ラテンアメリカ文学といえば、マジックリアリズムとして知られる。写実的な描写の中、現実ではありえない出来事が繰り広げられ、読者は著者の術中に喜んではめられる。

本書もまた、マジックリアリズムの黄金の系譜に連なろうと目論む一冊といえる。というのも、本書の内容は明らかにその路線を狙っているからである。マジックリアリズムの骨格に、料理という万人の好むスパイスと猟奇食という奇人の好む劇薬をまぶし、それをブエノスアイレス食堂というレストランの盛衰記で彩ったのが本書といえる。

本書は赤ん坊であるセサル・ロンブローソが母を食するという衝撃から幕を開ける。衝撃の舞台となったのはブエノスアイレス食堂。なぜ食堂を名乗りながら母は餓死を余儀なくされたのか。なぜこの食堂が凄惨な場面の舞台とならねばならないのか。冒頭から読者を惹きつける本書は、そこから歴史を一気に遡る。そして、食堂の歴史とアルゼンチンの歴史を糾える縄のように描きながら、現代へと至る。

食堂を開いたカリオストロ兄弟が著した、南海の料理指南書。この料理本を軸に旨そうな料理の数々が本書では登場する。アルゼンチンへとイタリアからの移民が押し寄せ、華麗なるバンドネオンの音色がタンゴのリズムを奏でる中、第一次大戦にあってアルゼンチンは好況を享受する。そして好況とともに食堂は繁栄を極める。しかし、アルゼンチンの好況は長くは続かない。度重なるクーデターや内戦、第二次大戦後のナチス高官達の秘密裏の亡命やフアン・ペロン政権とエビータ体制の終焉など、アルゼンチンは世界の近代化に逆行して徐々に衰えてゆく。本書は、近代アルゼンチン史を一巻の絵巻物で傍観させられているかのようだ。しかし、本書はアルゼンチンの歴史書ではない。あくまでブエノスアイレス食堂の歴史書である。退廃を極めては、一転して閑散とする食堂の栄枯盛衰。それをアルゼンチンの歴史のうねりに絡めながら、そこに集う人々の営みとして描く。さながら、ブエノスアイレス食堂という共同体の視点から、アルゼンチンという国を描いているのが本書といってもよいだろう。

美食といえばフランスがまず頭に浮かぶ。しかし、フランス料理も元を辿ればイタリア料理を源としていることはよく知られている。同じように、南米のアルゼンチンにイタリア料理が花開く本書は、一つの文化が伝播していき、そこで消え細っていく様を描いているかのようだ。カリオストロ兄弟の料理指南書には確かに人肉食が究極の料理として描かれている。しかし自家中毒のように子を母が食べるという営みは、究極もよいところで、もはやその先の希望がない行為だ。

フランスでは文化として認められた料理が、アルゼンチンではなぜ人肉食という奇形に堕ちるのか。少なくとも人間の死肉を赤ん坊に食べさせるといった冒頭のシーンはアルゼンチンの歴史に対する重大な侮辱になっている気がしてならない。ナチス残党の逃げ込み場として知られるアルゼンチンを、著者は退廃した文化の吹き溜まりとして書こうとしたのだろうか。または、ゆっくりと熟し腐ってゆくアルゼンチン文化に対する強烈な風刺として本書は著されたのだろうか。であるならば、赤ん坊とネズミに食べられ骸骨となる母の姿は、アルゼンチンにとって痛烈な予言に他ならない。

私はアルゼンチン文化の愛好家とまではいかないが、常々好意的に見ている。キラ星のようなサッカーのスター選手達。ラテンアメリカ文学の数々の巨匠たち。タンゴの魅惑的で軽快なリズム。地球の裏側の国という一番日本からは地理的に遠い国だが、心理的な距離は逆に近しいものとして受け止めている。アルゼンチン文化にはまだまだ世界を驚嘆せしめるだけの成果を産み出して欲しいと思うのは私だけではないはず。かつて文化的に成熟した国の成れの果てが、飢え乾いた自家中毒の如き人肉食なのはあまりにもさびしい。

‘2015/7/3-2015/7/6


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