フィリップ・K・ディックといえば、SF作家の巨匠として知られる。

映画化された作品は数多い。だが、著者はとうの昔に世を去っている。没年が1982年というから亡くなって30年以上経つ。それなのに2010年代になってもなお映像化された作品がスクリーンを賑わしている。こんなSF作家は著者だけかもしれない。

本書に収められた短編のうち最近のものは「凍った旅」だ。この作品は1980年に発表されている。1980年といえばインターネットどころか、マッキントッシュやウィンドウズが生まれたての頃だ。インターネットはまだ軍事用の連絡手段としてごくごく一部の人間にしか開放されていなかった時期。ネットライフなど、SF作家の脳内にも存在したか怪しい。著者が脂に乗っていた世代はさらに二世代ほど遡る。本書に収められた作品の多くはそのような時代に着想された。

そんな古き良き時代に産み出された著者の作品が、現代でもなお映像化されるのは何故だろう。

本書に収められた短編にはその疑問を解き明かす鍵が隠れている。

それは人の心を描いている、ということではないか。人の心の作用は、技術が発達した今もまだ闇の中だ。人工知能が当たり前となった現代にあっても、人の心の深淵は未知。精神医学も脳神経学も、脳波や言動といった表面に聴診器を当てて心の動きを推し量っているにすぎない。

つまり、著者の扱うSF的な主題は、今なおSFとして通用するのだ。たとえ道具立てが古びていようとも。そんなものは映像に表現する際に最新の意匠を当てはめれば済む。それだけの話だ。ここにこそ今なお著者の作品が映像化される理由が隠れていると思う。

その点を以下に示してみよう。

「アジャストメント」
2011年にマット・デイモン主演で映画化された。本編では、環境が人の心が作り出したものか、それとも環境があってその中に人の意識が作動するか、いわゆる唯物論と唯識論が取り上げられている。

「ルーグ」
犬と人間の交流の断絶を描いている。つまり、犬の心と人間の心は吠え声を通してしか繋がり得ないという事だ。犬が絶望的にいくら泣き喚こうが、人間にはただのうるさい無駄吠えとしか聞こえない事実。

「ウーブ身重く横たわる」
心のタブーの産まれる所に切り込んだ著者のデビュー作。何がタブーを作り出すのかがとても鮮やかに描かれる。

「にせもの」
ぼくがぼくだということを示す方法。記憶も自我もコピーされたとして、果たして自分が自分であることをどうやって証明すればよいか。自我のあり方について鋭くえぐった一編だ。

「くずれてしまえ」
本編は、心が陥る怠惰の罠を書いている。もしくは想像力の涸渇と言い換えてもよい。なんでもコピー自在な異種生物によって支えられた世界。それが崩壊して行く様。なにやら技術に依存しきった人類の未来を描いているようで不気味な一編。

「消耗員」
この一編は心とはあまり関係なさそうだ。いわゆる異種=虫とのファンタジー。

「おお! ブローベルとなりて」
本編は、同族以外のものを排除しようとする差別意識をテーマとしている。

「ぶざまなオルフェウス」
本編は、芸術家や歴史に名を残す人物に降り立つ霊感を扱っている。いわゆるひらめき。著者自身が登場するのも笑える。歴史改変ものでタイム・パラドックスに無頓着なのはご愛嬌だ。

「父祖の信仰」
信仰と忠誠の話だ。もしくは個人と組織の対立と言い換えてよいかもしれない。薬が登場するが、それは信仰や忠誠の媒介を象徴しているのだろう。そういった媒介物があって初めて、信仰や忠誠は成り立つのかもしれない。むしろ、成り立たないのだろう。

「電気蟻」
本編はロボットの自我の話だ。自我に気づいたロボットが自殺する話。これは、心の自律性を風刺していると思われる。

「凍った旅」
本編は、記憶や幼き日のトラウマの深刻さを描いている。長期睡眠者の意識だけが目覚めた中、宇宙船の統御コンピュータが、長期睡眠者の精神ケアのため、時間稼ぎに幼い日々の記憶を蘇らせる話だ。全てを暗く自虐的に受け取ってしまう長期睡眠者の心の闇が、ケアされていく様子が描かれている。

「さよなら、ヴィンセント」
これはリンダ人形のモデルのリンダについての物語だ。何かせずには自分のありようを確かめられない。そんな心の弱さが簡潔に記されている。

「人間とアンドロイドと機械」
これは著者のエッセイだ。内容や主旨がかなり回りくどく説明されており、全貌を把握することは難しい。私が受け取った著者のメッセージは、人間とアンドロイドと機械を厳密に区別する術はないということだ。自我よりも行動様式、もしくは存在論にまで話は及ぶ。その該博なエッセイの中で著者の結論を見出すのは難しい。結局は人間的な属性などどこにもない、という結論だと思ったが、どうだろうか。

‘2016/04/14-2016/04/20


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