本書を読む少し前、「SNSとはライフログツールである」(リンク)というブログを書いた。
また、その記事とは別に、kintone Advent Calenderで「ライフログのkintone盛り alasql仕込みのGoogle Chart添え」(リンク)
というブログも書いた。
記事を二つに分けたのは、ライフログとは何かを考えるにあたり、別稿にしたほうが良いと判断したためだ。
後者の中で、ライフログツールとしてのFourSquareを扱った。そして、論を構築するにあたり、ITジャーナリストの佐々木俊尚氏が著した「キュレーションの時代」(ブログ)で得た知見を援用した。

二つのブログをアップするにあたっては、ライフログに対する根源的な理解をもう少し深めてからにしたかった。
ところが、kintone Advent Calenderには投稿をアップする日が割り当てられており、私には時間がなかった。実はその時、本書はすでに手元にあったというのに。
そしてその時、私は「坂の上の雲」を読むことに夢中だった。私の性分として、何かの本を読んでいるさなかに他の本は読めない。
というわけで、本書を読んだのは、上記ブログを書き上げたあとだった。

本書は当初の目的を逸した後に読んだ。だが、それでも本書は読んで良かったと思う。なぜか。
それは、ライフログの本質について私の考えを補強してくれたからだ。
本書で著者が主張する内容は、私が理解したライフログの本質にほぼ等しい。

ただ、私と著者のアプローチには大きな違いがある。私の場合、ライフログに至った経路はSNSからだった。
ところが著者のアプローチはより根源的な欲求からだ。1998年。著者は、今までに書いた本をデジタル化したいという欲求を抱いた。著者のライフログへの取り組みは、そんな要望から始まった。
雑多な身の回りの書類を次々とスキャンする中で、著者のプロジェクトは着想されたのだという。
その思いつきにひとたび夢中になれば、そこからはありとあらゆるものをスキャニングすればいい。公共機関からの書類。過去の成績表や証書など。著者はありとあらゆるものをスキャンし、デジタルデータに変えてゆく。

デジタルで記録すると同時に元の紙は惜しげもなく捨てる。それは徹底しており、三次元の物体や絵画作品も著者のプロジェクトにとっては例外でない。著者は徹底的に身の回りからものを減らしてゆく。
やがて、著者のそうした活動に賛同するマイクロソフトのエンジニアたちの間で一つのプロジェクトが立ち上がる。その名はマイライフビッツ。
目標は次の二つだったという。

1 ライフログ用のソフトウエアと、記録後の電子記憶を検索して使えるようにするソフトウエアを開発すること。その人の人生や行動に関するさまざまな系列の情報を、さまざまな情報源やデバイスから記録できるソフトウエアにしようと考え、処理をできるだけ簡単で目立たないように、しかも自動的に行えるようにすることを目指した。このソフトウエアは、最終的には膨大な量となる電子記憶を検索したり、整理したり、注釈をつけたり、そこからパターンを抽出したりできるような強力なツールにしなければならない。

2 実際に利用するうえでのライフログの長所、短所、技術的な問題、障害、使い勝手を明らかにすること。僕らはできるだけたくさん試して、どんな感じか確かめてみようと考えた。

この二つの目的を見るだけで、当時のデジタルの未来が見えるようだ。本書によると基礎実験は2001年頃からスタートしたという。
WindowsやOffice、Internet Explorer以外に、そんなプロジェクトがマイクロソフトで立ち上がっていたとは知らなかった。
著者は科学者としての立場から、記憶とは何かという概念から考え始める。手続記憶や意味記憶、エピソード記憶の違い。記憶に頼ったエピソード記憶がいかに当てにならないかの考察。エピソード記憶を補完し、確実な思い出とするためにもデジタルデータは有効であるはず。そうした著者の考察の流れは、私がライフログに求める意義にまさに合致している。

著者はまた、語り継がれるべきその人の物語のためにもライフログを重視する。
そのツールとして著者が推奨するのがスクリーンセーバーだ。私は最近、スクリーンセーバーを使わない。だが、過去の輝かしい写真が次々と表示されることは、ディスプレイの前の人の活力に寄与するのかもしれない。

特にそれが、今はなき親友との思い出の写真であればなおさらだ。
なぜなら、彼と過ごすはずの未来は永久にこないから。
過去を見るな、未来だけ見ろ、と言われても、そこにはともに歩むはずだった親友はいない。親友を忘れろなど、無茶な話だ。

だが、それはあくまで個人的な領域の話だ。
未来を見すえるべきなのは、公的な活動においてのみ。だからライフログは個人的な趣味に過ぎない、と反論を喰らうかもしれない。
でも、そこがライフログにまつわる最大の誤解だ。そもそも、人の活動を公的な部分と私的な部分で切り分けなさいという主張自体が非現実的だと思う。
その矛盾は、ライフログをビジネスログとして読み替えた場合によく理解できる。
ビジネスの場合、ログを取るのは必須だ。顧客への販売履歴。顧客への訪問履歴。顧客との対応履歴。社員の職歴、業務の引き継ぎ。どれもビジネスログだ。それらが抜け落ちていた場合の弊害は、仕事をしている方ならすぐに理解できるはずだ。

ところが、ビジネスログを取る必然は認めるのに、ライフログを取ることについては、人は途端に消極的になる。
経営に管理や決算が欠かせなくて、総括や計画にもログが必要であるなら、人の人生にも計画があり、管理があり、総括や計画があるべきなのだ。
本書はビジネスログとライフログが表裏一体である事を事例を挙げて証明する。そのすべてに同意する。そして私が冒頭に書いた二つのブログで触れられなかった観点こそ、ビジネスログとライフログが不可分の関係にあることだ。

著者は続いて、健康や学習、現世から来世へ、という視点から実用的なライフログの長所を述べる。
そうした全ては、私の以前からの考えにも合致する。

なお、著者はそうしたライフログは原則として公開すべきではないと考える。公開するしないは、あくまでも人の自由とした上で。
では、私が上記ブログで書いた「SNSはライフログツール」という考えに著者は同意するのだろうか。
私はきっとしてもらえるはずだと考える。
なぜなら私がSNSでアップする日々の内容など、私のライフログにとってはほんのわずかでしかないからだ。
その都度のつぶやき、今日の写真付き日記、考えている意見の表明など、私にとっては知られても全く差し障りのないことだ。
本書はソフトウエアのバグやハッキングによるデータ漏洩のリスクについては深く考察しない。
そして、本当にバレるとやばいような個人情報は、スイス銀行の貸金庫のようなサービスを推奨している。

本来、私たちにとってバレると問題がある情報とは未来に影響する情報だ。
病歴、収入、性癖、個人を特定する情報は未来の生活に影響を与える。そして、そうした情報は公開されるべきではない。
だが、過去に行った行動や履歴などの情報は、たとえバレたところで未来に影響さえしなければよいはずだ。
多分、私のその考えに著者は同意してくれるはずだと思う。

実際、私はSNSをそのように書いている。過去の履歴は書くが、未来のことはあまり書かない。せいぜい、自らが主宰するイベントの告知ぐらいだろう。だから、私にとってFacebookの嫌いなところは、イベント参加予定が公開されることだ。当然、自分の未来の予定もできるだけSNSには書かないことにしている。

だが、そうしたことに注意さえすれば、ライフログの有用性に疑いはないと思う。
未来を有益に変えるための行動を取るには、過去をひきずってはならない。当然のことだ。そして、未来を有益に変えるためには、過去を思い出すための時間を取る暇はない。もったいないからだ。過去を思い出すのが大変ならば、記憶をデジタルに委ねてしまえばいい。理路は整然としている。

著者はライフログを実践するためのウエアラブル機器(センスカムなど)も含め、さまざまなツールを提案する。パソコンやスマホのタブレットの利用法やソフトウエアも提案する。本書が出版されてから10年後の今なら、著者はGoProやドローンやApple Watchも推奨することだろう。

さらに著者は起業家のためのサービスまで提案する。
本書に提案されている10のサービスのうち、どこまでがサービスとして提供されているのかわからない。だが、その中でも来世をデジタルで表す試みは興味深い。
オンラインストレージサービスでどこまでこれらのライフログのためのサービスが提供されているのかも分からない。だが、いずれは出てくるはずだ。

最後に著者は、千年後の未来まであらゆる人がライフログを残し続けた場合、記憶容量に限界が来るかもしれないとの懸念は表明している。それはもっともだ。
だからこそ、ライフログの概念が広まっていない今、未来の人類に二十一世紀初頭の時代精神をライフログとして残すという、私がブログで書いたことは有効なのだと思う。

‘2018/12/26-2018/12/30


カテゴリ: 読ん読く.
最終更新日: 2月 15, 2020

One thought on “ライフログのすすめ―人生の「すべて」デジタルに記録する!

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