無意識のいたずらかどうかはわからないが、「自殺について」の次に読んだのがこちら。

原哲夫画伯による表紙イラストの男性はおそらく著者だろう。その出で立ちは、世紀末覇者ラオウを連想させる。まさに原作者稼業を生き抜いて来た”漢”を感じさせるに充分の表紙だ。世紀末覇者ラオウとは、漫画「北斗の拳」に登場する日本屈指のヒールキャラである。いや、ヒールというよりも”強敵(とも)”なのかもしれないが。表紙を見ていると、著者が産み出したラオウは、著者自身を投影したキャラクターではないかとも思えてくる。

プロローグに紹介される「北斗の拳」の連載にまつわるエピソードは必読だ。うむ、「北斗の拳」の裏側では原作者の著者、作画の原哲夫氏、編集者H氏といった”漢達”によるかくも熱い闘いが繰り広げられていたのか、とプロローグから興奮させられる。

なにせ「北斗の拳」である。わが少年期を夢中にさせた漫画は多々あるが、その連載期間のほとんどをリアルタイムにジャンプ誌上で一緒に過ごし、コミックス発売のたびに新刊本で買わせた漫画は「北斗の拳」だけだ。確かコミックスを買い始めたのは三巻が発売された頃だったか。牙一族との闘い。身体を鉄みたいに固める例の族長が個性的なあれだ。ほどなく週刊少年ジャンプも買い始めた私は、「北斗の拳」の連載が終わるまで毎週ジャンプ誌上で読み続けることになる。無論、隔月で発売されるコミックスの購入も欠かさず。

これほどまでに私を夢中にさせた漫画の原作者による自伝。さぞや波乱万丈の人生を魅せてくれるのだろう。と思った私の期待は本編に入った途端、はぐらかされる。

というのも、プロローグに続く本編はフィクション小説なのだから。それも著者とは似てもにつかない人物が主役の。IT企業勤務で彼女に振られる29歳の男。それが本編の主人公。えっ?これは著者が”漢”として魅せる壮大なノンフィクションの自伝ではないの?と期待した向きは、私みたいに肩透かしをくらうはずだ。

見事なまでのとぼけ方だ。さすが毎週の過酷な週刊誌連載をやり続けただけのことはある。出だしで読者の心を掴み、締めで翌週へと連載の期待をつなぎ止める。そんな勘所が分かっている著者による、見事というしかない読者への変化球だ。著者の培った原作者としてのツカミの術が惜しみ無く投入されている。

主人公ヨシザワは彼女にふられ、傷心を抱えて呑み屋に足を向ける。そこで編集者達を従え、年甲斐もなく大言壮語、夢を騙り野望をさらけ出す”漢”がいた。ブーやんと人から呼ばれる原作者と思しき怪しげな”漢”。その”漢”こそ著者自身を投影したキャラであることはいうまでもない。

酔った勢いでブーやんの弟子になったヨシザワ。しかし、漫画の原作など書いたこともない。となると、読者はこう想像するはずだ。すでに漫画原作者として大御所の著者が、映画「ベスト・キッド」のミスター・サカタのように主人公を手取り足取り一人前の漫画原作者として育て上げる感動の一大成長記だと。残念。そういう話ではない。百戦錬磨の著者が、そう簡単に予想できる結末を用意するはないのだ。

「はじめに」で著者が書いたように、漫画とは原作者と作画者、そして編集者の間の闘いの所産であるらしい。本書では伊田という一癖ある編集者が主人公をびしびししごく役柄を担う。

つまり、本書は著者自身が自らを客観化し、脇役の老師として漫画原作者の生きざまを語る趣向なのだ。そして本書はそういった形の自伝なのだ。キャラクターを仮想の人物に置き換えただけの。著者は原作者としての自らを、少しひねくれた形で登場させている。著者自身を投影した ブーやんは、主人公の師匠にもならないし、原作者風をひけらかさない。だが、それでいて原作者稼業という仕事は伊田という人物にしっかりと体現させているのだ。

想像するに著者は、漫画原作者としての奥義を自分で掴み取ったのだろう。ノウハウを伝授されたり弟子入りして得たものではない。つまり、漫画原作者の奥義とは、手取り足取り教わるものではない。それは、本書におけるブーやんの立ち位置が師匠格でないことからも明らかだ。ブーやんが本書の中で原作者としての奥義を語ることはほぼないといってよい。むしろ物語においてはトリックスターのような、狂言回しのような役割に甘んじている。伊田は、ヨシザワに原作者としての実際のスキルを教える。だが、その姿は師匠というよりも師範のよう。伊田が主人公に対して伝授するノウハウこそ、著者が長年の原作者稼業で身に付けたスキルに違いない。そして伊田を始めとする漫画編集者達の破戒に満ちた毎日も、実際のそれよりは少し刺激を薄めているにせよ、著者が過ごしてきた実録なのだろう。だが、スキルはあくまでスキル。原作者としての奥義ではない。

あとがきで著者は、このようなノンフィクションを採った理由を、あれこれ試行錯誤のうちにこのような形式に落ち着いたと書いている。でも、そうなるべくしてなったように思えてならない。伝えたくてもしょせん伝えられないもの。それが原作者稼業の秘伝ではないだろうか。

考えてみると、「北斗の拳」の内容にも同じことが言える。

「北斗の拳」の主人公はケンシロウ。一子相伝の北斗神拳の伝承者だ。ということはケンシロウに北斗神拳を伝承した人物がいる。それが師リュウケンだ。「北斗の拳」の全編において、リュウケンは回想シーンで幾度か顔を出す。しかし、回想シーンの中でリュウケンが何らかの型を弟子たちにやって見せることは全くない。私が覚えているリュウケン登場シーンは以下の通りだ。伝承者選びのシーン。伝承者から敗れたラオウの拳を封じようとしてラオウの返り討ちにあうシーン。弟子入りしてきたラオウとトキの兄弟を谷に落とすシーン。あと、ケンシロウに奥義無想転生を教えるシーン。多分それぐらいだろう。だが、伝承者に奥義を伝える場においてすら、無想転生の型をリュウケンが演ずる様子はない。

「北斗の拳」をよむと、ラオウ、トキ、ジャギ、ケンシロウの伝承者候補達は、独学で北斗神拳を会得したかにすら思える。弟子たちに型を伝授しない伝承者リュウケンの姿は奇妙に思えないだろうか。

伝授や伝承に重きを置かない「北斗の拳」の特徴は、ケンシロウから次の伝承者への継承のあり方でも明らかだ。「北斗の拳」の終盤でケンシロウは、ラオウの遺児リュウを供において旅を続ける。だが、その中でケンシロウがリュウに何事かを伝授するシーンは見事までに登場しない。ケンシロウの闘う”漢”の背中をリュウに見せるだけで、伝承はなされたといわんばかりに。ケンシロウに後を託されたリュウは、果たして経絡秘孔の場所を一つでも知っているのだろうか。心配になってしまう。

これほどまでに伝承や継承を書かないのは、原作者である著者の哲学・信念のしわざに違いない。伝承者の物語なのに、伝承行為をことさらに避け続ける物語。「北斗の拳」とはそんな話なのだ。

となると本書でもヨシザワにブーやんが原作者稼業を教えようとしない理由も納得がいく。それは偶然ではなく、著者の信念に従ったからに違いない。ヨシザワは本書において、漫画原作の奥義を自ら掴みとらねばならないのだ。そのため、ヨシザワは一度は漫画原作者の世界を諦め、別の世界で身を立てることになる。だが最後にはそこで得た人生経験を活かし、再び漫画原作に挑戦する。

奥義とは自分の力で掴みとるべし。

これこそが本書に込められた、著者からのメッセージなのだ。

そして私は、そのメッセージを前にして大いにうなづくのだ。独学で俺流。これが今まで歩んできた私の道だ。多分正道からは大きくう回したことだろう。その分、結果としては時間が掛かったかもしれない。でも、自分自身の足で懸命に歩んできたことには自信がある。恥も後悔もない。ITにしろなんにせよ、すべてを独学でやってきたことが無駄でなかったことに自負をもっている。

ひょっとするとそういった私の性質は、少年期に何度も読んだ「北斗の拳」から育まれたのかもしれない。そこまでは言い過ぎだとしても、生まれ付いた独立独歩の性質が「北斗の拳」によってさらに深く彫り上げられた。それが今の私といっても許されるのではないか。

本書を読むことで、私の人生が「北斗の拳」にとても影響されてきたことが分かった。今の私が「北斗の拳」を読み直すとどうなるだろう。案外うなづけるところが多々あるのではないか。それも「あべし!」「あたたたた!!」「たわば!!!」「ひでぶ!!!!」のシーンではなく、いたる所にちりばめられた伝承や継承のあり方について。「北斗の拳」は実家に置きっ放しで、少なくとも十年以上は読んでいない。独立独歩の人生をますます歩みつつある今、原点をあらためて読み直すことで、今の私が「北斗の拳」から何を受け取るのか。とても楽しみだ。

私もまだまだ成長したいし、人生の奥義を極めたい。独学で。俺流で。独歩で。

著者が末文でいったように、「オレはまだまだ死にたくない!」のだから。

‘2016/06/12-2016/06/15


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