実は著者の作品を読むのは初めてかもしれない。
著者の広範なフィールドワークや知識や着眼点など、若い頃はかなり興味を持っていた。
ところが結局、著作は読まずに今まで来てしまっていた。

著者のような人の本を読むと、自らの視野の狭さに愕然とする。
常に視野は広く持ちたい。私も自らの器も広くあろうと努めているつもりだが、仕事の実務・雑務に携わるとそうはいかない。
目の前の文言について一つ一つのチェックを行い、内容や仕様の整合性などを検証している時、狭い範囲に意識が集中してしまう。集中しないとミスが生じるため、大枠への意識がおろそかになる。
長じてからあらゆる実務に手を染めるようになった私の視野は狭まる一方だ。
そんな今だからこそ、著者の本を読んでおいてよかったと思える。

もちろん、著者のスタンスが厳密な科学とは呼び難いことは知っている。
著者の人智を越えた領域に踏み込んだ考えが、学会の主流ではないことも。

とはいえ、著者のさまざまの分野にまたがった興味・関心の持ちようは、今でも通用すると思っている。
むしろ、著者のような興味の持ち方は参考にしたいと思う。
年齢を重ね、自分の認識や心の持ちようが硬くなりつつあることを知る今だからこそ。
行動力は衰え、柔軟さもかつてのようなしなやかさを失いつつある今だからこそ。
好奇心だけは持ち続けたい。好奇心だけが、自らの生命線だと思う。
自らの視野の狭さと伸びしろに気づかせてくれる著者のような人物の著作は読んでおきたい。

本書は友人が貸してくれた十数冊の中の一冊だ。
本書はエッセイで構成されている。
どのエッセイも著者が世界のあちこちで従事したフィールドワークの中で得た気づきに満ちている。

冒頭の「グリーンフラッシュを求めて」では、このような一文からはじまる。
「世界で真に神秘的なのは、見えるものであって、見えないものではない」(9p)
とはじまるこのエッセイ。
旅の本質をついている。
「最良の旅は空間のみならず時間をも超越する」(10p)
「必要なのは好奇心と大きく目を見開くことだけである」(13p)
私もまだまだ旅をして生きていきたい。このような言葉を胸に刻みながら。

続いての「モンスーンの吹く海」。著者はかつての体験を思い起こしながら、海の男たちがモンスーンの風に吹かれて自在に航海を行っていた姿の気高さを追憶する。
著者にとっては、モンスーンのような自然に身を任せ、自然を操る営みが魅力的に映ったのだろう。
今の快適な船旅に対する倦怠感で幕を閉じるあたりも、著者の考えが見て取れる。

続いての「魔性の島」は、セーシェル諸島のアルダブラを襲うサイクロンの猛威について語っている。
自然の力を前にした時の人間の無力さ。著者は謙虚さをわきまえている。
セーシェルとは日本人にとって果てしない楽園のイメージが強い。著者のこのようなエッセイを読むと、なおのこと、訪れたくもなる。

続いての「忘却の盃」は、インドネシアのテルナテ島にある陶磁器の店で出会った、由緒のありそうな古器の物語だ。
かつての大貿易時代に船であちこちから運ばれた由緒のある銘品。この話は、まさに東南アジアの歴史のうねりと大海原の広がりを感じさせて心が躍る。

続いての「旅は道づれ」は、旅につきものの細菌や病原菌、寄生虫に関する話だ。
土地ごとに土着の細菌が住み着いている。そこに数週間を過ごすと汗と垢で汚れた体がその土地の細菌になじむ下り。私はまだ未経験なので何ともいえないが。
そして、著者は自ら寄生虫を飲み込み、旅先の道づれとしたという。藤田紘一郎氏の講演でも同様の話を聞いたことがあるが、こうした方は同じような発想を抱くらしい。

続いての「ドラゴン・サファリ」はコモドオオトカゲについてのエッセイだ。
これもまた著者が体験したエピソード。
コモドオオトカゲの巨大な身体が、人類との共生を全うすることは可能なのだろうか。そんな問いかけで終わっている。

続いての「法王の漁師たち」は、クジラ漁に従事する漁師の話だ。
捕鯨に携わる漁師の間に脈々と受け継がれてきた文化。その粋が描かれている。
そういえば本編にはグリーンピースやシーシェパードといった単語は登場しない。
これらの激烈な活動で知られる反捕鯨団体は、著者の目にはどう映ったのであろうか。
動物行動学者にとって反捕鯨の意味とは。

続いての「レヴァイアサン」もまたクジラの話だ。
イギリスのテムズ川に迷い込んだクジラの話から、それをめぐってのイギリスのクジラへの考え方を紹介しておりとても興味深い。
本編によると著者はインド洋をクジラの保護区にする運動に携わったらしい。

続いての「アイリッシュ・シチューの味」は、アイルランドに住んでいる著者が、アイルランドに暮らすことのぬくもりや居心地について書いている。
著者はウィキペディアによると南アフリカの出身らしい。一体、生涯で何カ所に住んだのであろうか。

続いての「デス・ヴァレー体験」は、アメリカのカリフォルニア州の過酷な場所が描かれている。
著者はこの場所を別の惑星に例えている。それほどの過酷な地、というわけだ。
実際、Google Mapでこのあたりを眺めるだけでなにやら恐ろしい気にさせられる。禍々しい地名や平板な人の絶えた平原など、航空写真で見るとその荒涼ぶりがわかる。
一度は訪れてみたいものだ。

続いての「グリーン・ゴースト」はアマゾンに関する物語だ。アマゾンには森の精霊が住んでいる。
その神秘性は、山根一眞氏の『アマゾン入門』でも触れていた。
その神秘性は著者にとっては守るべきもののようだ。著者はあくまでも自然保護主義者なのだろう。

続いての「心のアフリカ」で著者は、人類の揺籃の地であるアフリカを礼賛している。著者は南アフリカ出身であり、アフリカの魅力について語る資格は持っているはずだ。
人類の文明の先取りをした地であり、本書が書かれた当時は荒れた情勢に振り回されたアフリカ。
それでもなお、アフリカには多くの可能性が眠っていることを著者は熱く説いている。
今のアフリカの発展をあの世から見て、著者は喜んでくれているだろうか。

続いての「グレート・リフト・ヴァレー」。これはいわゆるアフリカの大地溝帯のことだ。
今も分裂を続け、割れ目が広がりつつあるというこの地。
グレート・リフト・ヴァレーを著者はこのように語っている。
「わたしは、人類の歴史がこれほど豊かに蓄積され、いまだに過去との直接の接触をなまなましく感じさせるところをこの地上でほかに知らない」(165p)

続いての「ミッシング・リンク」は、人類の揺籃の地であるアフリカで、人類の進化の鍵を探す学者たちを描いた話だ。
著者はこの分野から学問に入ったそうだ。そのためか、愛情をこめてこの分野の人々を取り上げている。

最後に収められた「彼らとわたしたち」は、ブッシュマンの文化と私たちの近代文明を比較している。
本編で開陳された著者の考えは、著者の哲学の粋ともいえる。
人類が推し進めた文明が、極限まで仕事を効率化し、それがブッシュマンの文明では到底たどり着けない進歩を遂げさせたこと。著者はそのことを認める。
だが、ブッシュマンの文化の豊かさと奥深さにも敬意を表し、憧れを隠さない。もはや文明を巻き戻すことはできるはずもないし、著者もそれを望んではいない。
だが、今の文明がどこへ向かっているのかは、著者も想像できていないようだ。

本書が世に出てから、インターネットやAIが現実のものになっている今、著者は何を泉下で思っているのだろう。

‘2019/10/11-2019/10/13


カテゴリ: 読ん読く.
最終更新日: 2月 22, 2021

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