物事をあるがままに見ようとしても、様々な錯視の実例を見る度に、自分の見ている物についての確信が揺らいでくる。それと同じく、自分の考えというものを確立しようと思う度に、考えの立脚点を強固な地に置いたつもりが、実はいびつだったと思い知らされることがいかに多いか。

養老氏の著作を読むたびにそういう思いに駆られる。今回、2011年の締めくくりとして自らの未熟さを思い知った上で、新年を迎えるにあたっての戒めとしようという思いから本書を手に取った。今回対談相手を務めている内田氏、実は著作はおろか、雑誌などでも論考を目にしたことがなく、期待感とともに読み進めた。

帯や背表紙などで、色んな論点に飛び回っての自由な対談であることは予想していたけれど、期待通りの内容。逆に期待と違ったのは、自らの論考の錯覚に気付かされた箇所が少なく、予てより考えていた自分の論点について、わが意を得たり、という意見が数か所あったのも、収穫であろうか。

たとえばユダヤ人については、私も教科書的な知識しかもっていなかったけれど、そもそもユダヤ人の定義自体が学術的にあいまいなことを通じて、二人でユダヤ人の定義に迫ろうと試みる部分、実はこの部分は日本人とは何かという考えに通ずる部分があり、意識がそもそも根源的な遅れを経て言葉として発せられる、つまりそこからあらゆるアイデアの元を追求することに英知への入り口があるというくだり、感銘を受けた。

個人情報保護法に関する部分もわが意を得たりと頷けた。情報産業に関わる私、直接的に情報保護については関与することも多いけれど、昔から情報保護というお題目にある種のもやもや感を抱いたままだった。本書を通じてそのもやもや感が大分整理された気がする。2012年に入ってmixi上にてSNSとの関わりを変えていく、という宣言をしたのだけれど、匿名か実名か、というSNSを使い分ける際の大きな問題について吹っ切れたこともあり、2012年からは実名アカウントであるFacebookへのかかわりを強めるきっかけとなったのが本書とも言える。

あまりにも対談のテーマが広く、それぞれの論点で私の意見を開陳すると冗長になるためこれ以上は書かないけれど、色々な論点について、その根源となるさらなる論点が潜んでいることに思いを致すことなく考えを述べている自分を戒めつつ、精進をしたいと思った。いい本で一年の読書体験を締めくくることが出来、満足である。

’11/12/27-’11/12/31


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