『ミスター・メルセデス』は、ホラーの巨匠がミステリ作家としても一流である事を証明した。とても面白かった。

本書はその続編にあたる。だから、本書を読むのはなるべく『ミスター・メルセデス』を読んでからの方がいい。なぜなら本書は『ミスター・メルセデス』のエピソードに頻繁に触れるからだ。もちろん、知らなくても本書の面白さは折り紙が付けられる。でも、読んでおいた方がさらに面白くなるはずだ。

私は著者の作品のほとんどを読んでいる。そして、あまりハズレを引いた経験がない。著書がストーリー・テラーとして信頼できる作家であることに間違いはない。そう思っている。私は本書を読みながら、その面白さがどこから来るのか確かめたいと思った。本書はミステリ小説として書かれている。つまり、超常現象には頼れない。また、読者に対してフェアな書き方が求められる。本書を読み込めば、著者のストーリーテリングの肝が会得できるのでは、と思った。

そんな意気込みで読み始めたが、面白さに負けて一気に読んでしまった。さすがの安定感だ。

本作の粗筋はこうだ。現代アメリカ文学の大家として名声を得たロススティーン。最後に作品を発表してから10数年が過ぎ、世間からは引退したと思われている。そんな田舎に隠棲したままの大家のすみかに三人の強盗が押し入る。強盗のボス格ベラミーが狙っていたのは金だけではなく、ロススティーンが書き溜めているとうわさされていたジミー・ゴールド・シリーズの未発表原稿。ジミー・ゴールドに心酔していたベラミーは、ロススティーンがシリーズの最終作でジミー・ゴールドを平穏な小市民として終わらせたことに納得がいかない。押し入ったその場でロススティーンにそのことを問いただし、激怒のあまり撃ち殺してしまう。

ベラミーは、未発表原稿の束や現金とともに現場から逃亡する。そして、一緒に逃亡する仲間を途中で殺し、身をひそめるため故郷に帰ってくる。故郷で身を隠しつつ、ゆっくりとジミー・ゴールド・シリーズの最新作を読もうと思っていた。自らの望むジミー・ゴールドのその後が知りたくて。ところがロススティーン殺害のニュースは故郷にも届いており、かねてからロススティーンへのベラミーの偏執をしっていた友人のアンディーは、ベラミーに未発表原稿や金の詰まったトランクを隠すよう忠告する。その忠告に従ったベラミーはトランクを隠した後、酒を飲みにバーにしけこむ。そして強姦事件を起こす。それがもとで36年間の長きにわたって投獄されてしまう。

36年後、ベラミーが住んでいた家にはソウバーズ一家が住んでいた。そして、ソウバーズ家は、家長が職を失ってしまう困窮の中にあった。『ミスター・メルセデス』がひき起こした大量ひき逃げ暴走事件によって体にダメージを負ったからだ。そんな中、13歳の長男ピートは、偶然にもかつてベラミーが埋めたトランクを見つけ出す。そして一家の困窮を救うために、トランクに詰まっていた金を匿名で自分自身の家に送る。さらに、その中に隠された未発表原稿を読み、文学に目覚める。ところが、一家の経済状況は一息ついたとはいえ、妹のティナの進学費用が工面できない。そこでピートはロススティーンの未発表原稿をアンディーの経営する稀覯本の店に持ち込む。そして足元を見られたアンディーに逆に脅される。ベラミーが仮釈放を勝ち取ったのは、ちょうどその時。仮釈放で保護観察中の身でありながら、さっそく36年前に隠したトランクを掘り出したベラミーは、その中が空になっていることを知る。36年の月日が彼の未発表原稿への狂気を熟成させ、それが盗まれたとしったベラミーの理性は沸騰し、その刃はかつての旧友アンディーに向けられる。

今回、私は本書を分析的な眼で読もうとした。それだからだろうか、一つの大きな傷を見つけた。

まず、ストーリーの構成だ。事件が起こるタイミングに作者の意思が見え隠れする。それはつまり、作者のストーリー展開の都合に合わせて登場人物が動かされていることを示す。登場人物が、著者の組み立てたプロットの上で動かされる。その感覚は本当に優れている小説を読むと感じないものだ。だが、本書からはその感覚が感じられた。著者の今までの優れた傑作群には見られなかったように思う。

もちろん、今までの著者の作品にも著者の作為は見受けられた。著者の作品では多くの登場人物が交わり合い、感情をぶつけ合う。その中には、著者によって仕組まれた偶然の出会いや偶然の産物から生まれた悲喜劇も含まれる。それは当然のことだ。たくさんの人々を自在に操る手腕こそが著者を巨匠の高みに押し上げたのだから。そもそも小説である以上、全てが著者の作為の結果でしかない。だからこそ、それをいかにして自然に見せるが作家の腕の見せ所なのだ。それを巧みに紡ぐ筆力こそ、ベストセラー作家とその他の作家を分ける違いではないだろうか。

本書は、著者の作為がうまくストーリーの中に隠し切れていない。「神の手=著者の筆」が随所に見えてしまっている。むろん、登場人物の動きは可能な限り自然に描かれていた。だが、出獄したベラミーが、自らが過去に埋めたトランクの中身がからになっていることに気づくタイミングと、ピートがその中身を稀覯書店主のアンディに持ち込み、逆に脅されるタイミングの一致。それは、ミステリーとしての整合性を優先させるため、著者が仕組んだ都合の良さに思えた。今までの著者の作品には、人物が著者の都合に合わせることが感じられなかった。多分、多数の登場人物が入り乱れる中、そこまで気にしなかったのだろう。だが、本作は、ピートとベラミーとアンディの動きが胆となる。だから、この三人の動きがクローズアップされ、その行動があまりにも筋書きにはまっていると不自然に感じてしまうのだ。

ただし、かつて殺した大作家の遺稿を隠した後、長年にわたって別件で投獄されていたベラミーが原稿を読みたいという動機については納得できる。著者は作品の中で、小説作品や作家を題材にすることがある。本書でもそれが存分に発揮されていたと思う。なぜベラミーはそれほどまでにロススティーンの遺稿に執着するのか。なぜベラミーはロススティーンを撃たねばならなかったのか。本書は事件の発端を描くことに紙数を費やし、ベラミーの動機を詳細に描いている。そうしないと本書の構成そのものが乱れてしまうからだ。著者はその動機を丁寧に描いている。おそらくは著者にとって最も苦労したのではないだろうか。

ところが、動機に多くの労力を割いて丁寧に描いた割に、ベラミーの出獄とピートの行動、そしてピートがアンディと交渉するタイミングがあまりにも近すぎる。保護観察中のベラミーの狂気がアンディーに向かい、その場にピートを引き寄せてしまう。もちろん、ストーリーの展開上、行動人物の動きを同じ時期に合わせなければならないのは分かる。だが、登場人物の動かし方に、あと少しの工夫があっても良かったと思う。著者の今までの作品には、その工夫が絶妙に施されていたような気がする。

本作は、動機をきちんと説明していたのに、イベントのリンクの繋げかたを少々焦りすぎたような気がする。

‘2018/06/30-2018/06/30


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