著者の民俗学・妖怪学への造詣の深さが尋常ではないことは、今さら言うまでもない。そのことは、京極堂シリーズをはじめとした著作のなかで実証済みだ。両方の学問に通じた著者は、妖怪の産まれ出でる背景にも造詣が深い。著者の代表作でもある「嗤う伊右衛門」や「覘き小平次」や「数えずの井戸」は、いずれも著名な怪談噺に着想を得ている。妖怪がなぜ産まれるのか、についての深い知識を有する著者ならではの作品といえる。妖怪の産まれ出でる背景とは、開放的でありながら、陰にこもったような日本家屋の間取りをいう。かつて陰翳禮讚の中で大谷崎が詳細に述べたような陰翳の多彩な空間から、妖怪は産まれ出でる。

著者の書く物語、特に本書ではそのあたりが濃密に意識されている。

ただし、本書に収められた小編が家屋を舞台としているわけでない。見世物小屋や温泉旅館、街並みなど、多彩な舞台が用意されている。舞台はそれぞれだが、陰影の醸し出す不安感、畏れがいずれの小編にも濃密に描かれている。

著者は本邦における妖怪の第一人者だけに、闇に潜むモノ、蠢く怪したちの棲む陰影を小説のモチーフとして見逃すはずはない。我が国において産まれ消えていった幾多の妖怪たち。それらを産み出した陰影とそこに棲むモノへの畏れ。著者は本書において、陰影に拘りをもって物語の背景を描く事に筆を費やす。

陰に濃淡を与えるのは、何も光の加減によってのものだけではない。浮世を渡る快活な人々の狭間にも陰は生じる。快活な人々の谷間で世をやっかむように浮世を徘徊する「常ならぬ人」もまた人間の陰を体現している。また、晴朗な精神がふとした拍子に変調し、その途端、曇天の下に隠れるように暗く覆われる心の動きも陰を表現している。とかく世の中にはそのような陰が至る所にある。その影について本書は究める。妖怪が産まれいずる場所を探し求めて。本書には、それら陰影から妖怪が産みだされる瞬間を切り取り、物語として織り上げた成果が収められている。

考えると、今まで著者が世に出した作品のほとんどは、既存の妖怪を下敷きにしていたように思う。先に上げた三作や京極堂シリーズなどはそうだった。しかし本書では、そのような手法から一歩踏み出している。妖怪の産まれる舞台や人の抱く畏れを描き出すことで、著者は新たな妖怪を創造している。伝承や口伝、民話には頼らずに新たな妖怪を創造することは、云う程に容易いことではない。凄いことというしかない。

本書は8編から成っている。

「便所の神様」は、日本家屋の不気味な陰々とした気配の中に棲む、怪しを描いている。本編では家屋の滅滅とした気配のおおもとを執拗に描写する。その描写は視覚だけではない。臭気までをも執拗に描写する。トイレではなく便所。今の水洗トイレからは徹底的に締め出され、蓋をされた便所の匂い。家の汚濁が全て集積した場所。著者の筆は匂いを徹底して描き、暴き立てる。そこに何があるのか、その匂いの中心にいるのは・・・あやしの爺。

「歪み観音」は、本編の中では毛色の変わった短編である。主人公は高校生の女の子。会話からして今風で、出てくる言葉もCGやら食洗機やら。陰影など出てくる余地がなさそう。しかし、そうではない。女の子の陰。目に映るものすべてが歪む心の陰が執拗に描き尽される。心の中の歪みそのものが妖怪であるかのように。主人公の女の子は歪んだ世の中を成敗するかのように観音様に罰当たりな行為をする。その瞬間、女の子の心の歪みは歪んだ世界に同化する。うつつか夢か、夢か歪みか。まさに妖怪の産まれた瞬間である。

「見世物姥」は、昔の縁日でよく出ていたという見世物小屋に舞台を借りた一編。見世物小屋は、その特異な怪しさから言って日本の怪談にとって欠かせない舞台装置だと思う。本編では神隠しと見世物小屋という二つの怪談要素を複合させ、一編の怪談として仕立てあげている。かつての少年にとって、夜店の雰囲気は魅惑的な大人の世界の入り口として避けて通れない存在だった。私にとってもその想い出は強く残っている。本編の主人公のように幼馴染の女の子を連れて行ったら神隠しにあったという経験は、少年の心に決定的に妖怪の存在を刻印したことだろう。

「もくちゃん」は、あるいは本書の中でも一番の問題作かもしれない。私の幼少期には、家の近所に少しおかしな人が普通に住んでいた。子どもの頃は気になったけれど、忙しい大人になると急に見えなくなってしまうおかしな人。本編ではそのおかしな人に憑かれてしまう恐ろしさを描いている。決して悪気がなさそうなのに、何を考えているか分からないおかしな人。本編では注意深く言葉狩りに遭いそうな語彙は避けられている。そういった語彙は出さないが、本編はおかしな人が妖怪に変わる瞬間を描く。かなり印象に残る一編である。妖怪の本質とは、人の心に棲む畏れが変化したものなのだろう。その変化は、こういったおかしな人への畏れからも産まれるともいえる。これは差別意識を通り越した、普遍的な人の心の有りようなのかもしれない。

「シリミズさん」は、「便所の神様」にも通ずる家屋の闇を描いた一編。とはいえ、本編は陰惨な様子は描かれない。その替り描かれるのは付喪神が憑いていそうな古い家屋に、来歴不明で祀られ続けている謎の生物である。本編の語り口は実に軽い。敢えて陰影を遠ざけるかのように軽い語り口で語られる。しかし起こる出来事は支離滅裂で怪異の極みである。産まれいずるというより、そこに前からいた妖怪の不条理を描いた一編である。産まれるのではなく、元から或るというのも妖怪の存在様式の一つであることを描いている。

「杜鵑乃湯」は、ひなびた温泉旅館に起こる怪異を描いた一編である。離れにある不気味な湯に取り込まれる男の心理描写が秀逸である。妖怪とは怪異とは、心に疚しい思いを抱く者の心に容易に現れ、その者を容易く取り込んでしまう。まさに本編は自らの心が産み出した妖怪に取り込まれる男の自滅を、ホラータッチで描いている。本書の中では唯一怪談ではなくホラーに相応しい一編といえる。読んでいて怖気に襲われた。

「けしに坂」は、前の一編と同じく心に疚しさを抱える男の産みだす物語である。本編に登場するのは幽霊。舞台も葬式。葬式の場で、無意識に秘めた罪悪感が次々と男の視界に怪異と幽霊を産み出す。妖怪が産まれるのが、心の闇や陰であることを示す一編である。

「むかし塚」は、時間の流れをうまく使った一編。時の流れに沿って思い出が消え去り、街並みも変わっていく。その時間の中で浄化される想い出もあれば、変質してしまう思いでもある。その時間の経過は人の心に陰を落とし、怪しの跋扈する隙を与える。まるで百年経った道具が妖怪に変わるかのように。本編では子供の頃に借りたマイナーな漫画という小道具で、その想い出の陰影を色濃く出している。

‘2014/11/23-2014/11/28


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