「この印籠が目に入らぬか!」という、助さん角さんのお馴染みの台詞。この台詞は本書には登場しない。それどころか、白髭を垂らし、諸国を漫遊する黄門様の姿すら出てこない。

その替わりに出てくるのは、権威を恐れぬ傾奇者としての、詩で天下を取らんとする文人としての、暗殺術に長け堂々と立ち居振る舞う武人としての光圀公だ。

時代劇で定着した好好爺の黄門様のイメージ。著者は本書でそのような定型的な黄門様のイメージを覆すことに腐心している。そしてそのことに成功している。さらには旧来のイメージを覆すだけにとどまらず、より魅力的な黄門様のイメージを作り上げさえもしている。

兄を差し置いて世継ぎとなった幼少期。父から試され続け、兄に戦いを挑む子供の頃。やんちゃな童が活き活きと描かれている。

青年期は、無頼に明け暮れているかと思えば、沢庵和尚や宮本武蔵といった文武の師を得る。生涯の志を史学や文の世界に立てつつ、その分野で終の友人を得る。そうかと思えば遊廓で遊び、真剣な恋で子をなす一方で、包容力に溢れた公家出身の妻を得る。

藩主としては、江戸を襲う大火に立ち向かい、妻を、水魚の交わりを成した友を無くし、藩主の仕事に汲々とし、志を見失いそうになる日々。

中年にさしかかり、渋川春海の知己を得て、腹心の理解者に廻り合い、再び史書編纂に取り掛かる光圀公。幼き日に兄を差し置いて世継ぎとなったことが光圀公には義の喪失として傷心の原因になっていたが、兄の子を跡継ぎに迎えることで義を世に問う。

壮年に入ってからは将軍綱吉の器の小ささに怒り、天下の副将軍として、文武に名を馳せる。

本書では光圀公の生涯が詳らかとなる。黄門さまのイメージで固定されていた読者は、テレビの画面から連想される人物像とは真逆の、有為転変に翻弄された人生を知って驚きを感じるかもしれない。少なくとも私は光圀公の生涯に胸打たれた。私はブラウン管の中の好々爺のイメージでしか光圀公を観ていなかった。実に申し訳ない気持ちである。

公が世に出る少し前に収束した戦国の世とは、武人が思うがまま荒ぶる心を疾駆させ得た時代であった。また、荒ぶる心こそが正義とされた時代でもあった。しかし、公の生涯は戦国が一段落した時期にほぼ重なる。

本書には一貫しているテーマがある。それは、平和な世に何をもって身を立て、いかなる義を全うするかという問いである。戦時にあっては勇名を馳せたであろう光圀公。平時にあって、しかも生まれながらに立身出世が約束された出自にあって、何をもって自分の生の証しとするか。

敢えて云えば時代に遅れて生まれてしまったとも云える公の、一生を掛けた苦闘こそが本書を貫いている。冒頭に現代の水戸黄門の時代劇に触れた。そこでは単純明快な勧善懲悪の世界観に終始している。が、光圀公の生涯は勧善懲悪どころではない。戦う相手はまず自分だったのだ。自分が相応しくなければ時代でもいい。

一般に膾炙した好好爺の顔の裏には、生涯を生き切った、一人の武士の苦しみがある。

本書は公自ら手掛けた暗殺のシーンで幕を開ける。なにゆえ腹心の家老を殺めなければならなかったのか。随所に挟まれた公の回顧録からは、公の生きてきた生の真摯さ、そして宿老をも殺めなければならない藩主としての、君主としての苦さが見え隠れする。

人を殺め、人に去られてもなお、史書にこそ、人の生きた生が残る。自分の人生を史書に託し、僅かな望みを後世に遺そうとした光圀公。平成の現代にあって、漫遊する黄門さまとしての自分のイメージを見たとすれば、果たしてどう思うか。おそらくは苦笑することだろう。そして自らが生涯のよりどころとした史書の力が何の力も及ぼしていないことにやれやれ、と思うのだろう。

だが、光圀公が為した史書編纂の事業は、我々の日本史の授業の中に確実に継承されているはずである。ただ、惜しいことに史書は編年体としてしか伝わらなかった。人物を描く紀伝体については、特定の人物しか伝わり切れていない。特に光圀公自身については、マスメディアという娯楽の中にしか伝わっていない。本書は、そのようなマスメディアに毒され、水戸黄門という十把一絡げの認識しか持たない私のような人にお勧めの一冊といえる。

‘2015/6/28-2015/7/3


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