本書はMWA(アメリカ探偵作家クラブ)のエドガー賞(最優秀長編賞)とCWA(英国推理作家協会)のイアン・フレミング・スティール・ダガー賞を受賞している。受賞作品という冠は、本書の場合、本物だ。だてに受賞したわけではない。登場人物の造形、事件、謎、スリリングな展開、それらが本書にはそろっている。傑作というしかない。

本書には設定からしてユニークな点が多い。まず、本書の主人公はしゃべれない。八歳の時に起こった事件がもとで言葉を失ってしまったのだ。だから主人公は言葉を発しないけれど、主人公の心の動きは理解ができる。それは、主人公の視点で描かれているからだ。口に出して意志は伝えられないが、独白の形で主人公の心が読者には伝えられる。ているの動き、感情、そして読者は口がきけないことが思考にどう影響を与えるかを想いながら本書を読むことになる。マイク、またの名を奇跡の少年、ミルフォードの声なし、金の卵、若きゴースト、小僧、金庫破り、解錠師と呼ばれた男の物語を。

本書は、刑務所にいるマイクの独白で展開する。そのため、複数の時代が交互に登場する。最初は分かりにくいかもしれないが、著者も訳者も細心の注意を払ってくれているので、まず戸惑うことはないはずだ。それぞれの章の頭にはその時代が年月で書かれているし。

しゃべれなくなったマイクは、叔父リートの店を手伝いながら、店の古い錠前で錠前破りに興味を持ちつつ、コミュニケーション障害を持つ子供たちの学校に通う。進学した健常者の高校では絵の才能が開花する。そして親友のグリフィンと会う。しかしその出会いから、マイクの運命は変転を加えていくことになる。

卒業記念に強盗という無法を働こうとしたグループにグリフィンと巻き込まれたマイクは、押し入ったマーシュ家で独り捕まる。そこからマイクの運命はさらに変転を重ねる。マーシュ家で保護観察期間のプログラムとしてプール作りの労働に励むことになったマイク。そこでマイクは錠前破りの弟子としての道を示され、さらにマーシュの娘アメリアに出会う。マイクは錠前破りのプロとして独り立ちし、たくさんの犯罪現場の場数を踏む。その後もマイクの独房での独白は進んでゆくのだが、それ以上は語らないでおきたい。

本書のユニークな点は、錠前破りの論理的な部分を図解なしで紹介することにある。金庫の錠前を破るにはロジックの理解と指先の微妙な感覚を検知する能力が求められる。シリンダーの細かい組み合わせと、そのわずかなひっかかりを基に正しい組み合わせを逆算出するのだから当然だ。もちろん、本書を読んだだけで誰でも錠前破りになれるわけではない。だが、図解なしにそういったセンシティブな部分を書き込むにはかなりの労力を要したことだろう。著者略歴によれば著者はIBM出身だそうだ。本書のロジカルな部分にIBMのセンスが現れている。

だが、本書で見逃せないユニークな点は、マイクとアメリアの間に交わされる絵によるコミュニケーションだ。最初はマイクからアメリアへのポートレイトのプレゼントから始まる。夜間にマーシュ家に忍び込み、寝ているアメリアの横にポートレイトを置いて帰るという向こう見ずな行い。それに気づいたアメリカからの返信の絵。寝室で合った二人は、声を交わす前からすでに恋人同士のコミュニケーションが成り立っている。

むしろ本書は、マイクとアメリアの若い恋人によるラブストーリーと読んでもよいかもしれない。声が出せなくても、マイクには絵という感情と、表情と身ぶりでを想いを伝える手段がある。声を出さないことでアメリアへの思いが発散し、薄れてしまわないように。マイクの内に秘めた熱い感情は声なしでアメリアに伝わってゆく。声というのはもっとも簡単な伝達手段だ。だが、たとえ声が出せなくても絶望することはないのだ。マイクからは口がきけないことを後ろ向きに感じさせない強さがある。

先に、著者がIBM出身であることを書いた。IBMは声を使わない情報伝達を本業としている。そんなIBM出身の著者だからこそ、口がきけないマイクとアメリアの交流を考え付いたのだろうか。多分、ヒントにはなったかもしれないが、それ以上に著者は考えたはずだ。口を使わない情報伝達の限界を。それは単にロジックを考えればよい問題ではない。心と感情について、著者は深く考えぬいたのだろう。心の描写をゆるがせにしなかったことが本書を優れた作品に持ち上げたのだと思う。

マイクから言葉を奪った事件も本書の終わりのほうで語られる。それは、八歳の少年から声を奪うに十分な出来事だ。そんな出来事があったにも関わらず、マイクは強い。芯から強い。アクの強い犯罪者たちの間に伍して冷静に錠前破りができるほどに強い。声を出せないことがマイクをそのように強くしたのか。それとも、そのような試練に打ち勝てるだけの素質がもともとあったのか。マイクの強さと心のまっすぐさは、犯罪を扱っている本書であるがゆえに、かえって強く印象付けられた。

おそらく本書の魅力とは、マイクのひたむきな前向きさにあると思う。

‘2016/08/29-2016/09/05


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