委員の藤野涼子宅に発送する。

藤野涼子の父藤野剛は警視庁捜査一課の刑事であり、娘宛に届いた封書の宛名書きの書体が尋常でなかったことから、娘に黙って手紙を開封する。その内容を見て学校を訪問した藤野剛は、津崎校長に捜査は捜査として、学校対応は対応として対応を委ねる。

第Ⅰ部である本書は、教育現場の危機管理についてかなり突っ込んだ問題提起がされる。結果的に津崎校長による危機回避策は全て裏目に出てしまう。しかし津崎校長が打った策は決して愚策ではない。情報公開せず、いたずらに混乱を招かないための配慮はある意味理にかなっている。本書のような子供の視点から描く物語の場合、子供の立場に迎合するあまり、学校を悪者と書いてしまいがちだ。そして情報公開こそが正しいと短絡的に学校対応を非難する。しかし、そんな単純な構図で危機管理が語れないことは言うまでもない。その点を浅く書かず、徹底的に現実的な危機管理対応として書き切った事で、本書の以降の展開が絵空事ではなくなった。そこに本書が傑作となった所以があると思う。

では、なぜ津崎校長による隠蔽に軸足を置いた危機回避策は破綻したのか。それは、三宅樹理が投函した三通のうち、担任の森内恵美子宅に届いた一通が、森内恵美子を敵視する隣人に盗まれたからだ。そしてあろうことかその隣人の垣内美奈絵はその手紙をテレビ局へと届ける。垣内美奈絵が何故そこまでの行動に及んだのか、彼女が抱える事情とそこから生まれる憎悪や敵がい心も著者は丁寧に描写する。このあたりの描写を揺るがせにしないところが、著者を当代有数の作家にしたのだろう。この点を怠ると、作者のご都合主義として読者を白けさせてしまうから。

一つの墜落死が、次々に連鎖を産む。浅井松子は謎の死を遂げ、三宅樹理は口が利けなくなり、大出俊次宅は放火で全焼し、それら事件の数々は世間の好奇の目にさらされる。そこに暗躍するのは教育のあり方や現場の事大主義を問題視し、大衆に訴えるニュースアドベンチャーの記者茂木悦男だ。垣内美奈絵の手紙が茂木のもとに渡った時点で津崎校長の危機管理策は破綻する運命にあった。その結果、学校は大いに揺れる。それぞれの家庭、少年課の刑事、学校による事態収拾の動き。著者の筆運びはとても丁寧に大人たちの右往左往を暴く。

ここに来て、墜落死という事件とその後の出来事は大人たちの都合でいい様に扱われ処理されていく。生徒たちの心の動きにはお構い無しで。もちろん大人たちも精一杯やっている。だが、そこで子供からの視点を考えるゆとりは無い。そんな風にないがしろにされて生徒達が何も思わぬはずはない。著者は生徒たちの間にじっくりと薪をくべる。そして焚きつける。メールもLINEもinstgramもない時代であっても、いや、だからこそ口伝えで生徒たちの間に不満と圧力が高まってゆく。

本書第Ⅰ部の最後で、茂木記者に呼び出され様々なことを探られ藤野涼子は殻を破る。容姿と文武の能力に恵まれ、自他共に認める優等生としての藤野涼子の殻を。それは少女から大人への殻でもあり、中学時代の私がついに脱ぐことのなかった殻である。

藤野涼子の決意によって、本書の展開は大きく前に踏み出す。

現代でも厨二病と揶揄され、当時でも軽んじられバカにされる中学生。子供と大人の境目にある中学生が、大人への成長を遂げる過程が本書では描かれる。本書第Ⅰ部は、それに相応しい藤野涼子のセリフで締められる。

「あたし、わかった。やるべきことが何なのか、やっとわかった」

私も中学時代にこの様なセリフを吐いて見たかった。

‘2016/01/20-2016/01/22


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